1話
天文十五年(1546年)、元服を翌日に控えた信長だったが……。
「おー、今日も良い天気だなぁ。そうは思わんかよ、犬」
今日も今日とて粗雑な格好でフラフラとしていた。
こっそり城を抜け出しては民百姓と相撲を取ったり泥遊びをしたり、それが信長のライフワーク。
おかげで家中の評判はうつけ一色、溺愛しているのは父である信秀のみ。
「若ぁ……」
眉をハの字にしてしゅんと項垂れている少年の名は犬千代。
後の前田利家である。
この頃は信長の小姓として仕えていたのだが、彼もまた信長の奔放さに頭を痛める一人だった。
「情け無い声を出すな。お前もそろそろ良い歳だから女の味ぐらい覚えようぜ? 今日は口説き方教えてやるからよ」
「いや、私はそんなことに興味無いし……」
「嘘吐け。目が泳いでんぞ」
この頃の信長はハッキリ言ってうつけと呼ばれてもしょうがない振る舞いをしていた。
彼には致命的なまでに責任感が欠如していたのだ。
為政者の息子として備えていて然るべき責任が。
だが、勿論それにも理由がある。
そもそも信長の意識は現代人のそれだ。
定められた道を歩くのを嫌い、史実の信長の道を辿り天下を目指すなんて気が更々なかった。
信長は信長、自分は自分。何故、他人の人生をなぞらねばならぬのか。
一個の命としてこの世に生を受けた以上は好きに生きるべき。
この時代では異端とも呼べる、人の歴史が厚みを増した未来で培われた価値観のままに生きているのだ。
それゆえ、この時代の人間からすれば"うつけ"と呼ばれてもしょうがない。
戦前生まれの人間と戦後生まれの人間どころではないジェネレーションギャップ。
埋める努力すらしないのであれば溝は深まるばかりで、うつけの評価が外れぬのも已む無しと言えよう。
「さ、先ずは物色だ。一通り女を見定めた後で仕掛けるとしようか。お前、好みとかあるか?」
「え……いや、それは……年下?」
「俺達の齢で年下ってお前……」
そう言えば十一歳だかの嫁を貰っていたっけと思い出す信長。
淫行条例が無い戦国時代って恐ろしい、信長はそう思った。
「まあ良いけどさ。さて、歩きがてら何か面白い話でもしてくれよ」
「面白い話!? そんなこと言われても私、分かりませんよ」
「何でも良い。御伽噺でも世間話でも、時間が潰れるのならな」
「はぁ……それでは、分かりました」
こほん、と咳払いをする犬千代。存外、彼も付き合いの良い男らしい。
「鎌倉の幕府が滅び、足利が成立して今へと至るわけですが……」
きょろきょろと周囲を見渡す犬千代。
「どうした?」
「……その足利も最早、日ノ本を治めるに足る力がありませぬ」
軽く挙動不審だったのは、不敬な発言を誰かに聞かれるのが怖かったからのようだ。
それでも信長には話した、それは彼の人柄を熟知しているからだろう。
「そうだな。情け無いよな、ホントに」
権威なんてものがピンと来ない時代の人間だ。
幕府に対する敬意なぞあろうはずもなく、信長はあっさりと犬千代の言を肯定した。
「恐らくいずれは滅びるでしょう。若、何故鎌倉の幕府が滅び、今、足利も滅ぼうとしているか分かりますか?」
「要因は幾らでもあるだろうが……そう言うことじゃないんだよな?」
「ええ、これは与太話の類で御座います」
そう前置きして犬千代は語り始めた。
「源氏長者、公方様、どちらも共通しておることが御座いまする」
「それは?」
「剣を抜いておらんのですよ、どちらも共に」
「剣?」
「左様。具体的な地名は忘れてしまいましたが京の都の何処だかには如何な力自慢でも抜けぬ岩に刺さった剣があるそうで」
「(エクスカリバーかよ……いや、同一じゃないんだっけ?)」
アーサー王物語を想起した信長だが剣については諸説あるので論ずるのは無駄だ。
分かり易さで言えばもう全部エクスカリバーで良いんじゃないかな? で済むが。
「銘はエクスカリバー」
「(ちょっと待て。戦国時代に聞き慣れぬ響きが出て来たぞオイ。と言うかガチでエクスカリバーかよ。どうなってんだ日本)」
「少なくとも朝廷に弓を引いた将門公の時代には存在していたようで、彼の剣にはある謂われがあるのです」
「……その剣を抜けた者が日ノ本の支配者足る、とか?」
投げやりにそう問うてみると、
「知っておったのですか……若も御人が悪い」
「いや、知らんかったけど……まあ、推測で? ふーん、そう、そんな剣があるんだ」
もうこの段階で信長はどうでも良くなった。
異国情緒溢れる聖剣話を聞いてげんなりとしてしまったから。
「ええ。頼朝も、公方も、誰一人として剣を抜けなかった。ゆえに、正当なる支配者ではない」
だからこそどちらも滅ぼうとしているのだと言う。
だが、眉唾にもほどがある。
「現将軍も足利の興亡を占う意味で挑んだそうですがビクともせず。やはり足利は滅ぶのだと嘆いたそうな。
ああそうそう、一説によると義経公は抜けたそうだが、直ぐに要らぬと刺し戻したせいであのような末路を辿ったとか何とか」
「ほう……(京都の観光名所に選定の剣とは何とも言えんなぁ……)」
信長もまさかこの時は自分が抜くことになるとはまるで思っていなかった。
と言うかそれよりも気になることがあった。
