日比野乃々美の秘密④
――為せば成る。
言われたとおり、木の後ろから回り込んで、繁みのところをほふく前進で横切って、空未が猫の鳴き声(なぜか発情期バージョン)で気をひいている隙に、気づかれることなく目的の位置に到達することができた。
百葉箱の陰にしゃがみ込み、すぐ側に立っている二人を見上げる。組み立て式の細いスチール脚なのでほとんど身を隠せてはおらず、視線を落とされたらすぐに見つかってしまうのは誤算だったが、今のところ二人はこちらに気づく様子はない。
よく見ると、俯き加減の日比野は目を閉じている。こちらとしては助かるが、一体何をしているのか。
「……まだか?」
武郷アイナがぼそっと尋ねる。印象に違わず、女性としてはやや低めで、どこか猛々しい声をしている。
間近で見上げると、こちらは遠目での印象以上に迫力のある体軀。圧倒される。
「まだ来ねえのか? やっぱりあれだけじゃ足りなかったんじゃねえのか?」
「…………」
少し苛立っているかのような口調で言葉を投げられるが、日比野は目も口も開かず、表情ひとつ動かさない。
何か決め手になるような不穏当な発言が飛び出したら向こう側にいる空未に合図を出し、先生を呼んできてもらう手筈となっているのだが、今の一言ではよくわからない。
「…………」
「…………」
しばし沈黙。先ほどの言葉からすると、何かを待っているということなのだろうか。
じっと微動だにせず俯いている日比野とは対称的に、武郷アイナはあからさまに焦れた表情と仕草をしている。
ちなみに、もし暴力行為が勃発したら、身を挺してでも止めに入り、どうにか宥めている間にやはり空未に先生を呼んできてもらう手筈になっている。
二人の間柄も、何をしているかもさっぱりわからないが、えも言われぬ緊張感は高まっていくばかり。この後何が起こるのだろうか。
「おぅい、まだなのかよぉ?」
再度尋ねる武郷アイナに、内心でほんの少し同調。
こちらとしても、何かが起きるなら早く起きてほしい。いつ見つかってしまってもおかしくない位置で、可能な限り身を縮めて息を潜めているのにも限界がある。
風が吹き、草木が擦れ合う音を立てるのに乗じ、小さく息を吐いた瞬間、日比野が沈黙を破り、そっと呟いた。
「……来そうです」
「おお!」
喜色に溢れる武郷アイナだが、一瞬鋭い目つきになったのを、僕は見逃さなかった。
何か恐ろしいことが起きる――
確信的に直感し、フライングではあるが空未へと合図を送ろうとした時、こんな言葉が聞こえてきた。
「じゃあ、脱げよ」
???
…………
!!?
僕は混乱した。最初は言葉の意味がわからず、それを理解すると同時に今度は何の脈絡もなくそんな言葉が飛び出してきたことの意味がわからずに。
しかし、日比野乃々美は何ら動じることなく、黙って自らのブレザーのボタンに指を掛け、躊躇することなく外していく。一つ。二つ。
「…………!」
突然の事態。思考が千々に乱れ、鼓動が早鐘のように強く速く打ちつけてくる。
こんなところで、こんな屋外で、あの地味で大人しい隣の席の女子が、急に脱衣しはじめた。
何してんだ。何やってんだ。何なんだこれ???
ワイシャツ姿になった日比野は、脱いだブレザーをどうするか少し悩み、百葉箱の屋根にそっと置いた。
その1メートルほど下に、荒くなった呼吸の音が漏れないよう、両手で自らの口を必死に押さえている者がいることなど露知らず、淡々とした動作で学校指定のネクタイを外し、こちらも同じところに置く。
ここで手が止まった。ここまでであれば、ただ上着を脱ぎ、ネクタイを外しただけの、特筆すべき行為ではなかった。だけどこれ以上は……
「ホレ、早く脱がねえとビリビリになっちまうぞ」
「はい……」
更にとんでもない発言が飛び出したが、日比野は素直に頷き、ワイシャツのボタンに手をかけた。
この地味な女子が開けているのを見たことない第一ボタン。
女子で開けている者は滅多にいない第二ボタン。
筋肉見せたがりの運動部男子以外で開けている者はいないであろう第三ボタン。
次々と開帳されていく。
(何やってるんですかー! 日比野さんんんー!!)
