19話
信長は強く、明確な意思を以って断言した。
「織田の御家は親父殿が愛し育み続け、お前が努力を以って得ようとした宝だ。
能力云々はともかくとして、聖剣なんて便利な看板持ってる俺が継ぐのが一番良い。
誰にも任せん、宝を失わせるわけにはいかんのだ。だから、今日より、俺が織田の当主となる」
初陣前、既に決めていた。
頭が回り、先々のことが読めてしまうがゆえにそれしかないのだと理解してしまったから。
「それは……兄上の好む、生き方を曲げると言うことでは……」
雪斎の暗躍、恐らくそれは正しいのだろう。
それでも信勝は彼女に怨み辛みは抱いていない。
目を曇らせ、本質を見通せずに愚かで在り続けた己の責だから――と。
だからこそ、自分のせいでわだかまりが解けて素直に兄と呼べるようになった男に重荷を背負わせるのは……。
真っ直ぐ、これまで貫いて来た生き方を捨てさせるのは、心苦しかった。
だが、そんな信勝の内心を見通したように信長は小さく笑んだ。
「ハ! そうでもねえさ。此処で何もかんもに目ぇ逸らして背を向けちまったら俺は俺が赦せなくなる。
通すべき筋を通さない、そんな生き方をしたくはない。したくないことを俺はしない。
全部放り出して好き勝手生きる、そんな道を選ぶつもりは毛頭なくて、家を継ぐってのは俺が俺の意思で選んだ道だ。
確かにお前の喪失と言う要因はある、だがその上で自分がどうしたいか。己に問いかけ定めた道だ」
だからそこに後悔が生まれる余地など存在しない。
それに、信長としてもこのまま引き下がるわけにはいかないのだ。
「家を継ぐつっても、俺は我を通すぜ」
「と言うと?」
「寄らば大樹の陰。大樹の望むがままに戦をしたり誰ぞを娶ったりするつもりは毛頭無い」
つまり、独立独歩。
誰の下にもつかないと言うのならば、つきたくないと言うのならば目指す場所は決まっている。
「――――俺は天下を取ろう、誰にも阿らぬためにな」
それは太陽の如き熱を秘めた、力強い宣言だった。
信勝はポカーンと口を開け唖然とするも、直ぐに笑い始める。
群雄割拠、英傑達が乱立するこの日ノ本において織田と言う御家は弱い。
その弱い織田家で天下を取ると宣言したのだ、この兄は。
うつけの大言? いいや、曇り無き心で受け止めればどうしてか信じてしまいそうになる。
「さあ、そうなると目下邪魔臭いのが居るよな?」
「……今川、ですね?」
自身をターゲットにして兄の心を圧し折ろうとした雪斎と今川。
信勝に繰り糸を垂らしたのは恐らく雪斎の独断だろうが、どの道今川との衝突は避けられない。
「ああ」
斎藤との和睦は一応成っているのだ。
主家織田やらはとうの昔に信秀が喰らい尽くしている。
そうなると、敵対しているのは今川のみ。
「俺が今回の一件で一番ムカついているのは俺自身だ。
でも、俺は俺にしか出来ないことがあって、それをやらなきゃいけねえ。
厚顔で悪いが、お前には何一つとして償いをしてやれん。此処で腹掻っ捌いて詫びてもあの糞尼が哂うだけだからな。
だから死なん、とは言えそれじゃ俺の怒りが収まらん。ゆえに、二番目に苛吐いてる奴にぶつける」
信勝謀反、その一件で信長が怒りを抱いたのは二人。
一人は織田信長――つまりは自分自身。
もう一人は、
「太原雪斎。ただでは殺さん、俺を舐めた報いを受けさせんとなぁ……後悔と苦渋の中で地獄に叩き落してやる」
雪斎は今川と言う御家自体を大切に想っているわけではない。
彼女が生き甲斐としているのは今川義元その人だ。
彼が望む天下取りを支えるために滅私で尽くしている。だって愛しているから。
見返りが無いとしても、愛する人のために出来ることがあるならばどんなことだってしてあげたい。
"弱者の戦法"を使ったところを見るに、雪斎はその手の人間であることは間違いない、信長はそう当たりをつけている。
「奴の一番大切な宝を蹂躙してやる。足蹴にして踏み潰して磨り潰して唾を吐きかけて塵のようにばら撒いてやる」
