23話
「……第六天魔王が名、御首級と共に確かに頂戴した」
時間が止まった。
そう表現するしかない戦場の中で、信長は一瞬だけ黙祷を捧げ納刀。
すぅ、と息を大きく吸い込み義元の首を掲げ高らかに宣言する。
「東海一の弓取り、今川義元が首――――この第六天魔王織田信長が討ち獲ったりぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!!」
良き将の条件に、声が良く通ると言うものがある。
それに照らし合わせれば信長は正にその通りで、遠く遠くその声が響き渡った。
「……者共、勝ち鬨をあげぇええええええええええええええええええええい!!!!」
一瞬、ほんの一瞬遅れて信長からそう離れていない場所で戦っていた勝家が叫ぶ。
彼もまた、よく通る声の持ち主で、勝家の叫びに呼応し、織田方の兵が地鳴りのような勝ち鬨を上げる。
今川方に広がっていく動揺、数では圧倒的優位だが義元と言う主柱を失った今川軍なぞ烏合の衆。
少なくともこの、桶狭間では。早々、立て直せるものではないのだ。
織田信長が今川義元に勝つと言うのは特級の"あり得ない"事態。
そして、そのあり得ない事態に即座に対処出来る者などそうそう居ない。
結果、無限に湧き出す泉の如くに士気が上がり続けている織田方の攻勢を赦してしまう。
現実的に考えれば寡兵の織田を圧殺するなど容易い。
しかし、織田方の兵が狂奔し殺し続けることで動揺が更に広がっていくのだ。
動揺に動揺を重ねて、完全なる悪循環。
その中を元気に殺しまわる織田の兵士達。
そんな中、一羽の烏が信長の傍に降り立ち人の形を成す――マーリンだ。
「マーリン、此処からはお前の仕事だ」
「ええ」
マーリンは大きな黒い布を義元の首と身体に被せる。
そして、覆い尽くしたところで布を引っぺがせば死体は煙の如く消え失せていた。
「復讐に区切りをつける大事な役目だ――頼むぞ」
信長は復讐と言うものを否定しない。
近代的な法治国家であるならば復讐防止も必要な措置ではあるが、此処は戦国。
現代でも罪に問われる覚悟があるならばと復讐肯定派だった信長が自身の復讐を躊躇うわけがない。
戦国時代ならば尚更だ。復讐は毒抜き、或いは再出発の儀式だから。
もやもやとしたものを抱えたままでは思考は鈍るし心身も病むし前にも進めない。
頭スッキリ心身健やか、そんな万全の状態で一歩踏み出すためにも復讐は不可欠。
だからこそ、雪斎に対する復讐に手を抜くつもりはない。
「御任せあれ」
再び烏に変化し、空へと飛び立つ。
最後まで戦いを見届けられないのは寂しいが自分には自分の役目がある。
ある程度戦場から離れたところで人の姿に戻り、呪文を口ずさむ。
「あーあ、可哀想な雪斎。可哀想可哀想」
目の前に現れた鏡に吸い込まれて転移した場所は義元の居城。
留守を任された雪斎が居る場所だ。
するりするりと壁を抜けて雪斎の気配を感じる場所に行くと……。
「……義元、様?」
当然、情報はまだ届いていない。
魔道を用いて義元の動向を窺っていたわけでもない。
そもそも、絶対勝てる戦いだったのだ。監視を飛ばすまでもない。
しかし、義元を想うがゆえか虫の報せが届いたのだろう。
雪斎は不安げな顔で義元の名を呼んでいる。
「――――ご機嫌如何、太原雪斎殿」
「!」
背後から響いた浮薄な猫撫で声に身体を震わせる。
その様子がおかしくてしょうがないのだろう。マーリンは隠しもせずにクスクスと嘲りの笑みを漏らしている。
「――――」
わけがわからない。何故、この場にマーリンが来る?
