24話
桶狭間より二ヶ月、その間、信長は精力的に動いていた。
今川方に奪取された城砦の奪還。
藤乃や勝家、長秀などに軍を率いさせながらも自ら指揮を執ることも多々あり、家中に、領内にその存在感を知らしめた。
初陣、桶狭間、そして奪還戦などで事情を知らぬ者も誰もが理解した。
総ては演技、またしても欺かれていたのだと。
その理由についても、信長は密偵などを使って噂と言う形で広め、地盤固めは磐石。
聖剣の王は賢く、何処までも先を見ているのだと貶していた者らも手の平を返す。
家中でも信長をディスっていた家臣などは露骨にゴマを擦るようになっていた。
しかし信長は特別そのことについて不満を持っているわけではない。
流される人間と言うのは往々にしてそんなものだと理解しているからだ。
心が広い――と言うよりは、人間と言う生き物に対して過剰な期待をしていないのだろう。
前世で擦れた世界に長く身を置き、今世でも陰謀策謀渦巻く世界で生きているからしょうがないと云えばしょうがない。
そんな信長だが真面目にやりつつも、ふらふらと領内を遊び回って女と茶をしばくなどは止めなかった。
『それはそれ、これはこれ』
と云うのは本人の言である。
まあ流石にボンボン時代と違って女に手を出したりはよっぽどの良い女でない限りはしなくなったが。
それでも茶を飲んだり、若者達と酒を飲んだりと言うのは止めず。
軽い部分もあるが、それをうつけではなく親しみやすさだと受け取る辺り他人と言うのは調子の良いものだ。
さて、順風満帆な信長ではあったが彼の禊がまだ終わったわけではない。
未だ悪意と憎悪に囚われたままで、今日、その鎖から解き放たれるのだ。
「…………」
清洲城内にある大広間ではこれでもかと云うほどに緊張感が漂っていた。
上位の側に立っているはずの織田家の臣達ですら冷や汗を浮かべている。
その元凶は上座で奇妙な杯を手に酒を呷っている信長のせいだ。
彼から放たれる無形の威圧感に気圧されてしまっている。
身内である織田の人間ですらそれなのだ、この後に同盟の話が控えているとは言え未だ外様の松平家の人間。
そして、一身に威圧を受けている今川の人間達は堪ったものではないだろう。
ケロリと澄まし顔をしているのはマーリン、藤乃、竹千代ぐらいのものだ。
「信長様、皆も御待ちのようですしそろそろ始めませんか?」
傍で酒を注いでいたマーリンがそう切り出す。
今日この日、清洲では大きな出来事が二つ起こる予定だ。
一つは松平家との同盟、一つはそう――――今川の臣従。
雪斎は信長の命令に従い、たかだか二月で今川家をまとめて見せたのだ。
どれほどの辣腕を振るい、策謀を巡らせたのか。多分本一冊分ぐらいの濃い内容があったのだろうが信長からすればどうでも良いこと。
彼が望んでいるのは結果のみ、そして、雪斎は結果を見せた。
このことから、雪斎が魔道無しでもどれほどの傑物なのかがよく分かるだろう。
仮に野心があったのならば大名として日ノ本中に名を轟かせていたことは想像に難くない。
それだけにたった一つの失敗による転落が何とも、もの悲しい。
「んー……おい、そこの。名は?」
ピッ、と信長が扇子で指し示した先に居るのは今川家の家臣だった。
彼はハッキリ言ってしまえば、今回の沙汰に不満を持っていた。
まだまだ領地もあるし、義元を失ったとは云え甲相駿三国同盟だって健在。
弱り目を突付いて来るかもしれないが、主君を奪った織田と戦えると思っていた。
だと云うのに雪斎があれやこれやと手を回し、臣従が避けられない状況に。
名門今川の家名が地に堕ちると嘆き、信長と雪斎を忌々しく思っていたのだが清洲で信長と対面した途端にそれは消えた。
不満よりも重い、亡君義元にも比肩する――否、凌駕する覇気。そして、極大の悪意を信長に見たから。
それは他の同僚達や義元の嫡子氏真なども同じで、腹の底から怯えている。
虎口に飛び込んだってこんな肝が冷えることはないであろうと。
「せ、関口氏広と申します」
だが解せない、一体信長は――否、信長公はどうして此処まで怒っているのだ?