そのために、今川家を潰す。それを以って怒りを総て清算しよう。
何時までも怒っていれば人生を楽しめないから。
「強者が弱者の戦法を使えばどうなるか、どんなツケを払わねばならんのか魂魄にまで刻み付けてやらぁ」
「――――」
生まれて初めて目にした、信長の剥き出しの悪意。
それは天魔もかくや、ただただ恐ろしい。
しかし、その怒りの根底にあるのは自分だ。弟を想うがゆえに赫怒の炎を滾らせている。
そのことを自覚し、どうしようもなく照れ臭くなった信勝は話題の転換をはかった。
「あ、兄上……強者が弱者の戦法と言うのは一体?」
「ん? ああ……」
懐から取り出した煙管に、近くにあった蝋燭の火で炎を灯し一服。
くだらない話を真面目にするのが馬鹿らしいからだ。
「この日ノ本で、今、最も天下に近いのは今川だ。
ま、諸々の事情もあるだろうから直ぐに上洛とはいかんだろうがね。
それでも、織田とは比べものにならんのは分かるな?」
こくりと頷く信勝。
素直な弟を見ていると、可愛くて可愛くて頬が緩んでしまいそうになる。
が、同時に折角わだかまりが解けたのに夜が明ければ永遠の別離が待っている――信長にはそれが悲しくてしょうがなかった。
「奴さんは真正面から俺らを叩き潰せる力を持ってるのさ。
だってのに、そうしなかった。まあ、雪斎の独断だから義元のせいってわけでもねえがな。
だとしても、時を待ち、問題を解決し上洛のために京を目指せば織田を踏み潰すことは出来た。
雪斎はやらなくても良いことをしたんだ。俺を恐れ、胸糞悪い方法を取った」
ドス黒い悪意の炎が信長の瞳の奥で渦巻く様は地獄の如し。
「そりゃ自軍の被害を減らすためとか、万が一の痛手も負いたくないとか理由もあろうよ。
だけど、それはアイツらの事情であって俺には関係ねえ。
胸糞悪い方法もな、バレなきゃ良いんだ。だが、雪斎の阿呆はバレた時のことを考えてねえ。
弱小勢力が使うのならば、胸糞悪い手も気付いたとしても必死の方策だと怒りはそこまで掻き立てられん。
が、今川のような強大な勢力が使うのはバレた場合、これでもかと怒りを掻き立てる」
別に正道こそが真理だなどと謳うつもりはない。
汚い手を使ってでも成し遂げるのが当然だと言うのも間違いではない。
「強い奴が、正々堂々と進むのは最低限以上の恨みを買わぬため。ちゃんと、理があってのことだ。
奴にはその理が分かっていない。勝つために最善を尽くしただけ? 阿呆が。
最善ってのは効率が良いってことじゃねえのよ。
損得なんぞではかれぬ人の心を加味出来ぬ、ただ効率の良い手なんざまるで意味がねえ。
まあ、そこらも分かった上でやるってんならそれはそれで一つの手だがな」
何にしろ、雪斎のやったことは巧い手ではなかった。
「汚い手を使って負けた場合、酷いことになる。だから、なるたけ使っちゃならんのさ。
使うにしても、選ぶべきなのさ。相手を、時を、強者にとって弱者の戦い方は諸刃の剣。
己を傷付ける可能性も分からぬままに使ったツケが、今、この俺が感じている煮え滾った憎悪」
「……成るほど」
憐れみを受け、心底悲しまれている自分にさえ恐ろしく感じる信長の悪意。
こんなものを生み出したのだから諸刃の剣と言うのもよく分かる。
信勝は何度も何度も頷いた、実に勉強になると。
これより先に活かせることは出来ないけれど、それでも実りある時間だ。
終わりへと近付く時計の針、それでも、だからこそもう少しこんな時間を過ごしていたい。
初めての兄弟の語らいはこの上なく充実したものだった。
「兄上は、どのようにして今川を討つつもりなので?」
「奴が上洛をする時、そこを狙う。基本的には、な。そのためにも、しばらく俺はこれまで以上に、うつけになる」
「……雪斎を、欺くのですね?」
「ああそうだ。人は見たいもんだけを見る、奴の望み通りに心を圧し折られてやろうじゃねえか」
それが恐怖を抱いていた相手ならば尚更だ。
