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ぜんぶこの男のせい(保育士編)

作者: 小柴

「小説家になろう」初投稿です。よろしくお願いします。


 いつも困った表情をしている男だった。

 ぬっと差し出された紙袋に立香は顔をしかめた。こんなものを渡されているところを見られたら、もっと噂になってしまう。

 立香に紙袋を差し出す男はグレーのスーツを着ていた。仕事でよほど疲れたのか、ネクタイを緩めている。きちんと整えれば街ゆく女性たちの熱視線をあつめそうな精悍な顔立ちは目の下に隈ができていた。


 毎日、男は保育園がしまる最後の数分前にならないと娘を迎えに来なかった。でもかならず保育士たちと娘に迎えが遅くなったことを詫びた。

 伸びすぎてから切る髪やしわの入ったシャツを見ると、家事と仕事の両立がたいへんなのだろうと思う。同情した立香は「今日もマミちゃんはおりこうでしたよ」と朗らかに話したりした。

 こんなふうにくたびれた姿も好感をもって見ていたのだが、今はその姿がだらしなく配慮が足りないように映る。

 この男のせいで立香は保育園をクビになりかけているのだ。



 どこから出た写真か分からなかったが、立香と男のツーショット写真が保育園のママたちの間で広まっていた。

 笑顔で話しながら腕に触れている写真、ぐうぜん繁華街で会ったときの、デートのように密着している写真──…どれも身に覚えのないもので、影の位置が不自然だったり、間にいた人が消されたり、悪質な加工がされていた。

 それをメールで丁寧に説明し、誤解を招いたこと謝ったが、かえってわざとらしいと保護者の不信を招いた。

 強い発言力を持つ数人のママが「保護者に色目をつかう保育士に子どもを任せたくない」と言いふらしているらしい。おさまらなかった時はごめんね、と暗に立香のクビを示した園長に、立香の失望と怒りは紙袋を差し出す男に向かうしかなかった。


「結構です。こういうものを貰ったらいけないので」

「でもご迷惑をおかけしていると聞いて──…」


 男はなかなか手を引っ込めなかった。いつもねぎらうような立香の声色が、固くこわばったものになっていることに気づいて、男は緊張した状態で立ち尽くしている。

 そう思うなら、あまり関わって欲しくないのだ。向き合っている数秒の間にもシャッターを向けられている気がして神経質になる。配慮が足りない。謝るならネクタイぐらいきちんと締めてほしい。


「マミちゃんが待っていますよ」

と早々に話を切り上げようとした立香に、では職場の皆さんで召し上がってください、と困りきった表情で立香の手をつかみ紙袋を握らせた。

 娘を抱えて小さくなっていく男の背中を見送りながら、立香は「八つ当たりなんて最低だ」と自己嫌悪で歯を噛みしめた。

 男になんの罪もないことは分かっている。握られた手の感触が生々しく残り、同じように手を握られたときのことを思い出していた。






 保育園にマミがやってきたのは2年前だ。そのころ立香は保育士になって1年目で、ささいな子どもの喧嘩や、保護者への連絡ミスなどで手一杯になり、自分が保育士に向いていないのではないかと落ち込んでいた。

 マミは大人しく聞き分けのいい子どもだった。先生たちにお願いするときも他の子が聞いてもらってからで、立香は心配して「マミちゃんはどう?」と積極的に聞いた。

 それがどうやら気に食わない子もいたらしい。甲高い叫び声を聞いて、急いで駆けつけたときには、男の子が手を振り下ろしたあとだった。叩かれたマミは膝をついて血がにじんでいる。

 ほかの保育士が男の子を叱っている間に立香はマミを抱き上げて、「だいじょうぶ、だいじょうぶね」と背中を撫でた。マミは大声で泣きわめいたりしなかったが、水道をひねって傷口についた小石を流したときは、痛みを堪えきれなくて涙がぶわっと溢れた。

