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おにわ、そと

作者: 海来洸輝

僅か三十六円の所持金で買えるものなどこの村には売っていなかった。

 狭い店内を一頻り物色し、トニーは大きく首を横に振って深い溜息をついた。

 コンビニエンスストアであれば十円玉一枚で駄菓子くらいは買える。しかしこの店の大半は洗剤や殺虫剤に軍手といった日用品で占められ、奥の棚の一角に調味料やレトルト食品など賞味期限の長い保存食のような品が申し分程度に置かれていた。

 齢五十になる店主の早苗は仕切り戸の摺り硝子から得体の知れない外国人の行動をじっと監視していた。茫々に伸びきった髪、垢で黒ずんだ肌、肩から袖にかけて大きく避けた汚れまみれのワイシャツ。鼻腔を劈く強烈な腐った臭いは戸を閉め切っていても部屋の中まで浸入してくる。

 お金を払ってくれる限りはお客様として接せねばならないが、万が一盗みでも働くようであれば。早苗は傍にあった長柄箒を掴み、息を殺した。

 トニーの空腹はもはや限界を超えていた。何せ最後に食べ物を口にしたのはもう三日も前である。炎天下の中、秩父の林道の中をひたすら彷徨いようやく見つけたのがこの店だった。一縷の望みを託していただけに絶望の淵に落とされた気分であった。せめて何か。外箱の美味しそうな調理写真に惹かれ、カレールーに手を伸ばした。その時だった。

「出てけ!この薄汚い泥棒!」

 渾身の力で戸を開けた早苗は箒を突き出して絶叫した。そのあまりの形相に怯んだトニーは両手を震わせながら「NO!」と力なく呟き、じりじりと後退りした。

「勝手にうちの商品触るんじゃないよ」

 早苗は箒を振ってさらに威嚇を続けた。騒動を知った亭主の治雄も二階から慌てて会談を駆け下りた。

「おい、泥棒ってのはこいつか?」

 入り口の段差を飛び越えてトニーに近づくが、あまりの悪臭に顔を歪ませ嘔吐を催した。

 その間にトニーは手の届く範囲の食料品を根こそぎ奪い取ると、出入り口のガラス戸を勢いよく蹴りつけた。

 桟から外れた戸はスローモーションのようにゆっくりと店内に向かって倒れ、陳列台との衝突でガシャン! という爆音と共に掌ほどのガラスの破片が辺り一面に飛び交っていった。早苗は悶絶したままの治雄を覆い被さるようにして自らが盾となった。

 肘や膝、耳の裏など無防備な部位を飛来した鋭利な刃が容赦なく斬りつける。迸る鮮血が壁や床を一瞬にして真っ赤に染めた。

 かつて味わったことのない激痛に早苗は獣のような悲鳴をあげ続けた。

 頬に付着した返り血を手の甲でゆっくりと拭き取ったトニーは放心状態で立ち尽くす。自分が犯したことが現実か、夢なのかまるで分からないような顔で。

 暴れるようにのたうち廻る早苗は床に散らばる無数の破片でさらに傷を深めていった。錘が外れたことで身体の自由が利くようになった治雄も目の前に広がる地獄絵図を目の当たりにして気が触れたように声を唸らせた。

 トニーはありったけ食料をシャツと腹の間に潜らせると、一線を越えてしまった形相で足早に去っていった。

 トニー・ブラウン、三十三歳。ニュージーランド南島中部のクライストチャーチ出身。同国のラグビー代表と同名であるが、全くの別人である。大学でランドスケープ(景観)を専攻した彼は、卒業後エラズリー・インターナショナル・フラワーショーなどの大きなイベントにも参加し、新進気鋭のアーキテクトとして識者からも注目される存在となった。華美なヨーロッパ調の装飾庭園を基調としつつも、人工的なマテリアルは一切使わず木の皮や枝などの自然材料で一からつくりあげる。幼い頃に祖母からフラックスという種類の亜麻を使った籠作りを学び、そこからヒントを得たものだった。 やがて枯山水という庭園様式に傾倒し、三十一歳で来日。在留資格を得るため知り合いの伝手で造園会社に就労するも、理不尽な縦社会に馴染めず半年で退社。以後は建築現場などの日雇いをしながら夜な夜な繁華街に繰り出して女を口説く自堕落な生活に突入していった。