やっと出たのは心の声。当然誰にも届かない。手を伸ばせば届く位置にいる女の子にも。
一番下まで、そして袖口と、全てのボタンを丁寧に外し、ゆっくりと腕を引き抜く。先に右、次に左。
半袖のインナーシャツ姿。くっきりとわかる身体のライン。思った以上に良いスタイルの、とりわけ強調されている部位――己が魅入られたように見入っていたことに気がついたのは、彼女が脱いだワイシャツをまた百葉箱の屋根に置いた時だった。
続けざまに、躊躇なくシャツの裾に手をかけた瞬間、僕はほとんど反射的に顔を伏せ、目を閉じた。
しかしそれは失敗だったかもしれない。視界がなくなったことで、聴覚はより鋭敏になる。鮮明に聞こえてくる衣擦れの音は、すぐ側でどういう光景が繰り広げられているか想像させるに余りあった。
「うひょー、おとなしそうな顔してエロい身体してやがんなぁオイ。何食ったらそんなんなるんだ?」
馬鹿げた妄想の中にしか存在しない筈だった言葉が現実となって聞こえてくる。声の主は乱暴な男子ではなく、不良女だったが。
ここで目を開かなかった胆力は我ながら大したものだと思えるが、それを長く続けるのは極めて困難だった。次々音が鼓膜を襲ってくる。
パサッと衣類を百葉箱の屋根に置いた音。
プチッと何かを外すような音。
シュルッとまた衣擦れの音。
「おいおい、こりゃまた清楚なの履いてんだなあ。たまんねーなオイ」
不良女が発したであろう口笛の音、がさつな声。
また衣類を百葉箱に置く音。
またプチっと何かを外すような音。
「おいおいおいおい! どうなってんだよそれ!?」
驚愕の声。
「プリンプリンじゃねえかよ!?」
「あっ、ちょ、ちょっと、さわらないでください」
「だってよ、すげえぜコレ! プリンプリンなだけじゃなくて、モチモチのタユタユだぜ!!」
「あっ、こ、こんなことしてる場合じゃ……アンッ」
ついぞ聞いたことのない、そして聞くことはないと思っていた、日比野乃々美の鼻にかかった艶めかしい声。タユタユとは一体……
血涙が出そうなほど目を強くつぶり、割れそうなほど奥歯を食いしばり、必死に耐える百葉箱の下の男、つまり僕。
「ほ、本当にダメですっ。ほら、もう始まっちゃいますから!」
「お、おう、そうだな……」
何が始まってしまうというのか。なんてことを疑問に思う余裕などある筈もなかった。
心音がマックス振り切って、周囲の物音がよく聞こえなくなるが、何となく、またシュルッとパサッがあったような気がした。
ここで、二人の女生徒が発する音と声は途絶えた。
鼓動が少しずつ平常に戻ってくるにつれ、どこか遠くから鳥の鳴き声、もっと遠くから運動部の喧騒が微かに聞こえてくる。日比野も武郷アイナも何も言わない、物音も立てない。
ん……? 今どういう状況?
クエスチョンマークが浮かぶ。
ひょっとして二人ともどこかに行ったのか? いや、まさか……
恐るべき可能性に思い至る。
……もしかしたら、見つかったんじゃないのか? 百葉箱の脚元で、隠れてるとも言えない状態でしゃがみ込んでいる男子生徒を発見し、悲鳴も怒号も忘れ、二人絶句してるんじゃないのか?
だとしたらヤバいなんてもんじゃない。屋外で脱衣することの是非はさておいて、それをすぐ側に潜み、黙って見ていることはのぞき行為以外の何物でもない。必死に目を閉じて見ないようにしていましたなんて言っても誰も信じてくれないだろう。
僕は恐る恐る――どうか二人が白い目でこちらを見ているなんてことのないようにと祈りながら――ゆっくり目を開いた。
「…………」
目を強く閉じていたためか、一瞬視界がぼやけたが、すぐにピントが合う。
幸い、二人はこちらには顔も目も向けておらず、じっと正対していた。
この時の自分の姿を自分で客観視することはできないが、もしかしたら目玉がスパイラル状に飛び出していたかもしれない。
「あ……始まります」
白く透き通るようなその肌は、陽光を浴び、目映いばかりに輝いている。
日比野乃々美は全裸だった。