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日比野乃々美の秘密①

 この学校に入学して一ヶ月弱経つ今現在、日比野乃々美(ひびのののみ)は物静かで勤勉な優等生であると、まだ(・・)多くの者にみなされていた。

 常に生徒手帳の一ページ目に載っている見本通りにブレザーの制服を着用し、休み時間は大体自分の席から動かず、何をするでもなく一人静かにそこにいる。

 僕も彼女の第一印象は「すごく真面目そうな人だなあ」だった。眼鏡かけてるし。大抵のクラスメイトは同じような所感を抱いているであろう。

 しかし、隣席に配置されてほどなくして、僕はこの女子の正体に気づいていた。というより、否応なく気づかざるを得なかった。


「あれっ?」


 口を開けたスクールバッグの中を見つめること数秒、彼女は微かな声をあげた。

 動揺した様子で、ガサゴソとバッグの中を物色しはじめる。


「あれれれれれ?」


 またか、と思った。

 隣席の女子は、ブックカバーのかかった本やら弁当らしき包みやらその他学業に関係ありそうな物なさそうな物、一度その中身をすべて机の上に出し、鞄を漁っていたが、程なくしてかすれる声で呟いた。


「まずった……」


 数秒の静止の後、首だけをスローモーションで動かして、蒼ざめた表情をこちらに向けてくる。


「宿題……家に置いてきちゃった」

「またかよ?」


 今度は思いが口に出る。

 日比野乃々美は人生最大のトチリをやらかしたかのように顔面蒼白になっているが、こちらとしては日常茶飯事というか恒例行事というか。隣の席になって以来、今の台詞を聞いたのが幾度目か片手では数えられないほどである。


「いや、やってきたの! 夜中の9時まで掛かって、ちゃんと全部やったんだから! そのノートを机の上に置きっぱなしにしちゃったの!」


 こちらの視線を疑いの眼差しと捉えたのか、口から泡を飛ばす勢いでそんなことを言ってくる。てか9時が夜中って。普段何時に寝てるんだ。


「わかったわかった、別に疑ってないから」


 手の平をパタパタさせて適当にいなすこちらを、今度は切なげな上目遣いで見つめてくる。


「それで、その、そういうわけだから……もじもじ」


 右と左の人差し指どうしをツンツンしたりしている。


「あなたさまがやった宿題を……見せてもらえると、とても幸せかなー……なんて思う、今日この頃でございます」

「何でだよ? まだ5分は休み時間あんだから、今からやればいいだろ。一回は解いた問題なんだから簡単だろ?」


 そんな言葉を返してみると、日比野乃々美は狐につままれたように目を丸くした。


「えっ? 一回やったからって、答えを覚えてるわけないじゃない」


 大真面目な顔つきである。


「それに二度目とはいえ昨日2時間以上かかった宿題をたったの5分でやれだなんて、いくらなんでもブラックすぎるんじゃない!? 水原くんがブラック男子だったなんて!」

「誰がブラック男子だ」


 初めて耳にした言葉だったが、とりあえず否定しておく。

 それにしても、あの程度の量の宿題に2時間かかるというのは俄かには信じがたいのだが、日比野乃々美ならばさもありなんとも思えてしまう。


「あっ、そういえば!」


 ふと何かに気がついたような表情と声と台詞。


「こんな時のためと思って何か対策を用意していたような……」


 ブレザーの胸ポケットに指を入れ、何やら紙切れを取り出す。


「これよこれ。宿題忘れ対策のために寝る前に用意してたんだった。えらい! 昨日のあたし! タイムマシンがあれば褒めに行ってあげたい!」


 はしゃいだ声を出しながら四つ折りの紙切れを開いていく。横から覗き込んでみると、その紙にはこう書いてあった。


『しゅくだいわすれずにもっていく!』


 その平仮名15文字と感嘆符を見つめ、またしばし静止したのち。


「おうち出る前に見ないといけないやつだったぁぁぁ!!」


 のけぞって絶叫なさっておられる。

 こんなごく短いやりとりでも、もうおわかりだろう。

 見本どおりに制服を着用し、地味な黒髪を地味なゴムでまとめ、地味な眼鏡をかけた、おとなしく真面目な優等生然とした出で立ちのこの地味な女子生徒は、見た目とは裏腹に類稀なるアホ……いや安易なレッテル貼りは良くないだろうか。