 外国人でも消費者金融は金を貸し出す。外国人登録証明書はまるで打ち出の小槌のように札束をトニーに生み出した。しかし当然のことながら利息は銀行などの比ではない。気がつけば借金にまみれ、取立ての催促に怯え、そして部屋を失った。最初はホテルを転々としていたが、残高が気になりだすと放置自転車を拝借してとにかく遠くへとペダルを漕いだ。

 東京を外れるとどこを走っているのか皆目見当がつかなかった。野宿を繰り返し、二週間が経過すると前輪のタイヤがパンクした。靴は底が捲れ、足の裏には無数の血豆が出来ていた。このまま浮浪者として野垂れ死ぬか? 炎天下の中何度も自問した。どうせ死ぬのなら人目につかない山奥がいい。死に場所を求めて辿り着いたのが「此処=秩父山中」だった。

 まるで密林のように生い茂った叢を両手で掻き分けながら山頂を目指した。やたらと喉が渇く。無理もない。奪い取ったカレールーを丸ごと齧ったからである。頭上から降り注ぐ直射日光が容赦なく体力を奪う。汗が止まらない。意識が次第に薄れていく。もう足が動かない。限界だ。俺はもう死ぬのか? どうして死ななければならないのか?

「I do not want to die yet.(まだ死にたくない)」、だんだんと往生際が悪くなってきた。

「 I'm so thirsty,(喉がカラカラだ)」、ハァハァと野良犬のように舌を出してトニーは水を探した。こんな辺鄙な山中に自動販売機は到底ありそうもない。ならば池や小川を探そう。最悪泥水でも構わない。とにかく口の中に広がる香辛料を消し去りたかったのだ。 目的が見つかると人間は再び頑張れる。この先にきっと水が流れる場所があるに違いない、何の根拠もないがトニーは祈るような気持ちで力を振り絞った。

 二時間は歩き続けただろうか。雑草に覆われてはいるが、舗装された形跡のある道へと辿り着いた。トニーは十字を切り、大きく息を吸った。視界のずっと先、混交林の合間を縫って住居の屋根らしきものが見え隠れしているのを見つけたからだ。

 助かった! つい数時間前まで死を覚悟していた男は生き続けることの喜びを噛み締めるかのように急斜面を這うように登った。手の皮は擦り剥け、撓る木の枝が鞭のように打ちつけ、体中に無数の痣が刻まれる。でもこの程度の痛みは全く気にならなかった。水が飲める。生き延びられる。距離が縮まると同時に確信に繋がっていく。みろ! やはり家だ。トニーは雄叫びを上げた。

 近付くにつれ鬱蒼とした木立に埋もれた建物の全貌が明らかになった。屋根瓦がところどころ剥がれ落ち、杉皮の下葺きがささくれ立っていた。被膜の破れたトタン壁の赤茶色を蔦が覆い隠し、木造部分は朽ち果て屋内との境界を失っている。

 辛うじて二階建ての家屋として体裁を保ってはいるが、いつ倒壊してもおかしくないような廃墟。まるで人の気配が感じられなかった。もちろんトニーの落胆は尋常ではない。スイッチが切れてしまったかのように数十秒間まるで身動きがとれなかった。

 もう本当におしまいだ。そう思いかけた時、彼に閃きが走った。誰も住んでいないのならば、ここに忍び込めばいい。雨風も凌げるし、少なくともここ数日の野宿生活よりかはマシだろう。

 扉や窓も存在はしているが、中へと誘う隙間は至る所にあった。恐る恐る屋内へと足を踏み入れると、黴臭さが鼻腔をくすぐった。床は抜け落ち、木片や落ち葉などが室内に散在していた。歩くたびにミシミシと音を立てて床が軋んでいた。

