第三話 親しみをこめて
「アルベルトさんって、どんな方なのかしら……?」
落ち着かない様子で周囲を一、二度見渡した女性は窓際に置かれたテーブルと椅子を視界に入れると、椅子を引いて腰かけた。浮くような何とも表現しづらい違和感のある座り心地に飛び退いて椅子をポンっと触った。けれど、手の平に感じる触り心地は、なめした皮の肌触りの良い物だった。
もう一度座り直してみると、ふわっとした違和感にまた立ち上がった。
再び椅子に触ってみるとさっきと同じ肌触りで、不思議に思った女性は小首を傾げて考える。また椅子に、そしてドレス越しにクリノリンへと触れた。それは柔らかい素材で出来てはいるが、ドレスをふんわりさせるだけあって弾力がある。
「あっ……クリノリン! そういう事だったのね」
座った時の違和感の正体が、これだと理解して嬉しそうに微笑んだ。
クリノリンやコルセットといった体を締め付ける存在に自然と姿勢はぴんっと伸びて、いまだ慣れないドレスの着心地と座り心地の辛さに困った女性は、部屋の中を見て周る事にしたのだった。
カーテンや絵画といった装飾品に目を奪われ、メイドに選んでもらったピンクベージュのドレスを鏡で見て胸が高鳴った。
そして、鏡の向こうには大小様々な時計の数々が映っていた。
水を入れて時間を図る壺状の水時計、蝋燭の火時計。
ランプ時計に、装飾が施された盤の上には心休まる香りのする香が置かれた香盤時計、ひっくり返すと砂が零れ落ちる仕掛けの砂時計。
ひとつひとつ手に取り、時計に興味を持った彼女はその中でも、手動で竜頭を巻いてゼンマイを動かす機械式の鎖の付いた小さな懐中時計が特に気に入った。
一から十二までの数字が描かれ、六時の方角にはエメラルドで星を模った更に小さな時計が飾られている。それは秒を図るため十単位で数字が刻まれていた。
一長一短の針に、休む事なく動き続ける一本の細長い秒針。
コチコチと軽快な音を立てて動く秒針に、女性は小首を傾げる。
「これは……何かしら? とても不思議で、心地の良い音だわ」
一定のリズムに聞き入る、そんな彼女を一人の男性が見ていた。
「――マルティナ」
彼は女性だけの部屋へ入るのを躊躇っているのか、部屋の敷居を跨ぐ事はなかった。むしろ、自分の存在にいつまで経っても気付かない相手に溜め息を漏らして、何度も扉をコンコンと軽く叩いていた。
リズミカルにノックされる扉の音は、時計の規則正しい音色にさえ勝てない。
とうとう痺れを切らした彼は大きく音を立てて扉をノックすると、その大きな音にびっくりして小さな悲鳴が上がった。
「だ、誰……?!」
女性は肩を震わせ強張った表情で音の発信元の扉の方へ振り向き、目を見開いて男性を見た。彼は軽く頭を下げると中に入り扉を閉め、女性へと歩みを進めた。
「失礼。アルベルトと申します。動いてみてどうだ、体は大丈夫か?」
「はい、お気遣い感謝します。あたしは大丈夫です」
氷漬けで発見された彼女の体調を気に掛ける彼の問いかけ。その名に聞き覚えのある女性は、彼こそがメイドの言っていた人だと理解した。
女性は安堵し、優しい微笑みでアルベルトの瞳を見つめた。
「――ル、ティナ」
「……えっと、ルティナ?」
ドレスに身を包んだ女性の優しい表情を見てアルベルトの口から自然と漏れた名前。耳に残った女性名が気になり躊躇いながらも女性は問い掛ける。
問われて黙り込んだ彼は咳払いしたが、彼女の好奇心は言葉には出さないが気になって仕方ないと感じ取れる表情をしていた。
沈黙が支配する空気に、アルベルトは女性の手から懐中時計を抜き取って元の場所へ戻した。
「ルティナではない。マルティナ……妹の名だ」
「妹さん、ですか?」
「ああ、小さい頃になくしてしまった。私達兄弟の大切な――」
「えっ! 知らなかったとは言え、あたし何て事を……ごめんなさい」
「昔のことだ。気にしなくていい。……それよりも、本当に大丈夫なのか?」