 こちらが内心で幾ばくか気を遣っていることなどつゆ知らず、一人で喚き、右往左往している。


「ああっ、よく見たら教科書も持ってきてない! 隣のクラスに借りにいかなきゃ! でももうチャイム鳴っちゃうかな……でも隣の教室にサッと行って戻ってくるぐらいの時間は……ああっ! でも隣のクラスに知り合いがいない! 詰んだ!」


 両手で抱えた頭をぶんぶん振り回している。

 つまりはこういう女子生徒なのだった。




 窓から差し込む陽光を受け、キラリと光る眼鏡の向こうに、どこか眠たげな瞳。よく見ると意外と長い睫毛。時折上瞼と下瞼がくっついてはまた離れる。それを何度か繰り返し、やがてそっと閉じられる。もう開く様子はない。

 ……どこか眠たげというより、単純に眠たかったらしい日比野乃々美はあっさりと睡魔に敗れ、小さく船を漕ぎはじめた。

 授業時間をほぼ丸々使ってこちらの宿題ノートをルーズリーフ(これも持ってなくてこちらが融通してあげた)に写し終え、残り数分は授業に集中するかと思いきやこれである。


「ぐーすかぴー……ぐーすかぴー」


 目を閉じてから、気持ちよさそうに寝息を立てはじめるまで6秒ほど。睡眠にかけては天賦の才能を持ち合わせているようだ。

 その無防備な寝横顔をしばし眺めていると、口元からよだれが一筋。


「むにゃむにゃ……もう食べられないよう」


 それはもう少し恰幅の良い者が吐くべき寝言じゃないのか。彼女はどちらかといえばスレンダーな体型をしている。それでいて出ているところは……

 思わず彼女の首から少し下のあたり、呼吸に合わせて微かに上下している部位を凝視しそうになっている自分に気がつき、慌てて目を逸らし、首を横に振る。


「あーん、ケーキに羽が生えて逃げてくー」


 幸せな午睡の時間は僅かだった。授業終了を告げる鐘が鳴り、日比野乃々美は瞼を開いたが、残存している眠気と戦っている様子で、伸ばそうとした背中をまた丸めてウトウトしていたりする。よだれを拭け、よだれを。

 6限は担任教師の授業だったため、そのまま帰りのホームルームに入った。あれやこれやと伝達事項が述べられるうちに、隣席の女子は少しずつ覚醒してきたようだった。

 宿題を教卓に置いてから帰宅するよう言い渡されると、彼女は机に置いたままだったこちらのノートも一緒に持って立ち上がった。


「今日はありがとう。助けてくれたお返しに私が出してくるね」


 宿題を見せることと、ノートを提出しに行くことが等価交換とは思えないが、彼女の屈託のない笑顔を見ると、まあいいかと思える。


「それにつけても、さすが水原くんだね。何だか全問正解してそうなオーラが漂ってたよ。あっ、私なんかがこんな完璧な解答で出しちゃったら自分でやってないってばれちゃうかな?」


 それはおそらく大丈夫だろう。これまでの傾向からすると、かなりの割合で写し間違えた箇所がある筈だ。

 ホームルームを終えると、教室は瞬く間に放課後の喧騒に包まれる。

 あちこちから湧き上がるお喋りの声と、椅子や机を動かす物音でガヤガヤする中、僕は何人かのクラスメイトに軽い身振りで挨拶をし、教室の外へと向かった。

 部活にも委員会にも入っておらず、ダラダラ何となく放課後を学校で過ごす趣味もない身としては、一日の課程を終えたら真っ直ぐ帰るのみ。

 であるのだが、教室の敷居をまたぎ廊下に一歩出たところで、後ろからガサツに肩を叩かれた。


「ちょっと〜、セイヤ〜!」


 振り向くと、そこにいたのは転河空未(てんかわそらみ)だった。元より僕のことを下の名前で呼ぶのなんてこいつぐらいしかいない。

 髪は栗色のショートボブ、上はブレザーから学校ジャージに着替えており、下は膝よりだいぶ上にスカートの裾。私は活発系女子ですと全身で主張しているかのような出で立ちをしている。