 壁に貼られているカレンダーには昭和五十五年と薄っすら文字が残っている。しかしトニーには昭和という元号がいったい何年前のものなのか皆目見当がつかなかった。

 無残に破れた障子戸を開くと、波を打ったように反り返る畳敷きの部屋があった。見るとかつての住人の生活を垣間見させるような調度品が並んでいる。箪笥を開けてみると畳まれた衣類がたくさん詰まっていた。さらに物色すると押入れには布団が、洗面所にはまだ封の開いていない歯磨き粉や石鹸が眠っていた。

 そればかりではない。台所にはマッチや油、電気の消えた冷蔵庫には缶コーラが蓄えてあったのである。

 もちろんトニーは見つけるや否やリングプルを引っ張り、コーラを口に含んだ。鉄の錆びたような強烈な苦味が瞬時に身体を麻痺させる。タイル張りの流し台で全てを戻し、何度も何度も大きく息を吸い込んだ。缶底の賞味期限を確かめると800520と記されているではないか。そしてようやく彼はこの家屋が少なくとも三十年前から無人だったことを知ったのである。

 その大きい手は水道の蛇口を捻ってみた。当然水は出ない。しかし配管の先はどこに繋がっているのだろう? 一気に好奇心が湧き上がった。辿っていくと家屋の裏手側には錆にまみれた深井戸ポンプが鎮座している。それは地中奥底に水脈があることを意味していた。

 さらに周囲を探索すると茂みの中に納屋を発見した。重い木の扉を力任せに開こうとすると屋根に積もっていた夥しいまでの枝葉が降り注いできた。暗い中に光が差し込めて行く。まるでタイムカプセルを開いたかのように眠っていたものたちが目を覚ましているかのようであった。

 シャベルや鍬、鋸に斧といった農具や工具たちが雑然と放置されているのを見つけたトニーは胸の前で大きく握り拳を作った。

「I'm able to live here,(ここに住めそうだ)」

 さっそくポンプの周辺をシャベルを使って掘削してみた。思いのほか地盤は軟らかく、かつて造園業で何度も大きな穴を掘ってきただけに一時間で二メートル程まで到達した。しばしの休憩を挟み、先ほど撃沈されられたコーラの空き缶を加工し、転がっていた伸縮式物干し竿と組み合わせて簡易な掘削機を作った。砂が落ちないよう網戸のネットを括り付け、土を掻きとるように掬っていく。五メートルあたりで待望の水脈に差し掛かると、納屋にあった灯油ポンプにゴムホースを繋ぎ合わせ穴の奥底に突き刺した。そしてポンプを両手で幾度か握って放してを繰り返すと徐々に水が汲み上げられていったのである。

 これで最低限の生活は出来そうだ。今後に明るい光を見出したトニーは湧き出る水で二週間ぶりに全身を洗うと、先人の残した服に着替えて黴臭い布団の中で眠りについた。


「チーズ!」

 昼間でも日の光が届かない鬱蒼とした山林の中をモモコは声を枯らして叫び続けた。腐熱して堆肥になりつつある落ち葉の上を歩いていると何度も足を滑らせ、スカートの裾は泥まみれになっていた。

 チーズというのは彼女が飼っているミニチュア・シュナウザー犬である。三年前に親戚からまだ生まれたての状態で譲り受け、以来家族同然に暮らしていた。当時見ていた幼児向けアニメに出てくる犬のキャラクターから名を拝借している。

 普段はチーズの散歩は祖父の勝の役目だった。しかしこの日は勝が三十八度の熱を出して寝込んでしまったため、モモコが担当することになった。病床の勝は出掛ける前のモモコを呼び止めて、くれぐれも山には近付かないように念を押した。小さい頃より両親からも散々同じことを忠告されているだけに、彼女はいつもの通り軽く相槌を打った。あんな怖い場所にはもちろん行くつもりなど毛頭ない、と言わんばかりに。