小さくなって謝る彼女の姿に妹の影を重ねたのか、今にも床に落ちそうなプラチナブロンドの長い髪にアルベルトは優しく触れた。突然の事で驚いた彼女は双眸を伏せ俯くと、落ち着きがない様子で前髪を弄り始めた。
焦っている様子に気付きもしないアルベルト。
彼はそっと手を退け、少し考えては口を開いた。
「そういえば、キミの名前を聞いていなかったな」
「名前? あたしは……」
視線をアルベルトへ戻した女性が問いに答えようとした時、部屋の扉は勢い良く大きな音を立てて開かれた。扉を開いたのは後ろで髪を結った金色の髪に、琥珀色の瞳。中性的な顔立ちをした褐色の肌をした男性だった。
背後には慌てた姿のメイド達がいたが、そんな些細な事と気にも留めずに彼は部屋へ押し入る。
無邪気な瞳は目覚めた女性に狙いを定め、一目散に近寄り、口元に弧を描いた。
「やぁ! 良かったぁ、今度は雪だるまじゃないみたいだね。調子はどうだい?」
「だ、誰ですか?」
「えっ、ちょっと待って! 僕はここの王子様だよ? 君を助けた……」
「王子、女性の部屋へノックもなしに入るものじゃありませんよ。
チャラチャラしないでください」
「……ったく、アルはうるさいなぁ。女の子の部屋で説教するのかい?」
くどくどと説教を始めるアルベルトを尻目にユミルは頭を掻いていた。その面倒くさそうな態度を見て、イライラは更に拍車が掛かる。
切れ長の目はより鋭く、整った眉毛は崩れて眉間には皺が寄っていた。
良心の呵責がこれっぽっちもないのか、ユミルは欠伸を漏らしていた。
アルベルトの説教が終わるタイミングを見計らって、ポケットから取り出した可愛らしい紙に包装されたチョコレートをアルベルトの手に握らせた。
「さぁ、イライラした後はチョコレートが一番さ。
それとも紅茶でも持ってこさせようか?」
「まったく、あなたって人は……」
「ははっ、そうだ! 元雪だるまさんにもあげようか。
リーゼがくれた極上のチョコレートだよ。すっごく甘くて美味だよー?」
「えっ……あ、ありがとうございます?」
マイペースにどんどん話を進めていくユミルの言動に、アルベルトはもう言葉が出てこなかった。それどころか頭痛でも覚えたように頭をとんっと押さえて苦い表情をしていた。
手の平に乗ったチョコレートを見て、不思議そうにしていた女性はユミルとチョコレートを交互に見つめた。
「……チョコレート?」
そう呟いた女性は微笑みを浮かべ、ユミルもまた嬉しそうに笑った。
「うん、女の子はやっぱり笑顔が一番だよね! 可愛いよねっ」
「えっと……」
「サラっと流してください。彼の悪いクセですから」
「アル? 僕はただ思った事を言っただけだよ。君ってつくづく失礼だよね!」
「私も思ったことを言ったまでなので。本当に申し訳ない」
牽制し合う二人は互いに大きな溜め息を吐くが、ユミルは女性の瞳をじっと見つめると真面目な表情へと変わり、背筋をピンと伸ばしては胸に手を当て小さくお辞儀した。
「挨拶が遅れてしまいましたが、改めて! 僕はエーレヴァイスの第三王子ユミル・エーレヴァイス。雪だるまの姫君、君の名前を教えてもらえますか?」
「はい、私の名前は……」
自身の名前を口に出そうとする女性はその先が言葉に出来ずに、困った様に双眸を伏せていた。
彼女の様子を不思議に思ったユミルとアルベルトは自然と顔を見合わせた。
一向に名乗る気配のない女性に、ユミルは問いかけた。
「あっ、まだ体調が優れないのかな。お腹が痛いのかい?」
「いえ、そうではなく……」
「……そうか、何か名乗れない理由でもあるのかな」
「名前……あたし、名前が分からないの。この包みが何なのかも分からないし、この部屋にある物も全てが初めてで、親も友人の顔も……何も……」
「もしかして、キミは――」
アルベルトは息を飲んで言葉を続けた。
「……記憶喪失」
