日比野乃々美の秘密③
我々の通う私立定塚高等学校は、かつては県内でも有数のマンモス校だったそうで、敷地はそれなりにだだっ広い。
主に僕ら普通科の生徒が使用している本校舎と、特進科の生徒が使用する南校舎を繋ぐ渡り廊下を横切り、中庭を抜け、図書館の裏手をずんずん歩いていったところに、今よりずっと多くの生徒数を擁していた頃に使用されていたという東校舎――通称旧校舎が建っている。
その旧校舎の更に裏側、生い茂る草木の手入れもほとんどされていない場所に、武郷アイナと日比野乃々美は立っていた。
「ちょっと、ヤバくない? こんなところまで来ちゃってどうすんのよ?」
「どうすんのって言われても……」
傍らの空未に問われるが、明確な回答を返すことができない。
実際、慌てて駆けつけたものの、全くのノープランだった。幸い二人の他には誰の姿も見当たらず、空未が心配(というより妄想)していたような不埒な出来事は起こりそうもないが、学内一の不良生徒に人気のないところに連れてこられた時点で只事でないことに変わりはない。
カツアゲとかヤキ入れとか、いくつかこれから起こる出来事の想像はしていても、それらへの有効な対処は打ち出せていないまま、とりあえずは十数メートルほど離れた物陰から様子を窺っている次第だった。
「ねえ、見つかったらヤバいって。メタギタにされちゃうわよ」
メタギタというのがどのような状態なのか気にはなったが、確認している余裕はない。ある程度距離をとって声を潜めているとはいえ、あまり喋っていると気づかれる恐れがある。
僕は特にコメントせず、正対している二人の様子をじっと窺い続ける。
「ねえ聞いてるの? アンタ武郷先輩のヤバさをわかってないんじゃない? あの人が他校の不良たちに何て呼ばれてるか知らないの?」
「……何て呼ばれてるんだよ?」
仕方ないので応接すると、空未は畏れと恐れを込めた視線を、身の丈180センチほどはあろうかという不良女子へと向け、身震いしながら説明した。
「あの燃えるような赤い髪、そしてその圧倒的な戦闘力と、情け容赦ない戦いぶりからこう呼ばれているらしいわ……」
ごくっと唾を飲み込む音がこちらにも聞こえる。
「定塚高の……『赤くて凶暴な怖い悪魔』と……」
「赤くて凶暴な怖い悪魔……」
その二つ名をぽつりと復唱する。
「……なんか長いし語呂悪いな。『赤い悪魔』だけで良くないか?」
「何バカ言ってんのよ。海外のサッカーチームじゃあるまいし」
こっちが変なことを言ったことにされてしまい、納得はいかなかったが、抗弁している場合でもない。
観察を再開したところ、日比野と赤い中略悪魔とは、何やら会話を交わしているようだった。
「何、話してるんだろ?」
「さあ……」
こちらまでは、彼女たちの声は届いてこない。元々、声のボリュームがかなり小さい(ので教室での度々の失態も僕以外にはなかなか気づかれない)日比野はまあわかるのだが。
「一人で百人以上の不良を相手に、橋の上で大喝して戦意を喪失させたと言われている武郷先輩まで小声で喋っているなんて……よほどヤバい話してるのかしら」
「そんな武力90台後半の武将みたいな逸話まであんのかよ……」
それにつけても高一の四月にして事情通なことだ。僕とは違って高水準のコミュニケーション能力を有するコイツには様々な噂話が入ってくるのであろう。
そんな我が幼馴染が提案してくる。
「ねえ、やっぱり先生呼んできた方がいいんじゃない?」
「そうは言っても……まだ何かが起こったわけじゃないからな」
現段階で職員室に駆け込んだところで、伝えられるのは『2年の武郷さんと1年の日比野さんが旧校舎の近くで会話をしています』という事実のみ。それで動いてくれる教員はおそらくいないだろう。それどころか、面倒事が発生する前に避難すべしと、可及的速やかに退勤してしまうかもしれない。
「それもそうよね……さっさとボコっちゃえばいいのに」
「えっ?」
「冗談」
こんな時に冗談が言えるとは、空未さんも存外余裕であらせられるようだ。真顔だったけど。
「うーん、せめて二人が何を話してるのかわかればいいんだけど。何かしら不穏な言葉――『ウリ』とか『クスリ』とか『殺戮遊園地』とか『落武者狩り放題ツアー』とか聞こえてきたら、先生を呼びに行く理由になるのに……」
「……確かに不穏ではあるが、それを聞いた先生たちは、関わり合いを回避するために全力を尽くすような気がするぞ」
「ねえセイヤ、何とかしてあそこまで行けないかしら?」
こちらの指摘は聞き流し、空未は日比野たちがいるすぐ側にある、もうとっくに使用されていないであろう朽ちた百葉箱を指差した。
「ホラ、あそこの木の後ろから回り込んで、あの繁みをほふく前進で横切って、あの何もないところは空気と一体化して横切って、百葉箱の後ろに隠れることができれば二人の会話が聞こえるんじゃない?」
「……不可能と思われるミッションが混ざってなかったか?」
「不可能だと思うから不可能になるのよ。不可能なんて無いと自分に言い聞かせれば、本当に不可能なこと以外は可能になるものよ」
「やっぱり不可能なもんは不可能なんじゃないか」
「あっ、メガネとった!」
僕はもちろん、思わず声のトーンが上がってしまった空未自身も慌てふためくが、幸い向こうの二人には気付かれなかったようだ。