 リーダーをつけて勝がいつも通る散歩コースにチーズを誘った。と、いうよりも道をよく知っているチーズに引っ張られたという方が正しいかもしれない。小型犬とは言え、まだ小学一年生のモモコにはその力は些か強過ぎた。

 何かの匂いを嗅ぎつけたチーズは大きくワンと吠えるとグイグイと山の中に入ろうとした。モモコはリーダーを力の限り引っ張って制止するが、踏ん張りきれず転んだ拍子に持ち手を離してしまった。その隙にチーズは本能を解き放たれたように物凄い速さで山林を駆け上っていったのである。

 走って追いかけても脚力で犬に敵う訳もなく、気がつけばもう引き返すのが困難なくらいに麓から遠い場所まで登ってしまっていた。

 目から涙が溢れてくる。泣きそう、でも泣かない。先週六歳の誕生日を迎えてお母さんと約束したんだ。我慢しなきゃ。そう自分に言い聞かせながら黙々と林の中を駆け上がった。

 木々の間から僅かに光が差し込む程度の明るさで足元はよく見えない。ザクザクと枯れ葉を踏む足音が大きく感じる。鼻を突く変な匂いは何だろう。ひょっとしてチーズのウンコかな、とモモコは思った。彼女はまだ銀杏を知らなかった。

 山林を抜け視界が広がってきた。振り返ると全く知らない景色が広がっている。村が見えない。一体どこまで来てしまったのか? もうお家に帰れなくなっちゃったのか? 堪えきれなかった。モモコは声を上げて泣き叫んだ。

「お父さん、お母さん、助けに来て!」

 麓の村に届くよう腹の底から声を出した。

 五分近く叫んだだろうか。歩き疲れてもう力が出ない。声も次第に掠れてきた。

 もう駄目だ。そう諦めかけた時、後ろから足音がした。

「ドウシタノ?」

 野太く聞き取りにくいその声に振り返ると、身長ニメートル程の屈強な赤い顔の男が仁王立ちしていた。延び放題のブロンズ色の髪と髭。山賊のような身なり。その存在自体がモモコにとって脅威だった。

 大きな叫び声をあげて逃げ惑うモモコを男はゆっくり追いかけた。

「止めて! 来ないで!」

 モモコは落ちていた木の枝や団栗を掴んでは男に投げつけた。

「ダイジョウブ、コワクナイヨ」

 男は手を広げて無抵抗をアピールした。

「あなた何者?」

 少し警戒心が薄らいだモモコは恐る恐る尋ねてみた。

「トニー」

 三ヶ月ぶりに人間と話したせいか、つい早口になった。

「鬼?」

 見た目の印象からもモモコにはそう聞こえてならなかった。

「本当にいるんだ、鬼って。ねぇ、角は?」

 まだ物語と現実世界との境目が曖昧なモモコにとっては驚きというよりも感激の方が上回っていた。しかし、当のトニーは日本語の語彙が少ないこともあり、鬼も角も意味が分からない。彼はただ黙って笑みを浮かべた。

「そうか、だから山に入るなって皆んな言ってたんだ」

 妙に納得した様子のモモコだったが、真相は違った。その答えは後で知ることになる。

「キミ、ナマエハ?」

「水野モモコ、六歳」

 迷子になったら言いなさい、と小さい頃から言われてきた自己紹介を今初めて披露した。

「OH! モモコ! ココデナニシテタ?」

「チーズを探してるの」

「チーズ?」

 フォークとナイフで切り分けて食べるジェスチャーをするトニー。モモコにもその意図が伝わった。

「違う、食べるチーズじゃなくて、私が飼ってる犬のこと。さっきお散歩してたら居なくなったの」

「イヌ? OH!dog!」

 四つ脚になってキャンキャンと鳴き声を真似するトニーの姿をモモコは大笑いした。

「OK! let's go!」

 そう言ってモモコを手招きすると山奥へと進んでいった。英語は分からないモモコだが、何となくトニーに親しみを持ち始め言われるがままにその後を着いていった。

 道中、モモコは至る所にロープが張り巡らされていることに気がついた。木の枝を伝って枯れ葉の中に潜るように伸びている。

「鬼さん、これは何?」

 モモコはロープを掴もうとした。トニーは慌てて制止した。

「トラップ。トリヤドウブツヲツカマエル」

 そういうと近くにあるロープを辿り、地面の落ち葉を掻き分けた。 すると下には竹で編んだ籠が隠れており、中には微かに羽根を動かして今にも息絶えんとする野鳥が居た。ツグミ科のシロハラであった。