「まさかそんな! でも、雪だるまになってたんだ。
無理もないのかもしれないね……」
「あたし、記憶を失ったの……?」
記憶喪失、その言葉にユミルは納得したように小さく頷いた。
女性は視線を二人に合わせる事なく俯き、表情を見るまでもなく落ち込んでいる事が誰の目にも明らかだった。ぎゅっと手を握り締めるそんな彼女の姿に胸が痛んだのか、ユミルはぽんっと肩を叩いて励ますように明るい声音で告げた。
「大丈夫さ、雪だるまさん。
記憶ってのはそう簡単になくなりはしないよ。必ず戻るから!」
女性はその明るい声にいくらか心が揺らいだのか、赤い瞳を滲ませて見上げた。
「アル、すぐに先生に知らせてくれ」
「わかりました」
「えーと、雪だるまさん……って、いつまでもその名で呼ぶのも何だよね」
顎先に指を添えて考え込んだユミルは、次の瞬間こう告げた。
「モモタ! ねぇ、モモタなんてどうだろう?」
「えっと……モモ、タ……?」
「何を言い出すかと思えば……。
ユミル様、それは亡くなったチゴリスの名ではありませんでしたか?」
「そうだよ。変かな? 嫌ならヤジロベーはどうだろう?」
「ヘンも何も……ユミル様は本当に、センスの欠片もありませんね」
アルベルトの僅かながら棘のある言葉に、ユミルは眉根を寄せた。それもその筈、女性の表情から察するに喜んでいないのは一目瞭然だった。
ユミルは少しでも気に入ってもらえるようにと、彼女に相応しい名前がないか頭を捻りながら考える。ブツブツと色々な名前を呟いていたが、茫然と見守る女性と溜め息を漏らす騎士の前で自信満々に胸を張った。
「よし、これだ。デロデロ! これはいい名前だ!」
「デロ、デロ……?」
「誰にも文句は言えない、この美しい響き。これはね、僕の大切なペットの名前だったんだ!」
「あ……わ、わた……」
今までのとは比べられないくらいに、苦痛と不安の入り混じった声音で女性は今にも泣きだしそうだった。
デロデロ、それはユミルが生まれて初めて飼った愛犬の名前。
大切な思い出の名前を授けようとする気持ちがあるだけに、女性は嫌な気持ちを彼に伝える事が出来ず何度も何度も、言葉を飲み込んでいた。
困り果てる女性を見ていたアルベルトは溜め息を吐いた。
「ティナという名はどうでしょうか」
「えっ……?」
「ユミル様のセンスは、人間として明らかに破綻しています。いかがですか?」
「でも、その名前は確か……」
「ティナかぁ。うん、悪くないね。
僕のデロデロも良かったけど、アルのも女の子らしくて可愛いよっ。」
提案された名前に女性の瞳は揺らぐ。
ユミルの考えた名前よりも、アルベルトの提案した名前の方が明らかに人間向きの名前だった。けれど、それを素直に受け入れていいものかどうか、女性は色んな想いを頭の中で繰り返していた。
アルベルトは口元に小さな弧を描くと優しい声音で、こうも告げた。
「……彼女はマルティナです。
もじっただけに過ぎませんが、キミが嫌でなければお使いください」
「嫌なんて事はありません! ですが、見ず知らずのあたしが大切な人の名前を使っていいものかどうか……それが心配なのです」
「キミなら大丈夫だと思ったんです。
それに彼女に似ている貴女だからこそ、そんな気持ちもある」
「……ありがとう。記憶が戻るまでの間、大切に、大切に名乗らせてもらいます」
新しい名をもらい女性は嬉しそうに、はにかんだ。
ユミルは彼女の笑顔を見て頬を緩めると、胸に手を添えて再びお辞儀をした。
「初めまして。僕はユミル・エーレヴァイスと申します。
雪だるまさん、君の名前を教えてもらえますか?」
「はい、私の名前は……ティナ、です!」
女性はスカートの裾を少し摘まむと小さくお辞儀してにっこりと微笑んだ。
記憶を失っても、前へ前へと進もうとする女性。その未来を照らすかのように、レースカーテンの隙間から眩しい朝陽が差していた。