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沈む夜に溶けていくように

 

 言問文夏です。私は今、非常に困惑しております。


 事実無根の濡れ衣を着せられ最愛の人から罵詈雑言を浴びせられた私は絶望や失意のどん底にいたわけですが、それが一周回って怒りに変わって彼にどう謝らせてやろうか等と考えていた矢先、久しぶりに再開した兄が私のお友達と例の最愛の彼が同じ“妙”字であるなどという爆弾発言をするものですから。


「……妙本理子?って、もしかして妙本箱根くんと理子さんって結婚してるってこと!?」


「いや、そうじゃあない。同じ妙字なのは二人が姉弟だからだ」


 ……ああ、そういう事でしたか。どうやら結婚は私の早とちりだったようです。


「……というかこの話理子ちゃんから聞いてない?」


「そうですね。前に二人の関係を聞いたことがあるんですが、『ただの仲良し小良しよ』としか……」


「…………不味いこと言っちゃったかな、僕」


 兄の顔がさあっと青ざめていくのがこの暗闇の中でも分かった。むしろだんだんと白くなった顔が浮かび上がってくるようだった。


「……ごめん、やっぱり今の事は聞かなかったことにして。あとここで僕と会ったことも記憶からきれいさっぱり消してくれ」


 兄ははそう言うとそそくさとまるで威張り散らしていた番長が裏番長の登場でだんだんと塩らしくなっていくように、かませいぬが散るかの如く逃げ去った。


 ……また勝手に居なくなろうとする兄に対して、怒った私は逃げ去る背中に声をかける。


「おい!馬鹿お兄ちゃん!まだこっち話は……この……ッ!どこ行くんだよ!!逃げんじゃねぇ!私とお母さんほっぽらかしてどこ行くんだよ!帰ってこい!……帰ってきてよッ!!お兄ちゃんッ!!」


 私は叫んだ。この非現実じみた現実の再開を逃すまいと手を伸ばした。しかしその背中は既に闇夜と混ざりあっていた。


 そこにはもともと何も無かったかのように、静寂のみがあった。


「……ばか、お兄ちゃんの馬鹿ぁ……」


 ……私の叫びもまた、宵闇の中に溶けた。




 ……僕は走って走って夜に駆けた。彼女の叫びも後ろめたさも全部全部振り切って。


「……俺だって帰りたいよ……でも、駄目なんだよ……」


 ……その言葉は誰にも届くことなく、走り去る自らの姿と共に夜の闇に消えたのだった。





 ※






「……結局、よく分からない食堂に来たね」


 狭い店内にレコードや往年の少年漫画、ちょっとエッチなフィギュアが並べられた昭和レトロな内観だ。店主の趣味なのだろう。カウンター奥のキッチンから顔を覗かせる店主は丁度その世代を生きたであろう風体をしていた。


「まあ良かったんじゃない?店主さんが『君たち可愛いから安くしてあげるよ』って言ってくれた訳だし」


 店長、カウンター奥でサムズアップ。


「うーん、でも良かったのかな。ホイホイ付いてきちゃって。……なんか、怪しくない」


 私は店主に聞こえないようヒソヒソとした声でりっちゃんに問いかける。店長は奥でニコニコしている。


「……だって、可愛いなんて言われたの初めてだったから……つい舞い上がっちゃって……。ぶっちゃけ今思えば怪しいと思うよ?怪しいことこの上ないしインテリアの趣味悪くない?って思う」


「だよね?」


 店主の表情が心なしか少し引きつったように見えた。


「でもさ、私だって女の子なのよ。長い間研究室に引きこもってた芋女だったけど、最近はメディアにも出るようになって……いや、最近じゃないわね。この時代ではもうずいぶんと前か。で、オシャレもするようになったのよ。それで世間では美人研究者なんて呼ばれるようになった。でも、身近な人間は地位のある年上の人ばっかりだから私みたいな小娘に対して可愛いなんて言わないわけよ。だから可愛いって言われるのが、嬉しいのよ。それに最近学校でも……」


「オッケー、ストップりっちゃん。料理が来たわ」


 私は首を降って隣に立つ店主に視線を向けるようりっちゃんに促す。店長のニッコリスマイルはハリボテかのように一切の感情が感じられない。


「ありがとうございます」


「いえいえ、いっぱい食べてね♪」


 丁寧な所作でお辞儀をするりっちゃんの真似をして私も頭を下げる。店主は普段の調子を取り戻しつつあるのか目に光が僅かに戻った。


 私はたらこスパゲティ、りっちゃんはトルコライスをまずは一口。


「……美味しい!」


 私が感じた第一印象はこれにつきる。元のハードルが低かった影響もあろうが、癖になるような何度でも食べたくなるような味わい……ッ!


「りっちゃん、当たりだよ。ここの店、すごく美味しい……!」


「…………」


 私が共感を得ようとさっちゃんの方を向くとりっちゃんはどうやら苦い顔をしていた。


「……あれ、もしかしてそっちはあんまり美味しくなかった?」


「…………トガちゃん、この店出るわよ!」


「え!ちょ、ちょっと!りっちゃん!?」


「お、おい、待て!く、食い逃げかッ!!!」


 いつも笑顔を絶やさなかった店主が今にも客を食い殺しそうな程の怒った形相を浮かべこちらへ飛びかかる。……その動きはまるで山猫のような動物的な動きで、瞬く間にその般若は目前まで迫っていた。


「トガちゃん目ェ瞑ってッ!!」


 刹那、響くりっちゃんの怒声と轟音。私は手を引かれ店の外へと強制的に連れ出される。


 ……そのまま走って走って、走り続けて、駅前の公園までやって来て、そこで私達はようやく立ち止まった。


「ど、どうしたのりっちゃん!!早く戻ろうよ!これじゃあ食い逃げだよ!」


「……ハァ……ハァ、いや、戻れないわ。……クソッ、上手くやったわね」


 ……りっちゃんが息を切らしているのはどうやら長い距離を走ってきた事が原因ではないようだった。


「薬を盛られたッ……あの店主、エージェントだったのよ……」






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