「コレ、バンゴハン。モモコニゴチソウシテアゲル」

 生け捕った野鳥の首根っこを掴んで腰に巻き付けていた麻袋の中に放り込んだ。狭苦しい中でシロハラは最期の抵抗を続けた。

「可哀想。逃がしてあげて」

 モモコは訴えかけるような目でトニーを見た。

「デモコウヤッテミンナイキテル。モモコモチキンタベルダロ?」

何も言えなくなったモモコは黙ってトニーに付いて行った。伸び放題の雑草を時折引き抜きながら険しい傾斜を登っていくと、遠くから微かに犬の鳴き声が聞こえてくる。視界の先には古びた家屋が見える。きっとそこに居るに違いない。モモコは予感した。

「チーズ!」

 そう何度も叫ぶとトニーを追い越して急勾配に聳え立つその家まで一目散に駆け上がっていった。近付くにつれてあの鳴き声がチーズのものだと確信に変わる。ハァハァと息が荒くなりながら、ようやく平坦な場所まで辿り着くと、コンクリートブロックと煉瓦で造られた石窯から白煙が昇り、燻したような匂いが立ち込めていた。その周りをミニチュア・シュナウザー犬が舌を出して歩いている。モモコは愛犬の名を呼ぶと大粒の涙を零しながら駆け寄り、首から抱きしめた。

「もう、駄目じゃない。勝手に居なくなって。心配してたんだよ」

 チーズも心なしか申し訳無さそうな表情で飼い主を見つめた。

「ヨカッタナ、オムカエガキテ」

 やや遅れて到着したトニーはチーズの顎の下を優しく撫でた。ちょっとくすぐったそうにチーズは身を捩じらせた。

「オナカスイテルンダロウ」

 石窯の蓋を開けると、中から充満していた美味しそうな匂いが一気に溢れ出して来た。火室から程よく黄金色に燻された雉が現れた。木の枝で豪快に突き刺すと、俎板の上で豪快に切り分ける。鼻頭を近づけて覗き込んでいるチーズにウインクすると、その一片を切り株を刳り抜いたトレイに乗せて差し出した。

 堪えきれずにガツガツと肉に齧り付くチーズを微笑ましくトニーは眺めると、残る肉を用意した二枚の食器皿に取り分けた。

「私、いらない」

 得体の知れない肉にモモコは強い警戒心を抱いた。しかし美味しそうに骨まで貪るチーズを見ると、とめどなく食欲が沸いてきた。お腹の奥からグーッという音が鳴り、何とも我慢できない状況に陥っていった。

「オイシイヨ、タベテゴラン」

 トニーは見せつける様に雉の腿肉を頬張った。脂ぎった表面に振りかけた食塩が程なく染み込み、引き締まった肉質は絶妙な歯応えを見せた。

なるべくトニーを見ないようにしていても、滴る肉汁音と鼻を擽るようなスモークの香りについ唾を飲んだ。

 チラッと視線を横にくべると、トニーが無言で肉の乗った皿とフォークを差し出した。

「じゃ、一口だけ」

 一切れをフォークに突き刺し、小さな口に放り込んだ。芳醇な肉の旨みが口いっぱいに膨らんでくる。

「美味しい!」

 あとは勢いに任せてモモコは肉を次々と平らげていった。

 トニーは先ほど捕らえたシロハラを空いた火室に閉じ込めると、火床に再び薪をくべた。

「ごちそうさま。ね、鬼さんの家の中見たい」

 空いた食器をトニーに差し出すと、モモコは家屋の方へと近付いていった。トニーは「OK」と答えると、玄関のほうへモモコを誘った。

 三ヶ月前は倒壊寸前だった建物は伐採した丸太でところどころ補強が行われ、朽ちていた壁も新たに板張りされその上に漆喰が塗られている。外観は手作り感漂う大規模なリフォームが行われていた。