畏れていたものを退治出来たのだと、そう思いたくて、そう思いこんでいたからこその思考停止。
しかしマーリンはそれを赦さない。
無理矢理に現状認識をさせるため、外套の前を広げる。
そこにあったのは豊満な肢体ではなく、暗い暗い異空間のようなものが広がっていて……。
「え」
その闇にぼう、と浮かび上がったのは――――義元の首だった。
「いやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
つんざくような悲鳴が響き渡る。
もしもマーリンが防音を施していなければ城内どころか城外にまで届いていただろう。
「あ、あ……義元様! 義元様ァ!!」
バ! っと猫のようにマーリンに飛び掛るが煙となって消えてしまう。
「あう!?」
前のめりに倒れた雪斎を見下ろすように再びマーリンが出現。
「そのまま狂してしまっても良いけれど、私の言葉を聞かなければ義元公の骸は酷い陵辱を受けるわよ」
信長様の手によって、そう告げて妖艶に笑む。
一方の雪斎は顔面蒼白どころではない。
信長の手で義元の骸が陵辱を受ける、それはつまり……。
「ま、まさか……まさか…………!」
「そう、そのまさかよ。信長様は気付いておられたわ、私でさえ気付けなかったあなたの暗躍に。
だからこそ、耐え忍び、うつけの仮面を被り待ち続けた。義元公が上洛を始める、その時を。
一発逆転、そしてあなたに報いを受けさせるためだけに待って待って……遂に、実を結んだ」
わなわなと震え、涙を流す雪斎に冷ややかな視線をぶつける。
マーリンからすれば、実に阿呆らしかった。
正攻法で織田と向き合っていればこのような事態にはならなかったのだ。
どころか、織田家を傘下に加えて天下に号令をかけることも夢ではなかっただろう。
「あなたは最初の時点で間違えたのよ。
信長様の御言葉を借りるならば、戦と言うのはそこに至るまでに何をするかが重要だそうで。
一つ一つ、丁寧に丁寧に過程を積んで実を結ぶのが戦場。
だけど、あなたが積んだものは脆くて崩れ去ることが定められていた。
強者が強者足る方法を選ぶのには理由がある。しかし、その理由に目を向けずあなたは愚行に走った」
恐れで目を曇らせ、破滅を招いてしまった。
「虎の尾を踏みつけ、龍の逆鱗をさか撫で、魔王の堪忍袋を引き千切った。
何もしなければ信長様の硬い硬い殻が破れることもなく、敵として立ち塞がることもなかったでしょう。
恐ろしい恐ろしい信長様。義元公は信長様を第六天魔と称したわ。
生まれるはずのなかった天魔を世に放ち、愛する者を死に追いやった気分はどうかしら?」
「~~~ッッ!!」
頭を抱え、蹲り、声にならない絶叫を上げる。
雪斎の心は最早限界だった。
自分のせいで自分のせいで自分のせいで自分のせいで自分のせいで自分のせいで自分のせいで。
己が短慮が招いたツケはあまりにも大きく、とても受け止めきれない。
「まあ、そちらにはそちらの事情もありましょう。
信長様の事情なんてあなたには関係ないかもしれないわ。だけど、あなたの事情も信長様には関係ないのよ?」
お前が好き勝手やったから俺も好き勝手やる――言ってしまえばこれはそれだけの話だ。
どちらが善でどちらが悪などと言うわけではない。
異なる意思の対立が産んだ一つの結果、過去現在未来、何処にでも有り触れていることが起きただけ。
「……わ、わたしは…………わたしは、なにをすればよいのです?」
何をすれば、義元の骸を返して貰えるのか。
一戦交えて取り返すなどと言う思考はハナから存在しない。
軍を動かせばその瞬間に、信長は義元の骸を寸刻みにして魚の餌にするかもしれない、肥溜めに捨ててしまうかもしれない。
義元を何よりも誰よりも愛する雪斎にそのようなことが耐えられるわけがないのだ。
「魔道の力を用いず今川をまとめろ。
そして今川氏真や主要な家臣と共に清洲に来て全員に誓わせろ、織田の傘下に入ると。
領地は一つだけ安堵してあげるだって。ああ、氏真達に人質を差し出させろとも言っていたわね。
それと金子や宝物なんかも一緒に持って来いって。
語るまでもないと思うけど、後に響かないように綺麗に処理してから来るのよ?
多少の煩いは覚悟の上だけど、目に余るような状態であれば……さぁて、どうなるのかしらね」
信長は根こそぎ奪うつもりだ、下品な表現を使うのならばケツ毛一本残さぬ勢いと云ったところか。
「信長様は太原雪斎を高く買っておいでだから、その期待を裏切っちゃ駄目よ?」
史実において信長は義元を倒したが、その領土が総て手に入ったわけではない。
桶狭間以降もしばらくは今川家は存続していたのだ。
しかし、信長はそれを赦さない。完全に呑み喰らうと決めている。
急激な拡大に際して人が足りなくなることは目に見えているが、そこも問題はない。
有望な者は直臣に取りたて、今川旧領を治めさせるつもりだ。
そのためには魔道で心を操るのではなく、納得済みで降伏させねばならない。
勿論不満を根絶やしにすることは出来ないだろう。
しかし信長はある程度整えさせてからは自分の手腕だと理解している。雪斎の役目はある程度まで整えること。
「どうするかは自由だけど……言う通りにするなら一つだけ助言を。