 抱き上げたまま背中をとんとんたたいていると、泣き疲れたのか、やがて体が重たくなって瞼が閉じる。ゆっくりとお布団に下ろし、眠りにつくまでそばにいてあげた。


 そんなことがあってから、他の子が帰ったあとマミは立香にべったり甘えるようになった。家から人形を持ってきて「おともだち」を紹介してくれたり、恥ずかしそうに「せんせえのえ」と似顔絵を描いてくれたり。かわいらしくほっぺたを赤らめて抱きついてくるマミは、自信を持てなかった立香に癒しを与えてくれる存在だった。

 そのときすでに最後の常連になっていた男は、べったりと立香に甘えている娘の姿を見て驚いた。


「マミ、遅くなってごめん。パパと帰る支度をしよう」

「やだ。せんせえと一緒にいる」

「マミちゃん、明日も会えるよ。おうち帰ろう?」

「せんせえも一緒じゃなきゃやだ」


 首に固くしがみついて離さない彼女を抱え、男の車まで連れていくこともしばしばだった。最後までぐずるマミの脇腹をくすぐり、笑いながらようやく離してくれた彼女に、じゃあね、と手を振る。


「また明日ね、マミちゃん」

「いつも申し訳ありません。……娘はずいぶんとあなたに懐いているようだ。私にはあんな風に甘えてくれないのに」

「きっとお父さんに気を遣っているんですよ。優しい子ですから」


 立香のねぎらう言葉に、いつも困った表情を浮かべていた男がはじめて笑顔を見せた。くたびれた姿とは違う、さわやかな笑顔で男らしかった。


「よければ保育園での娘の様子を教えてください」

「はい」

 不意に見惚れてしまって頬をすこし赤らめながら返事する。「連絡ノートに書きますね。困ったことがあれば電話でも」

「ええ」

 もし保育園で何かあったら、家ではなく私の携帯に電話ください、と男は名刺に番号を書き込んで立香に渡そうとした。

 そのとき夕暮れで距離を誤った立香の指が男の肌に触れた。体温は自分よりすこし低かった。あ、と手を引っ込めた立香に、男は微笑んで、しっかりと立香の手を握り、握手した。


「娘はとても良い先生に巡り会えました。お礼を言わせてください」

と、言った男の手は硬くたくましかった。







 ──マミちゃんのお父さんに励まされて、もっと頑張ろうと思えたのだ。

 2年前のことを思い出して、立香は胸が苦しくなった。あのあとマミを通して子どもへの接し方を学び、大人しい子も活発な子も上手く接することができるようになった。だんだん笑顔で仕事ができるようになった。

 立香はきっかけを与えてくれた男に、八つ当たりしてしまった自分が情けないと思った。マミは父にすばやく自分を引き取らせようとしている立香を見て、困惑した表情を浮かべていた。でもあの子は空気を読むことに長けているのか、こんな時でもぐずったりしなかった。

 それが分かって余計に「気を遣わせてしまった」と申し訳なく思う。


「……立香先生。保護者の方から電話です」


 同僚が立香を呼んでいる。はやく出てください、という同僚の口調からあまりいい電話ではないと悟った。立香はため息をつきながら、苦々しい顔で受話器をとった。







「これまでありがとうございました」

 子どもを迎えにきた保護者たちに立香は深々と頭を下げた。けっきょく噂はおさまらず、退職を求める保護者たちの声に耐えきれなくなって、立香から辞めると園長先生に申し出た。

 立香の言葉にきょとんとした子どもから「なんでせんせえに会えなくなっちゃうの?」と聞かれた親たちは、「先生のご都合なのよ」と言葉を濁した。なついていた子どもの中には泣いてしまう子もいた。数人の保護者は「庇ってあげられなくてごめんね」と言ってくれたりもした。