丁寧にペンキが塗られた玄関の扉を開け、中に入ると木の葉でつくったドライポプリの香りが漂い何とも心地よい。下足場で靴を脱ぎ、室内に上がると古新聞紙が敷き詰められ、たくさんの木片が転がっていた。どうやらまだ作業中のようである。

 波打つように反り返っていた畳は全て取り外され、和室は清潔感ある板の間に生まれ変わっていた。トニーはモモコに座布団を差し出し、座るように促す。そして自分はテーブルを挟んだ対面側に腰を下ろした。

「ドウ? ステキナウチデショ?」

 そう言ってニッコリと微笑んだ。古くからある日本家屋をベースとしながらも、ところどころにニュージーランド人としての感性が加わったそのアレンジはモモコにとっても実に新鮮で楽しく映った。

「ミテ。ボクガツクッタガーデン」

 トニーは外側の障子戸を開けた。すると外には荒地を開墾して作られた見事なまでの庭空間が広がっていた。

 家の修繕で建物周りに生い茂った雑木を伐採するのにあわせてトニーが一から作ったものだった。

 丸太を段違いに並べてつくられたアプローチ。その先には木の枝を組み合わせたアーチが庭への入り口として待ち構える。そこを潜ると石を積み重ねたロックガーデンが広がっている。湧き出る地下水を汲み貯めた池は細く分岐して小川のように庭の周囲を取り囲む。一番小高い場所にはフォーカルポイントとしてそれらを眺められるように設置された木のベンチ。

 花や緑はまだ無いが、全体の配置や構図は彼が今までに蓄えてきた知識や経験を集約した自信作である。

 庭の良さなどモモコは分かるはずもなかったが、公園のように広がる空間は見た目にも面白かった。

「すごい! これ鬼さんが一人で作ったの?」

モモコの問いにトニーは親指を立てて答える。

「マダマダヨクナルヨ。モモコモテツダッテ」


 麓の役場ではモモコの両親が村長と深刻な面持ちで話しをしていた。

「どうする? 消防団に頼んで山ん中捜索するか?」

 村長の提案に父親の厳は腕組みして黙っている。壁にかかった時計に目をやる。ちょうど午後七時を迎えていた。

「今までこんな時間まで帰って来なかったことなんてないから。あなた、お願いしましょう」

 妻の和江も厳に決断を迫る。

「モモコのことだ。山なんかに入る訳ない。もうすぐ腹空かせて帰ってくるだろ」

 眉間に皺を寄せて気丈に振舞おうとする厳に和江は苛立ちを覚える。

「そんな呑気な事言って、もし人攫いにでも遭ってたらいったいどうするの?」

「いや、こんなことで騒いで皆に迷惑かけるのは……」

 厳が煮え切れないのには訳があった。かつて自分も幼少時代に山に入り、村中総出で捜索してもらった苦い記憶があるからに他ならなかった。

「お前だってあの時わしらが探さなかったら今頃どうなってたか分からん。もういい、和江さん。皆を集める」

 村長は力強く言い切ると、受話器を握り消防団本部に電話をかけた。

「あいつあれ程言ったのに」

 怒りに震えながら唇を噛み締める厳を尻目に和江は心配して集まってくれた村の住民達に何度も頭を下げた。

「もし山奥の村まで行ってたら厄介だな」

 集まった中の一人が声をあげた。村で唯一の商店を営む治雄であった。三ヶ月前にトニーに襲撃された際に追った傷跡は未だ褪せることなく残っていた。

「何でも山賊が住みついとるって噂だし」

 治雄の妻である早苗が廻りに不安を煽った。彼女もまた顔や全身を何針も縫う惨事を経験しているだけにその言葉には重みがあった。

「やっぱりあの村、潰して更地にでもしておくべきだったかな」

 老人が同調して言った。彼らの言う村というのは今から三十年ほど前に廃村になった山中の集落であった。数百年前から木材の切り出しなどを中心に数軒が細々と暮らしていたが、時代の移り変わりと共に人が離れていき遂には誰も居なくなった。もともと森林の所有権が複雑で、麓に住む彼らも勝手に出入りすることは許されていない。そのため荒廃が進み、どんどんと魔界化していったのである。