松平元康は信長様に惚れているわ。そして、信長様をその意を受け止め織田を離れる際に抱いた」
「……松平に奪われた分には手を出すな、と?」
竹千代は家が健在であれば唯々諾々と従うが、主家が弱い独立の好機となれば確実に独立する。
実際、今頃、岡崎辺りを奪っているだろう――撤退する今川軍を尻目に。
「さぁて? 信長様はあなたに限ってはそう気が長い方じゃないからさっさと結果を出すことね」
選択の余地などなかった、少なくとも雪斎にとっては。
結果だけを述べるのならば、この後信長は無血で大幅な勢力拡大に成功する。
その功労者となったのが雪斎だ。とは言え、今はまだほんの少し先の話。
今現在信長が何をしているかと云うと……。
「あー……糞、マジしんどい……」
存分に暴れ尽くし、桶狭間より清洲へ戻る真っ最中だった。
雨の中、パッカパッカと馬を歩かせているが蓄積された疲労が重過ぎる。
自信満々で威風堂々としていたが、信長だって緊張はしていたのだ。
臣や兵にそれを見せないように振舞っていただけで。
「殿! 馬上で寝られては危のう御座いますぞ!」
「わーってるよ帰るまでが戦だからな……つか、勝家よ。しんどいんだから静かにしろい。頭に響く」
「も、申し訳ありませぬ」
「いや……本来なら、直ぐに論功行賞やってやりてえが……」
流石に帰って直ぐと言うわけにはいかない。
「おう、将だけじゃなくお前らにもしっかり報いるから安心しろよ」
近くに居た雑兵達にも笑顔で語り掛けてやると、
「は、ははぁ! ありがたき御言葉!!」
とても嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
歴史に残ること間違いなしのおおいくさの熱が燻っているのか誰も彼も元気な奴らばかりだ。
「松明で道を照らしてくれた連中にも忘れちゃならんから……藤乃」
「ええ、論功行賞の際には彼らの代表も招いておきます」
「うむ」
眠ってしまわないように雑談をしながら帰り道を往く第六天魔軍。
おお、ようやく清洲に戻って来たぞ! と城が見えた辺りで信長の身体にも活力が漲り始める。
風呂入って寝る、いや風呂は良いからもう寝る! などと考えていると……。
「ん?」
清洲城の城門前に、居るはずのない人間を見つける。
疲れてるのかと目を擦ってみてもやっぱり居る。
「あ……」
「いや、お前何で居るんだ帰蝶? つか、そんな格好で」
城門前で胸の前で祈るように手を組んでいた帰蝶。
着ているものはずぶ濡れで、泥もあちこちはねている。
美しい星空の御髪も、乱れ汚れているし、顔にも疲労の色がありありと見える。
とても姫とは思えぬ出で立ちで、信長のみならず家臣達も困惑しているではないか。
「えと……あ、あの…………」
帰蝶は母とのやり取りで懐いた情動のままに、馬を盗んで嵐の中を駆け出していた。
尾張へ、清洲へ向けて。そうして辿り着いてみれば信長は出陣したと言う。
城に居るはずの帰蝶がどうして外から来るのかと疑問に思った人間も居たがそこらはテキトーに言い包めた。
言い包めて、直ぐにまた外へ出てずっとずっと城門前で待っていたのだ。
冷たい雨を遮るものも用意せず、ただただ雨の中祈り続けていた。
どうかもう一度、あの人と語らう機会をください――と。
「……お、おかえりなさいませ」
不安げな表情で、何を云えば良いかおろおろしていた帰蝶だがようやく言葉を絞り出せた。
何ともまあ、可愛くなったものだと信長は苦笑を禁じ得ない。
「(一体美濃で何をしてたのやら……いや、まあ良いか)ああ、ただいま戻ったぞ」
義元の首を獲り、雪斎への復讐も軌道に乗った。
溜め続けていた鬱憤をある程度吐き出せたおかげで今の信長はとても晴れやかだ。
だから何時の飄々としたものや不敵なそれとは違う、とても穏やかな笑顔を浮かべられるのだろう。
「帰蝶」
「は、はい!」
「義元の首を獲った、尾張への進軍を堰き止めた。後の仕込みも上々――――道三に自慢出来そうか?」
私の夫は、母などとは比べ物にならぬ傑物であると。
斎藤の家を継ぐよりも織田に、信長に嫁げて良かったと胸を張って言えるか?
「……十分で、御座います」
美濃へ行く前に見た恐ろしい信長。
尾張に戻り、今此処で見つめ続けている慈愛に満ちた信長。
温度差が半端ではないが、しかしそれでも、だからこそか。
帰蝶はじわりと己の胸の中に温かい何かが広がっていくのを感じていた。
「そいつは重畳。それと、少しでも心を赦してくれたんなら楽に喋ってくれないか?」
「分かりました……いえ、分かったわ。あなた」
「よし! じゃあ閨に行くか!」
「え!?」
「ん? 嫌か?」
戦には空気がありまする。押すべきと見定めたのならばとことん押すのが最上に御座る。
それは女性関係でも適応されるのだと、信長は熱く語りたかった。
「い、嫌……では……ない、けれど……」
もじもじする帰蝶、こんな反応を見せる時点でもう堕ちている。
さて、将も兵も居る中で繰り広げられる桃色空間だが……。
「あ、あの……殿?」
「何だ勝家?」
「つ、疲れていたのでは?」
「馬鹿野郎! 疲れ魔羅と言う言葉を知らんのか!?」
馬から飛び降りた信長は帰蝶を抱いてさっさと城の中へ去ってしまう。
こうして、微妙に締まらないまま桶狭間の戦いは幕を閉じた。
 