「相変わらずさっさと帰るのね。このアタシに挨拶もなく」


 うぜえな面倒くせえな、という思いを表情に出さないようにする努力は一切しなかったのだが、それで空気を読んでくれるようなヤツではない。


「そういえば中学の時『オレはただの帰宅部じゃない、【直帰部】だ。なんぴとたりともオレより先に校門をくぐることは許されない』とかドヤ顔で言ってたもんね。恥ずかしいよねー、言葉の意味も間違ってるし」


 ニヤつきながら人の黒歴史をえぐってくる。

 この鬱陶しくもありうざったくもある女子生徒との関係性を表現するなら、幼馴染みオブ幼馴染みとでもいったところか。物心ついたときにはお互いの存在を認知しており、幼稚園から高校までずっと同じなのだからそれはもう筋金入りである。家が隣同士であることは言うまでもない。


「そんなことより、見てたわよセイヤ。日比野さんと随分楽しげにおしゃべりしてたじゃない? なに喋ってたのよ、ウリウリ」


 幼馴染らしい馴れ馴れしい口調で、幼馴染らしく肘でウリウリしながら、幼馴染ならではの無遠慮な質問を投げかけてくる。

 それでいて、こちらの回答を待たずに畳みかけてくる。


「しかもその後見つめちゃったりして。このスケベ!」

「誰がスケベだ。人聞きが悪いことをでかい声で言うな」


 全く思い当たるところがない侮辱的発言に対し、明確に否定と注意をしておく。

 しかし空未は聞く耳持たず、声のボリュームも落とさず、己自身がエロ目になってそれをこちらに向けてくる。


「ふーん、そっかぁー。セイヤってああいう子がタイプだったんだぁ。そうよね、一見地味だけどよく見たら結構かわいいし。それに……」


 ここで言葉を少し溜めて、ますますエロ目を輝かせる。

 もし長い付き合いがなかったとしても、次に何を言ってくるかは大体想像できるだろう。


「実はおっぱい大きいもんね!」

「だからそういうことをでかい声で言うな!」

「痛っ!」


 日比野よりは明らかに標高の低い己の胸部を寄せ上げるようにして放言する幼馴染に懲罰のチョップをお見舞いし、速やかにその場を離脱しようとしたが、今度は別の声に呼び止められた。


「あっ、水原くん」


 話題の主である日比野乃々美その人だった。


「今日は本当にありがとう」

「おう」


 改めて丁寧に頭を下げる日比野に、僕は軽く手をあげて答えた。傍らから注がれる好奇で下品な視線はもちろん黙殺である。


「水原くんはこれから部活?」

「いや……部活入ってないから。もう帰るとこ」

「あー帰宅部なんだね。でも授業終わってこんなすぐに帰るなんて、帰宅部っていうか【すぐさま帰る部】って感じだね」


 しっくり来ないながらも、言葉的にはこちらの方が正しいのが何だか悔しい気がする。


「日比野さんは何か部活入ってるの?」


 この機会にお近づきという目論見でもあるまいが、横から空未が尋ねる。


「ううん。私は部活じゃないんだけど、クッキングクラブに……あれ? クラブ? クラブ?」


 正しい発音がわからなくなったらしい。


「クラブに入ってて」


 最終的にノリノリの人々が音楽に合わせて踊ったりする場所の方のイントネーションで言う。

 そんな通り一遍の世間話を終え、てこてこと廊下を歩き去っていく後ろ姿がだいぶ小さくなったところで、空未が軽く吹き出した。


「クラブだって。もしかして怪しいクスリでもやってたりして」

「何言ってんだ、バカ」


 あの女子のこと、きっと砂糖と塩を間違えたり、鍋の底に穴を開けたり、オーブンから炭化した物体を取り出したりといった、健全で楽しいクラブライフを送っていることだろう。多分。


「それにしても、あんな真面目な優等生なのに、ちょっと天然なところもあるのがまたキャワイイよねー。ギャップ的な?」


『優等生』と『ちょっと』という文言は削除すべきとの指摘はしない方が良いだろう。

 悪口みたいになりかねないし、まだ多くの者が気づいていない彼女の一面を、自分は知っているという状態は何というか、そんなに悪い気はしない。


 ――この時、まだ僕は知らなかった。


 彼女にはギャップなどというようなレベルではない、途方もない秘密があることを。

 そして、ほどなくして僕がそれを知ることになり、馬鹿馬鹿しくも恐ろしい、悪夢ともいえる日々が始まることを。

 のんびり歩いていく日比野乃々美の後ろ姿は、廊下の角に消えていった。

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