人差し指と表情とで『でかい声出すなバカ』と空未に伝え、二人の方を見ると、確かに日比野は眼鏡を外して、武郷アイナに手渡していた。
へえ、眼鏡してないとああいう感じなんだ……
「ねえ、いよいよヤバいんじゃない?」
別にノーメガネの日比野に見惚れていたとかでなく、いつもと違う物珍しさゆえに少しだけ見入っていた僕の脇腹に肘を入れてきて、空未はここに来てから五回目か六回目ぐらいの『ヤバい』を口にする。
語彙力のないヤツだなと思いつつ、ヤバがってる幼馴染の言を聞いてみる。
「メガネ女子が家以外の場所でメガネを外すのは、キスする時か、ひっぱたかれる時か、お調子者にちょっと掛けさせてと頼まれて、断ったら空気が悪くなりそうな時のどれかって決まってるの」
そうだろうか。他にもありそうな気がするが。プール入る時とか、目薬さす時とか。
なんてことを思うが、敢えて口を挟むほどのことではない。
「そして、武郷先輩に眼鏡をかけてみる様子はない……となると、顔をはたかれるか唇を奪われるかのどっちかよ。どっちだと思う? どっちが見たい? ビンタorチュウ?」
何故だか興奮気味の空未の問いにノーコメントを決め込んでいると、武郷アイナに動きがあった。受け取った眼鏡をスカートのポケットにしまうと、何やら腕を大きくぐるんぐるん回したり、脚の屈伸をしたりして、続けてシャドウボクシングのような動作をしている。
「これは……喧嘩の前のウォーミングアップだわ。惨劇の幕が始まるわよ」
「……」
言葉の間違いはまあ置いとくとして、その光景には違和感があった。
武郷アイナの様子は、まるで強敵と戦う前に入念に準備運動をしているアスリートのような雰囲気である。
目の前にいるのは、闘争とはおよそ無縁であろう女子生徒であって、準備運動なぞせずとも何かの片手間で簡単にひねりつぶせそうな相手なのだが。
それを話すと、空未も首を傾げる。
「……もしかして日比野さんって、品行方正な優等生なのは世を欺く仮の姿で、メガネを外すことにより封印が解けて鬼のように強くなっちゃう系の人なのかな?」
「……そんな系統があるのかよ」
相変わらず妄想たくましいことである。ちなみに『品行方正な優等生』は『地味でどんくさい女生徒』と添削すべきなのだが、この際どうでも良いので口を閉ざしておく。
当の日比野乃々美は、準備運動めいた動作をする武郷アイナに何かを言われると、スカートのポケットに手を入れ、すぐに取り出した手を自らの口の辺りに当てた。
「ん? 今何か食べてた?」
空未がそう言ったが、一瞬のことでこの位置からではよくわからなかった。確かに何かを口に入れたようにも見えた気がするが。
そして、引き続き準備運動めいた動きをする武郷アイナを、日比野は棒立ちでじっと見つめている。その横顔からは何も汲みとれない。特に何も考えてなさそうでもあり、これから起こる何かに怯えているように見えなくもない。
「……よし」
「ん?」
「あそこまで行ってみる」
僕は決意をし、百葉箱を指差した。
「えっ? 何言ってんの? そんなの無理に決まってるじゃない?」
「さっき自分でルートを提案してきただろうが」
「あんなの、ちょっとふざけてみただけじゃない」
臆面もなく言いやがった。
「さすがに空気と一体化する特殊能力は持ち合わせてないんで、僕があそこの繁みまで着いたら、何か物音立てて二人の気をひいてくれよ。その隙に百葉箱の所までササっと移動するから」
「えっ、イヤよ。あたしが気づかれちゃうじゃない」
「そこは、猫の鳴き声かなんかでうまくごまかしてくれよ。失敗したら全速力でエスケープ」
「えー……」
さすがに躊躇を見せる。まあ我ながら無茶な要求ではあるのだが。
「ほら、お前って綺麗な声してるから、猫の声真似もすごい上手いと思うんだよ。あの二人もきっと騙されるんじゃないかな。むしろ聞き惚れちゃうかもしれないぞ」
「えー、そおかなー? そんなに自信ないけど、そんな言うならやってみようかなー?」
一変、満更でもなさそうな顔と声。簡単なヤツではある。
「でも……」
話がまとまり、一歩を踏み出しかけたこちらの袖を引き、空未は彼女らしからぬ弱気な声音で尋ねてきた。
「本当に怖くないの?」
愚問だった。怖いに決まっている。
言うまでもなく、なるべくこんなことに関わりたくない。血なまぐさいトラブルは全力で回避し続ける人生航路を送っていきたいと思っている。日比野とは隣席のよしみがあるとはいえ、逆に言えばそれだけの間柄であり、特段親密にしているわけではない。
「うーん……」
少し考え、僕は怖いか怖くないか答える代わりに、斜めの角度をつけてこう言ってやった。
「おっぱいの大きな子が好みなもんでね」
そして背を向ける。
決まった。控え目に言って超カッコイイ。
緊張を程良く緩和させる軽妙洒脱なイカす台詞(しかも語尾の『もんでね』が掛詞になっている)に、いかにガサツなコイツでもさぞ痺れていることだろう。
チラッと横目で見たときに、馬鹿な男子にくだらなくてしょーもなくてアホらしいことを言われて、呆れ果てたかのような冷たい表情をしているように見えたのはきっと気のせいだろう。
僕は一歩を踏み出した。後に激しく後悔することになる、取り返しのつかない一歩を。