 程なくして役場にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。消防団員が次々に集まると役場の前で村長を中心とした対策本部が設置された。各人にヘルメットとヘッドランプが手渡され、四班に分かれて山中を隈なく捜索する方針が告げられた。

「山の中には何者かが住み着いているという目撃情報も寄せられています。各自安全には十分注意をするように」

 消防団長の訓示が終わると、総勢四十名ほどが一斉に山へと駆け上がった。年長者ともなると山の構造はだいたい理解しており、かつて存在していた山道を慣れた様子で進んでいった。

 一方のモモコはトニーと庭造りに夢中になっていた。すっかり日が陰り暗くなった中、ランプの明かりだけを頼りに丸太を重ね合わせて花壇を作っていた。トニーは何度も家に帰るように諭したが、モモコは思いのほか拘り派で自分の理想に近付くように何度もやり直した結果であった。

「モモコ、モウキョウハオワロウ。パパトママ、シンパイシテル」

なかなか応じないモモコの手を掴むと、トニーは引っ張って連れて行こうとする。

「ちょっと鬼さん! やめて!」

 モモコが抵抗したその時だった。ざわざわと周囲が騒がしくなってきた。人の足音や話し声が瞬く間に迫ってくる。トニーは動揺した。そしてサーチライトの明かりがパッと二人を照らし出すと誰かが大声をあげる。

「いたぞ!」

 それが合図だった。まるで地鳴りのように歓声ともどよめきともつかない叫びが起こると、十数人の大人たちが一斉に走りかかりトニーを滅多打ちにした。

「この野郎! 人攫いめ!」

「NO!」と叫び続ける無抵抗のトニーを羽交い絞めにして男達が拳で何度も殴りかかった。

 保護されたモモコは懸命に周囲に制止を求めるが、周りはまるで聞き入れる気配が無い。揉み合いの中でせっかく作った花壇は無残に荒らされ、のたうち廻るトニーからは大量の血が溢れ出た。とうとう堪忍袋の緒が切れ、鬼のような形相で怒り狂った。

「お前、いつぞやの不良外人だな!」

 特に荒ぶっていたのは治雄だった。夫婦で受けた壮絶な仕打ちの恨み。忌まわしい記憶が甦るとふつふつと殺意が込み上げてきた。近くにあった斧を手に取ると何の迷いも無くトニーに襲い掛かっていった。

「ちょっと治雄さん、そりゃやり過ぎだ!」

 さすがに殺すのはまずいと思った数名の消防隊員が治雄を力づくで止めにかかった。

鬼気迫るトニーも咆哮を挙げて臨戦態勢をとっていた。

「もうやめて!」

 モモコは保護する消防隊員の手を振り解いてトニーに駆け寄ると、必死で宥めた。その声はトニーをおとなしくさせた。大きく肩で息をしながらトニーは次第に冷静さを取り戻していった。

「村の皆、この人は悪くない。山で迷ってた私とチーズを助けてくれたの! だからもうやめて!」

 泣きながら訴えかけるモモコの姿に周囲も困惑した。この男は本当にモモコを助けたのか? 小学生のモモコが騙されているだけではないのか? 自分達は事実誤認をしてしまっていたのか? 様々な思いがそれぞれの脳裏に錯綜していた。