「次の保育園は決まっているの?」

「いいえ。この機会に少し休もうと思います」

「本当に残念だわ。うちの子、いつも先生の話をしていたのよ」


 保護者と話している最中に、目の端に見覚えのあるグレーのスーツが映った。だがあたりはまだ明るい。こんな時間に来るような人ではない。

 不審に思いつつ目をやると、いつも困った表情をしている男が息を切らし、肩を上下させていた。


「立香先生!」

 迎えにきていた保護者たちの視線があつまった。この時間はたくさんの保護者が子どもを迎えに来る。立香は最後の最後に、悪目立ちすることは避けたかった。

「………」

 おそるおそる、今日は早いですね、と何事もなかったように返事した。

 とつぜんのことで申し訳ないのですが、今日でこの園を卒業することになって──……。


「そのことで、来たんです」

と立香を遮り、男は眉を寄せながら決意のこもった声を発した。保護者たちは写真で見た男性だと気づいて、立香と男のやりとりを注視している。

 今日はネクタイが締まっていて、走ってきたせいか顔の血色も良かった。いつもよりずっと精悍で雄々しく見えた。


「次に行く保育園は決まっていますか?」

「………」

「私の会社で託児所を設置することになりまして。急きょ、保育士さんを探すことになったんです」


 立香は「もう決まっています」と言って誤魔化そうとしたが、目の前にいる保護者に「決まっていない」と言ったばかりだった。

 立香が固まっていると、その保護者が「立香先生にちょうど『決まっていない』と聞いたところなんですよ」と代わりに答えた。

 保護者は立香に「良かったじゃない」と笑顔を向ける。立香は目を瞬かせた。これでは、本当に男と何か関係があったみたいだ。誤解をされたまま、保育園を去りたくなかった。


「……あのっ」

「私のせいなんです」

 男はその保護者に向かって言ったが、声は大きく、まるで周りの人にも聞いて欲しいと訴えているようだった。

「──立香先生が誤解されてしまったのは。彼女の潔白を晴らすため、写真の偽造や保護者に情報を回した人物を探偵に調べてもらいました。

 警察にも届けを出したので、すぐに真相が明らかになると思います」

 それから、と男は続けた。

「立香先生は子どもたち、保護者に分けへだてなく接してくれていました。

 もし疑われるような素振りがあったなら、それは私が彼女に好意を寄せていたからです。私のせいです」




 男の堂々たる告白に、周囲から驚嘆の声が漏れた。立香は状況を飲み込めていない。

 いつの間にか話していた保護者は場を譲り、目の前に男が立っていた。


「立香先生、勝手な真似をして申し訳ありません」

と近くで声がして、立香は男と目を合わせた。だが気恥ずかしくてすぐに目を逸らしてしまう。

「娘から『せんせえを助けてほしい』と泣きながら言われたんです。そうでなくても、あなたを助けたいと思っていた。保育園を去られるまえに真相を明らかにできて良かったです」

「そうでしたか……」


 立香はうつむいたまま、ありがとうございます、と呟いた。考えることがたくさんあった。だが男は急かすように「早急に返事をください」と言う。

 そんなの無理です、と真っ赤になった立香に、男は分厚い資料の束を渡した。

「……託児所のほうですよ」

 告白の返事を急かしているのではない、と男はやんわり伝えた。苦笑を浮かべた。


 でも本当ははやく答えを聞きたがっている。

 期待するような、でも失敗かもしれないと不安げな視線で立香を見つめている。いつもの困った表情だった。







 マミが小学校に上がるとき、立香は彼女の「せんせえ」ではなくなった。でも毎日べったりと甘える関係は続いている。会社の託児所を卒業したあと、家で甘えられるようになったからだ。

 毎朝、早く家を出るのをマミは嫌がった。小学校が終わると一目散に帰ってくる。

 しぶしぶと赤いランドセルを背負い、家から数歩あるいて振り返る。玄関で手をふる立香には笑顔を向けたが、後ろに立っている父には口をとがらせて厳しい視線を放った。私がいない間に『ママ』に変なことしないでね、と言うように。


「学校に行きたくないのかな?」

「いいや。どうやら君を『ママ』と呼べるのは嬉しいみたいだが、パパに手を出されてしまった、というのが嫌みたいでね……」


 立香の夫は、いつもの困った表情をした。最近は、すこし早い娘の反抗期に困っているようだった。




<おわり>



楽しんでもらえたら嬉しいです。

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