深く静かに、表面上は飄々とした振る舞いながらも見る者総てに理解させるほどの怒り。
その根源は一体何処にある? 今川が何をした? 戦で攻めたと言うのならばそれは戦国の習いだろうに。
関口や雪斎を除く今川の人間は誰もが疑問に思っていた。
「はよう話を始めて欲しいと思っておるのか? くだらねえ時間は取らせるな、と」
「そ、そそそのようなことは決して!」
「ハハハ! 冗談だ。すまぬな、困らせてしもうて。どれ、では始末を始めるとしよう」
グイ、と杯の酒を飲み干し傍らへと置く。
「先ずは今川方からさせて頂くが、よろしいかな松平殿」
「……ハ、構いませぬ」
最後にあった時より随分と背が伸び女らしくなった竹千代。
それでも胸はあまり育っていないようで、少々寂しい。
とは言え良い感じに肉のついた尻は実に素晴らしかった。
「それでは代表者、前へ」
そう言って立ち上がり、信長の御前へと進み出る氏真と雪斎。
名目上は今川の当主たる氏真だが、実質代表者は雪斎だけと言っても過言ではないだろう。
「こ、これより今川家は織田様に臣従致しまする。総て、信長様の思うがままに……血判状に御座ります、御受け取りください」
既に人質は運び込まれてはいるが、形式と言うのは重要だ。
今川氏真の名が一番始めに記され、その後に今川の家臣達が署名した血判状が氏真の手により差し出される。
これで、名こそ残りはするが実質名門今川家は滅亡したと言っても良いだろう。
何せ名に付随して然るべき中身が総て織田に呑み喰らわれたのだから。
「つ、つつきましては。約定通り、父義元の骸を……」
「まあ待て氏真殿」
手で言葉を制し、ニヤリと頬を吊り上げた。
信長が雑多な負の感情が煮詰まった笑みを浮かべたまま雪斎に視線をやれば彼女はビクリと身体を震わせる。
「その前に知りとうないか? 何故、御主らがこのような目に遭ったのかを」
「え……は?」
イマイチ意味が分からないと云った様子の氏真、それは他の家臣達も同じだ。
と云うより事情を知っている者以外は全員意味が分からないと言う顔をしている。
「何故、俺が家督を継ぐ羽目になったのか。何故、俺がうつけの仮面を被ってまで今川を討とうとしたのか。
ハッキリ云うがな、俺はある時点まで家を継ぐ気なぞなかったのだよ。
弟のな、信勝に任せて自由になるつもりだった。
今川が上洛のため尾張に侵攻して来ようとも、信勝であればさっさと臣従していだろう。
そうして今川は更に巨大化し、天下に大号令を発することが出来た。
だがそうはならなかった、ならずに、義元は俺に討たれ今こうして、名門今川の火は消えようとしている。
なあ、どうしてこんなことになったと思う? 何でお前達は雁首揃えて俺の顔色窺ってんだと思う?」
忌憚なき意見を述べよ、信長はそう云うものの誰も口を開けずに居た。
そんな中、口を開いたのは元今川の家臣でもあった竹千代。
「御舎弟殿――織田信勝殿が謀反を起こしたからでは?」
「そうだな、その通りだ。しかし完全な正解ではない。ただ単に信勝が死んだだけであれば俺も今川に降っていただろう。
そして聖剣の担い手たる俺を利用して義元公は上手いことやって、天下を手にしたんじゃないかにゃー?」
俺はそれでも構わなかった。
そう語る信長の言葉に虚飾の色は窺えず、多くの人間が困惑している。
「俺のやる気に火を点けた人間が居るんだにゃー。