「じゃあ、一体ここで何をしている」

 納得のいかない治雄がトニーに噛み付いた。

「お庭をつくってるの」

 黙っているトニーに代わってモモコが答えた。

「お庭?」

 一同は再びざわめきあった。視線が集まったことでヘッドライトの光の筋が束となって、トニーの手掛けた庭が明かりで浮かび上がる。とても一人で作ったとは思えないような自然と調和した美しい庭が広がっていることに気がついた男達は思わず感嘆の声をあげた。

「いや、これ凄いな」

 ロックガーデンの出来栄えを近付いて確かめた石材屋の村上が目を丸くさせた。彼だけではない。廃屋をここまで建て直した手腕を左官屋の高杉も高く評価した。

「おい、これアンタが全部やったのか?」

 高杉の問いにトニーは親指を立ててアピールをした。何となく打ち解けたようなムードを漂わせて自然とトニーの周りに人の輪が出来た。村長と厳、和江が現場に到着した頃にはすっかり村上や高杉とトニーが庭談義に花を咲かせていたのである。


 翌日、駐在所では今回の一連の騒動を巡ってトニーの尋問調査が繰り広げられた。村で唯一の警察官である富田は三ヶ月前に治雄や早苗から出されていた被害届を読み上げ、犯行について問い質した。 トニーは当時の様子を赤裸々に答え、自ら犯してしまった罪を素直に認めた。また、廃屋に住み着いたことによる刑法130条 住居侵入罪や器物損害罪が適応されることも淡々と告げられるとトニーは俯いて黙り込んだ。

 村長や村の住民達が外でその様子をじっと見つめていた。そこに居る誰もが何とも言い難いモヤモヤした気持ちを抱えていた。

「鬼さん、逮捕されちゃうの?」

 モモコは心配そうな顔で和江に尋ねた。恐らくそうだろう。分かってはいても、言葉には出来なかった。和江はモモコの頭を撫でながら「大丈夫」と呟いてみた。

「まあ、早苗さん達に怪我負わせて店壊したのは間違いない訳だし、ここは罪償うしかないんじゃないか」

 村上は煙草を燻らせながらポツリと話した。

「あんだけの庭造るんだ。ちょっと勿体ないよな。刑終わったらウチで面倒見てやっかな」

 村長に語りかけたのは高杉だった。未だに高揚が抜け切れない、といった感じでその後もトニーの技術を褒め称えた。

「残念だが入国管理局から在留資格取り消されて退去強制になるだろうよ」

 村長の言葉に早苗と治雄は顔を見合わせた。二人にとっては未だ憎むべき相手であることに変わりはなかった。しかし、昨晩垣間見たトニーはあの時の不良外人とは明らかに違う顔をしていた。人口が減る一方で閉塞感が漂うこの村にとって新しい住民を迎え入れようとするムードも心を揺るがせる一因となっていたのである。

 そもそも昨晩無抵抗の相手を散々甚振ったことで既に仕返しは済んでしまったのではないか? そう考えると治雄は落ち着かずにはいられなくなっていた。

「なぁ、村長さん。俺達が被害届を取り下げたらあの外人は捕まらなくて済むのかい?」

「ちょっとアンタ、何言ってんのよ」

 治雄の発言に早苗は目を丸くした。彼女自身もモモコが無事保護されたと聞いて思わず泣いてしまったクチである。そして何よりも最初にトニーを泥棒扱いし威嚇したことで自ら火種を招いたという自責の念も心の片隅に持ち合わせていた。それを認めるタイミングが今まで無かったのである。

「どうせアイツが捕まったところで俺達の治療費や店の弁済がある訳でもない。それなら高杉さんところでしっかり働いてもらっていくらか償ってもらったほうがまだマシだ」

 憑き物が取れたかのように治雄はすっきりしたような表情を見せた。そして早苗も頷いて同調した。

「よし。それなら明日からでも見習いで働いてもらうさ」

 安心したように高杉が答えるとその場に居合わせた一同はドッと笑った。雰囲気を察してか今まで大人しかったチーズも尻尾を振って威勢よく吠え出した。またあの雉の丸焼きが食べれると言わんばかりに。



終わり

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