日比野乃々美の秘密②
クラブ活動へと向かった日比野乃々美を見送り、帰宅部たる僕は当然ながら帰宅の途へとつくのだった。
放課後の校舎内は、朝のホームルーム前や休み時間とはまた違った活気で満ち溢れている。
とはいえ、その雰囲気を醸成している生徒たちのほとんど全員が僕とは関わりのない人たちであって、そんな異世界のような空間を特に違和感も嫌悪感も、もちろん多幸感の類も一切なく、ただフラットな心持ちで毎日こうして廊下を往来していることが何だか不思議な気がする。
「ねー、セイヤさ〜」
こちらがアンニュイな物思いをしていることへの忖度など一切なく、傍らにいる転河空未はいつもどおりの馴れ馴れしい口調で話し掛けてきた。
ちなみに、この女も僕同様に部活には入っていない。てか登校してきて、まず最初にブレザーからジャージに着替えるような奴は運動部であれよ。
「おっぱい大きい日比野さんになんかお礼言われてたけどさ〜」
「……特に親しい関係性ができあがってるわけでもないクラスメイトにそんな形容詞を付けるな。面と向かってじゃなくても普通にセクハラだぞ」
「えー、褒めてるんじゃん。それも最大級に讃美してるんだけど」
「だったら」
高校一年女子の平均よりひと回りは小柄な体軀をしており、特にとある部位については二回りも三回りも小ぶりではないかと思われる我が幼馴染みを見下ろし、言ってやる。
「『おっぱい大きい転河さん』って言われたら、お前は嬉しいのか?」
「おっと、それは宣戦布告と受け取って良いのかな?」
気色ばみ、ファイティングポーズなぞとってみせる。ショートヘアーにジャージという活発そうな見てくれがその仕草にマッチしており、割と様になっている。
まあ実際、幼少期より運動能力は高いヤツなので、本気で怒らせたら僕などは逃げるほか方策を持たない。
「まあ、そんなことはさておいて」
幸い、僕をガチンコでやっつける気はないようで、ポーズを解くとその瞳が戦闘色から好奇色へと変わる。そんな色あるのかは知らないが。
「セイヤってば、何かあの子にお礼言われるようなことしたの? 何したの? いつしたの?」
正直に宿題見せてやったと説明することが、彼女から優等生キャラという鍍金を不必要に剥がす行為に思え、返答に迷っていると、空未は勝手に「ハハーン」などとしたり顔になった。
「さては、付いてもない埃をとってあげるフリして、感謝をせしめると同時に、合法的に女子の肩鎖関節におさわりするという例の戦法を使ったのね!」
「何だそのセコい痴漢行為は! しかもちょくちょくやってるみたいな言い方をするな!」
「えっ?」
適切な突っ込みを入れてやったというのに、何故か空未は愕然とした表情を浮かべる。
「せ……セコくない痴漢行為こそが男子の本懐だと言いたいわけ?」
「断じてそんなことは一言も言ってない!」
本気で一発殴ってやろうかという思いがよぎるが、何とか押し殺す。
そんな葛藤も斟酌してくれることなく、空未は平然と日比野乃々美の話題を継続する。
「ま、仲良くするのも結構だけど、あんまりちょっかい出して勉強の邪魔しないようにね」
「勉強の邪魔ねえ……」
見当違いの忠告に思わず苦笑してしまう。
「何笑ってんの?」
「いや、別に」
「……」
訝しげにこちらの横顔を見やってくること数秒、どことなく含みありげな口調で言ってきた。
「……ま、でも気をつけた方がいいかもね。ああいう真面目そうな子に限って、ホントは猫かぶってて、実は魔性のオンナだったりするんだから。おっぱい大きいし」
全般的に余計な台詞ではあるが、特に最後は極めて余計であり、おまけにしつこい。そんなにその身体的特徴に対して思うところがあるのだろうか。羨望とか反感とか。
そこを突くと高確率で地雷を踏み抜いてしまう気がしたので、指摘は別の部分に留めておく。
「どしたんだよ悪口言って。あんまり仲良くないのか?」
「えっ? べ、別に悪口なんか言ってないじゃん。ただ、世の常というか、そういった事もちょくちょくあるらしいから……」
どうしてか歯切れが悪くなる。
「そういえば、中学の時、僕と日直が一緒だった山田さんのことも同じように言ってたよな。あと小学生の頃に一緒にウサギの飼育係やってた田山さんにも。前々から思ってたけどそういうのイヤな奴みたいで感心しないぞ」
「…………」
何か反論してくるかと思いきや、黙って俯いてしまう。
「ま、まあ、お前がそういう誤解されたりしたら、幼馴染の僕としても本意ではないというか……」
言い過ぎたかと思い、どうにかフォローしようとする僕に、空未は『キッ!』と効果音でもつきそうな勢いで険のある表情を向けてきた。