何が何でも義元公を殺してやるって決意させた奴が居るんにゃー。
義元公のみならず今川家も喰らい尽くしてやるって思わせた奴が居るんだにゃー……誰だと思う?」
「そ、それは一体何者です!?」
氏真や家臣達が口々にその者の正体を教えてくれと懇願する。
それもそうだ、そいつさえ居なければこんな目には遭わなかったのだから。
「――――だってよ、太原雪斎殿? 詳細を語ってくれよ、この俺の前で、彼らの前で」
嘘偽りは一切赦さぬ、懺悔せよ、しても赦さねえけど――信長の瞳はメラメラと憎悪の炎で滾っていた。
事情を知らぬ者が当初から感じていた疑問は、ようやく氷解することになる。
「ま、それならそれでも良いんだがね」
その時は今この場で義元の死体で色々遊んでやる、暗にそう告げているのだ。
これはハッタリでも何でもない。
凄まじい反感を買うことは間違いく、丸く収まるものが収まらなくなり、苦労するだろう。
しかし、その苦労を買ってでも信長は雪斎に報いを与えたい。
気持ち良く明日へ向かうために。
「こ…………こ、ことの始まりは……か、家督を継ぐ以前に……信長様が今川領内を訪れた時のことです……」
カチカチと歯を鳴らしながら、脂汗を浮かべ憔悴した表情で静かに語り始める。
「俺が諸国漫遊をしていた時のことだな。その時、俺はこの雪斎と顔を合わせたわけだ」
軽く補足を入れる。
信長にとってもあの邂逅は痛恨の極みだった。
あの時は、まさか後にあんなことが起きるなどとは思ってもいなかったのだ。
「……私は一目見ただけで恐怖しました。信長様が、今川家の……義元様の大きな障害になると。
どうにかしなければ、考えて考えて……思いつきました。直接命を狙うのではなく、心を折ってしまえば……と。
対面した際の会話で弟の信勝殿を気にかけておられる言葉を聞き、これだと思いました。
弟は兄を嫌っている、憎んですら居るようだけれど兄はむしろ愛している。
信長様は情の深い人間だと看破した私は、信勝殿の心の闇を魔道にて増幅させ……させ……」
ざわめきが広がる。
織田も松平も今川も関係なく。いや、織田にとっての衝撃が一番大きいだろう。
あの謀反の真実がそんなものであったなどと誰も予想していなかったのだから。
「雪斎! き、貴様! 父上は常日頃から魔道の力なぞで国を差配するなと云っておっただろう!?」
氏真は怒りも露に雪斎へと掴みかかる。父の教えを侮辱されたからだ。
義元は魔道に対しては信長と同じような考えを持っていた。
精々が武器として使っていた弓なしの指輪ぐらい。
人の心を操ったり、戦場で単独で大量殺戮を成し家の益に繋げるなど言語道断。
それでは人が堕落するだけ、何一つとして生産性が無い――と。
そんな義元の言葉を無視するなどあってはならないことだ。
「まあ待てよ氏真殿。まだ、話は終わっちゃいない」
「! し、失礼しました……」
父を侮辱されたことや元凶の判明で怒りを露にしていた氏真は、もっと大きな怒りを見て逆に冷静になった。
「さあ、続きを話せよ。心の闇を増幅させ、一体どうしたってんだ? ええ?」
それは弁護士も何も無い一方的な裁判。
ただただ咎人を苛むためだけの弾劾。
決して手は緩めない、信長はこの一件を以って遺恨を消し去るつもりだから。
「む、謀反を起こさせ……信長様に…………の、信勝殿を殺させようと謀りました!