恐れ、こんな手まで使ってどうにかしようとした相手。
直ぐに信じられるわけでもないが、それでも信長が言ったように"人は見たいものだけを見ている"。
それがこの上なく恐ろしい相手ならば尚更だ。心の安定をはかるために、無意識のうちに信じ込んでしまう。
確かめようにも、傍にはマーリンが居る以上、下手なことは出来ない。
それに雪斎の視点では下手に突っつけば気付かれていないと思っている、信勝の一件まで嗅ぎつけられてしまう可能性があるから。
これから雪斎は、自縄自縛の状態にさせられ、目を曇らせることになる。それこそが信長の狙いだ。
「……お前の死、利用させてもらう。明日、俺がお前の首を刎ねて、その場で大泣きするつもりだ」
これでもかと哀れを誘い、もう立ち上がれぬと思ってしまうほどに醜態を見せる。
「構いませぬ。今回、私の軍を制圧した手管を見て兄上がうつけではないことは知れ渡りましたからな。
これからただうつけの振りをしても、領民や家中の者は信じてしまう、振りをしているだけなのだと。
そして、その信が雪斎にも振りであると気付かせる可能性がある以上、肉親の死で折れたと思わせるのは最上でしょう」
哀れを誘う姿を見せ、その上で演技をすれば人々は勘違いするだろう。
弟の死によって心が折れて、本当にうつけになってしまったのだと。
同時に、同情出来る理由ゆえ、滅ぶその土壇場まで家中での分裂も避けられる。
何せ、今回信勝に着いた者達は加害者である自覚があるのだから。
下手なことを言えば信長派の者に冷ややかな目を向けられてしまう。
「そして、なればこそ私も醜態を晒しましょう。弟の私を殺すのか、お前が悪いのだ。
嫌だ! 死にたくない、助けて兄上! 助けて兄上! と……そうすれば、より現実味が増しましょう?」
「……うむ、頼む」
良いのか、などとは言わない。
弟の決意に満ちた頼もしい笑顔、それを前に無粋をどうして口に出来ようか。
「ふふ、嬉しいものですね。共に戦えると言うのは」
最初で最後の兄弟の共同戦線。
途中で信勝は離脱してしまうが、それでも心は共に。
「ああ、見せ付けてやろう。満天下に、俺達兄弟の恐ろしさをな」
最早死は避けられないのならば、せめて歴史に名を残そう。
自分が天下を取り、その上で信勝の名誉を回復させる。
そのための第一歩だ、今川などはそのための踏み台だ。
信長は深く静かに、誰にも教える気のない決意を固める。
「ええ……ねえ、兄上」
「何だ?」
「一つ、御願いがあります」
「言ってみろ、叶えられるのならば叶えてやる」
兄の言葉に大きく頷き、弟は静かに語り始める。
「生まれや育ちで左右されず、努力した者が報われる。
人は皆、誰も平等なのだと信じられる国を作ってくれ――――とは言いません」
「言わんのか、いやまあ無理だけどさ」
「でしょう? 夢見がちな自覚はありますが、それでも道理ぐらい弁えていますよ」
苦笑する信勝、何と心地良いやり取りなのだろうか。
弟も、兄も、惜しむように何でもないこの瞬間を心に刻み付けていた。
「でも、せめてそんな夢見がちな言葉を秘めたりせず、誰でも口に出来る世の中になって欲しいです」
異端だ、受け入れられない、排斥される。
そんなことを考えて胸の内に秘めてしまうことのないように。
馬鹿にされて、笑われて、ちょっと恥ずかしい思いをするぐらいで口にすることが出来る世の中になって欲しい。
信長にそんな世の中を作って欲しい――優しい祈りを言葉に乗せる。
「兄上に、私の夢を託しても良いですか? 叶えてもらって、良いでしょうか」
「無理だな」
「……そうですか」
気休めで出来ると言われるよりは、こうしてハッキリと断られた方が良い。
それに、兄は出来ないことを口にするのは似合っていないから。
少しばかりの落胆を感じた信勝だったが――――。
「――――百年だな、俺に出来るのは」
「え」
百年? 一体何のことだろうか。キョトンとする信勝に向け信長は語り始める。