「セイヤのバカっ! トンマ! オタンコナス!」
「オタンコナス?」
よほど気に障ったのか、顔を紅潮させ、やけにレトロな憎まれ口を浴びせてくる。
「まるでアタシがアンタと仲良くしてる女の子にやきもち焼いてるみたいな言い方して! 勘違いしないでよねっ!」
「いや、そんなつもりなかったけど……」
「この自意識過剰のスケベ人間! セイヤなんてもう知らないっ! 存じ上げない!!」
どうやらうっかり地雷を踏み抜いてしまったらしい。空未は言われなき誹謗中傷をわめき散らすと、プイッと横を向いてしまう。
「いや、あの……」
そこまで怒らんでも。
とも言えずに、掛ける言葉に窮していると、窓の外に向けていたふてくされ顔が急に何かを発見した表情に変わる。
「……あっ!」
「ん?」
窓にへばりつくようにして外を窺いだす。
「どうしたんだ?」
「見てよ。ほら、あそこにいる人たち」
空未が指さす方向を見ると、中庭を二人の女生徒が歩いていた。
「あれって……」
「ああ……」
二階の窓、つまり斜め上方から地上を見下ろす形なので、顔まではっきり認識できるわけではないのだが、その一人は見本通りに制服を着用し、地味な黒髪、地味な眼鏡――つい今しがた話題の対象となっていた日比野乃々美に他ならなかった。
そして問題なのがもう一人。
「武郷、先輩……」
こちらこそ一目瞭然、仮に屋上からであっても見間違えようがないだろう。
女子としては平均身長ほどであろう日比野よりも、頭ひとつ以上高い背丈、それを更に大きく見せるがっしりとした体躯、そして何よりも特徴的な、無造作にザクザク切ったかのような、肩ほどまでの赤い髪。
直接の知見はなくとも、武郷アイナという二年の女生徒のことは、この学校の者であれば誰もが知っている。札付きの――というより、貼られた札をひっぺがして相手の口に突っ込んで声を出せないようにしてから、ボディを殴るような悪であるという。
「日比野さん、何であんな人と一緒に……」
空未がつい今しがたまでのテンションとは打って変わって心配そうにしているのも、むべなることだった。不良界隈に知り合いなどいない僕ですら、武郷アイナについて伝え聞いた武勇伝は数多く存在する。
幼少の頃より喧嘩に明け暮れ、その勝利数は四千以上を数え、勝率は十割だとか。入学したその日のうちに校内の不良・ヤンキーを全てシメてしまったとか。近隣どころか県外までその威名が轟いているとか。
そんな最強番長的な人物と、見た目品行方正、悪く言えば地味で目立たない日比野とは、確かに誰がどう見てもアンマッチな組合せであるだろう。
「旧校舎の方に歩いてってるけど……」
確かに、胸を張り大股で歩く武郷アイナと、その傍らでうつむき加減の日比野は、今ではほとんど使われることのない旧校舎の方角に向かっている。
会話の有無や細かい表情を見てとることはできないが、これから人気の少ない場所で仲良く秘密のガールズトーク、といった雰囲気にはとても思えない。
程なく、二人の姿は建物の陰へと消えて見えなくなった。
「……どうしようセイヤ? 日比野さん連れてかれちゃったよ!」
「ああ……」
当然ながら日比野は不良に目をつけられるようなタイプではない。想像するに、そのどんくささゆえに肩でもぶつけてしまい、絡まれたといったところだろうか。
何にしても、人気の無い場所へ連れていかれたとなるとただごとではない。
「ねえっ、これヤバくない? 日比野さんカツアゲされたり、ヤキ入れられたりしちゃうんじゃない!?」
「……」
「それどころか、武郷先輩の子分の男たちが待ち構えてて、りょ……凌辱されちゃったりとか……」
「想像力の豊かなヤツだな」
とはいえ「そんなことあるわけないだろ」とも断言はできない。
どうしよう。どうすべきか。何も見なかったことにして下校するのが賢明なのかもしれない。しかし。
「きっと、けだものような男たちが寄ってたかって……
『へへっ、おとなしそうな顔してエロい身体してやがるぜこの女!』
『おいおい何だこりゃ? 無理やりされて感じてんじゃねえのか?』
『うほほ極楽じゃ。いい冥土の土産になるわい』
……なんて感じで凌辱の限りを尽くされるに違いないわ!」
「想像力が豊かすぎる! つーかひとり老人が混ざってなかったか?」
いくらなんでもここは学内だ。悪くともちょっとお金を巻き上げられたり、ちょっと小突かれる程度だろうとは思うが……思うのだが。
「あっ、ちょっとセイヤ! どうすんのよ!?」
背中にぶつかる空未の問いかけに答えている暇はない。
運動部でない僕が、放課後に全速力で走るのは初めてのことだった。