身内を、可愛く想う弟をその手にかけさせることで……た、立ち上がれぬように心を圧し折ろうとしました!」
過呼吸気味で、涙すら流す雪斎を見ても同情心など沸こうはずがない。
この程度で絆される怒りならばさっさと洗い流せている。
「そう、そして俺は戦場で信勝が俺の前に引き立てられた際にそれに気付けた。
初めて雪斎と会った時に匂った白檀の香りがしたからな。
マーリンですらも欺いた魔道の手並みは見事と言うしかないが……残念だったなぁオイ。
わけの分からん、いわば直感染みたもので看破され、俺は復讐を誓ったんだからよぉ」
今にして思えば、あれは危機を知らせるサインだったのかもしれない。
それに気付けず悲劇を招いた自分の無能さが信長はどうしても赦せなかった。
だけど自分は断罪出来ず、だって断罪してしまえば信勝の夢も露と消えてしまうから。
「お前が愛していた義元公を殺し、そして義元公の総てであった今川の御家を奪い尽くす。
それを以って復讐としよう、俺は信勝の謀反を鎮圧して直ぐにそう決めたよ。
お前が火を灯したんだ、この俺に。お前が始めたんだ、今に至る総てを」
そして今、総てが終わろうとしている。
長かった復讐に終止符を打とう――始めたものは終わらせねばならないのだから。
「全部が手遅れになって、弟と語らい和解することも出来たがよぉ……。
俺は、憎まれていても良いから、アイツに生きてて欲しかった。
だってのに、アイツはさ……最後まで俺の役に立とうとしてくれた。
死に様を自ら穢し、そうすることで俺の演技が真実味を増すようにってなぁ……。
平手の爺様もそうだ、俺が纏った虚飾の衣を補強するために腹まで切ったんだぜ……?
病で、身体はもうボロボロ……穏やかに、畳の上で死んで欲しかったよ、俺は」
つぅ、と流れ出す紅い紅い哀切の涙。
喪った者の重さは、この国よりも重くて、それでも背負っていかねばならないから。
信長は血の涙を拭い、顔面を染め上げていた悲しみの色を消し去る。
それでも他の織田家家臣達は沈痛な面持ちで、勝家などは唇を噛み締めはらはらと涙を流し続けていた。
「つっても……お前に俺の事情なんぞ関係ないよな? だが、俺も同じだ。お前の事情なんぞ知ったこっちゃねえ。
だからこうなった、これはそれだけの話だ。だからもう、終わりにしよう。俺も何時までも復讐やってるわけにゃーいかんのよ」
やることがあるのだ、この第六天魔王には。
叶えねばならん夢があるのだ、この織田信長には。
「親父殿が愛し育み、信勝が相続しようと努力し、平手の爺様が尽くし続けてくれた織田の御家。
改めて宣言しよう、これからは俺のものだ。俺がもっと大きく育てて、その名を天下に轟かせてやる。
それが俺の親孝行で、逝ってしまった者達へ俺が贈る餞だ――そのためにも、始めたことを終わらせようぜ」
傍らにあった盃を取り、注がれている酒を口に含む。
美味いような不味いような――いや、味なんてよく分からない。
「わ、わたしの命を所望ですか? ならば拷問なり何なりどうぞ御自由に。
死した後もどれだけの辱めを受けても構いませぬ。ただ、ただその前に義元様の骸に一目……一目御目通りを……!!」
雪斎の懇願、信長はこれを待っていた。
「会いたいか? ほれ」
ニヤリと哂い、持っていた盃を雪斎の眼前に放り投げる。
「! あ、あぁ……!!」
ごろん、と転がって来た盃。
よーく見ればそれは、それはそれはそれはそれはそれはそれはそれはそれはそれはそれはそれはそれは――――
「いやぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
髑 髏 の 盃 だ っ た。
次で終わりです。
一応天下布武編や最終章たる明智モド秀とアーサー信長による
関カムランの戦いとかも考えてるけど
それらについては気が向けば書くかもしれないので
その時は読んでやってくださいな。