「お前の思想を浸透させるには、お前の思想が特別珍しいものでないようにするには今の人間は未熟が過ぎる」
出来ないことは口にしない、だが逆に言えば出来ることは口にする。
「大きな意識の変遷を促そうと思ったら、それ相応の時と人の成熟が必要になる。
それこそ、当たり前のように存在している身分格差を失くそうと思えば並大抵のことじゃねえ。
なあ信勝、坂上田村麻呂は予想したかな? 征夷大将軍と言う地位が日ノ本の実質的な支配者の号になるってよ」
「それは……」
「今じゃ征夷大将軍になるってことは日ノ本の支配者になるってことだ。誰でも知ってる」
たかだか現地軍の最高司令官の称号だった征夷大将軍。
それが日ノ本の支配者が得る称号であると言う常識に変わるまでどれほど時を有したか。
「俺達の知る常識が常識になるまで、田村麻呂の時代から数えても八百年近くかかってる。
一朝一夕で意識の変遷を成せたわけじゃねえ。ましてそれが、異端とも言えるものなら尚更よ。
時だけでなく、人々がもう少し熟れなきゃ無理だ。熟れさせるために必要なのは教育。
学問は人を豊かにする。学問を嗜むことで、これまで狭かった視界が広がり世界までもが広がりを見せる。
新たな思想の芽生え、多様化する個人、時に対立し、血を流しながらも際限なく可能性が生まれ続ける」
その多様化した社会の中でならば、信勝の思想は珍しいものではなくなる。
青臭いと笑われることはあっても、それぐらいだ。
異端だと目をつけられ排斥されるようなことにはならない。
「俺が何もせんでも、いずれはお前の思想が受け入れられる時が来るだろう」
そんな社会から、かつて誰かだった男はやって来たのだ。
「だから、俺に出来るとすれば百年。百年、時を早めることぐらい。
俺が創り、お前の望む未来へ続く土壌で育まれた国と人は、俺の予想よりもほんの少しだけ早く辿り着ける」
自由な民が暮らす自由な世界に。
それはある意味で、今よりもしんどい世界かもしれない。
それでも、人を縛るものはずっと少なくなっているはずだ。
信勝は見果てぬ未来を夢想し、嬉しそうに笑った。
「それでも構わないと言うのならばやってやるさ。
一先ずは平和な時代に、そしてその中で俺が細々と仕組みを変えて未来への布石を打とう。
とは言っても、未来に重きを置いて現在を軽んずるつもりはない。だから、お前が気にすることは何もねえ……どうする?」
不敵な笑み、思わず信じてしまいたくなる力強い笑顔。
これこそが兄が持つ、王者の資質――その一つなのだろう。
「兄上は……」
「ん?」
「――――兄上は凄い、敵わないなぁ」
「ハ! ま、兄貴だからなぁ」
「ええ。だから、その頼れる兄に託しましょう。私の、祈りを」
それから二人は夜通し語り合った。
国がどうとか家がどうとか、そんな真面目な話ではない。
諸国漫遊の話、女の話、食事の話、酒の話、何てことはない雑談。
死しても忘れぬように、置いて逝かれても忘れぬように、何でもない、それでも掛け替えの無い語り合いを二人は心に刻んだ。
朝が来て、二人は何も言わずに、ただ微笑み合って別れた。
次会う時は刑場で、そこでは偽りの仮面を被らねばならない。
だけどもう十分。俺は、私は、語らった。一生分の兄弟の語らいをした。だから満足だ。
信長は軽やかな足取りで牢を出ようとしたところで、
「……お前、何やってんだ」
兄弟の語らいが聞こえるギリギリの距離で、隠れ潜んでいた勝家を見つける。
万が一を心配して、残っていたのだろう。
「そ、某は……」
「ああ、もう良いよ。泣くな馬鹿、お前の鬼みてえな面で泣かれた日にゃ腹筋が捻じ切れそうになる」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている勝家を見て思わず苦笑が浮かぶ。
「それよか、気合入れろよ――――此処からだ」
「ハッ!!」
もう逃げない、戦い抜く、始まりの朝に誓おう――他の誰でもない己自身に。