選定の剣などと言う代物、どう考えても後世に伝わっていなければおかしい。
が、信長は授業においてそのような逸話一度たりとも聞いたことが無い。
「(……パラレルワールドってあれなのかな?)」
だとすれば自分が知る歴史にもさして意味は無いのかもしれない。
そう考えると少しだけ気が楽になった。
意識して史実の信長を辿らぬようにしていただけに。
「さて犬千代。道中、気になる女子はおったか?」
「うぇ!? い、いや……特には……」
話をしながらも女を物色していたのは信長だけではない。
ムッツリワンちゃんも密かにああでもないこうでもないと目を走らせていたのだ。
勿論、信長にはそんなことお見通しである。
「そうか、俺は見つけたぞ。ほれ、アレを見てみい」
「……あの者ですか?」
信長の視線の先では一心不乱に農具を振るう女の姿があった。
二人よりも歳を重ねており、歳の頃は二十そこそこといったところか。
だが、犬千代の顔は渋い。
「どうした?」
「いえ……顔立ちが整っていたり、乳や尻が実っておる女ならば他にもおったでしょう?」
ワンちゃんはロリコンだ。
それでも一般的な美的感覚を持っている。
その感覚に照らし合わせるのならば信長が目をつけた女はイマイチと言わざるを得ない。
荒れ放題とは言わないが、さして手入れがされていないであろう御髪。
栄養があまり行き渡っていないのか、乳も尻も貧しい肢体。
顔も不細工ではないが、そばかすがあり、何処か野暮ったさを感じる。
磨けば可愛くなるかもしれないが、最初から可愛い女が他にも居るのならそちらに手をつけるべきだろう。
「言わんとすることは分かる……が、まだまだ若いな犬」
信長とて美しい女は好きだし、その美的感覚も一般のそれとは変わりがない。
が、それだけで女を選ぶほどに短慮ではなかった。
数多の女を堕とし続けて養われた心の眼に響くものがあったからこそ信長は彼女に目をつけたのだ。
「女の美しさは顔相にのみ宿るのではない。それに……」
あの女を良いものをくれる、信長はホストとしての経験からそう直感していた。
琴線に触れる美しさを持ち、利も齎すのであれば口説かぬ道理が無い。
「それに?」
「いや、何でもない。話しても分からんだろうしな、その辺の感覚は」
さて、信長が目をつけた村娘だが確かに只者ではなかった。
此処数百年は民百姓の皮を被り土を耕し大地と共に生きては居るが中身はまったくの別物。
そして、信長達が彼女を見ているように彼女もまた信長を見ていた。勿論、彼に気付かれぬように。
「(アレが尾張の虎が長子、吉法師……評判通りのうつけみたいね)」
顔を見るだけでも分かる。
その程度には齢を重ねているのだ。
ゆえに女は落胆した。自分の琴線に触れる為政者でなかったことに。
「(信秀は中々の傑物だったけれど……日ノ本を平定するにはかなり足りない)」
はふぅ、と気付かれぬように溜息を吐く。
「(九郎義経は良い線言っていたけど、根が破壊の徒だったし……あら?)」
考え込んでいると、女の下に信長が歩み寄って来た。
「ど、どうなさいましたか御武家様?」
「いや、俺は武家ではないぞ。どうしてそう思った?」
信長がこの村を訪れたのは初めてで、身元も明かしていない。
他の場所で出会ったのだとしても、それなら信長自身も気付いていたはずだ。
それほどまでに彼の目に映る女は印象的だから。
「え? あ、や……」
長生きはしているが、割と抜けているのがこの女のチャームポイントである。
「り、凛々しい顔立ちをなされておったのでそうかと……」
「ハッハッハ! それは嬉しいが、俺は寄る辺無き漂泊者よ」
人の機微に鋭くなければ成り立たぬのがホストと言う職業だ。
それゆえ、当然女の不審な態度は信長も気付いていたが敢えてスルーした。
このようにボロを出す相手ならば追求する必要も無いと。
「名はシン――信だ。御主の名を聞かせてくれるか?」
「……まりに御座います」
「まり、か。良い名だ。まり殿、旦那はおられるか?」
「? いえ、未婚に御座います」
「好いている男は?」
「居ませんが……」
「家族は?」
「病の父と、幼い弟妹が」
長きを生きる女にもイマイチ質問の意図が分からなかった。
明言しておくのならば長生きだけすれば良いと言うものではないのだ。
顔相のみで判断しなかった信長、顔相と伝え聞く噂で判断したまり。
差は歴然で、あまりにも明瞭な違いが二人の間には横たわっている。
「成るほど、だから御主は美しいのだな」
「え……へ、へ?」
ごつごつとしてとても女のそれとは思えぬ酷い有様の手を宝物を手にするように、丁寧に優しく包み込む。
突然の事態に目を丸くするまり。
「俺はこの手に、黄金を見たぞまり殿」
「おう……ごん? そ、そんな! このような醜い手に……」
「何を言うか! これは御主が今の今までその命を勇敢に戦い抜いた証であろうが!!」
突然の一喝に目を白黒させる。
まりはなるたけ貧相で気立ても良くない、嫁の貰い手すら居ないであろう姿を取って来た。
そしてフラりと何処ぞの家族に魔道の力で紛れ込み、人並みの時間を過ごしてはまた別の場所へと移動して過ごして来た。
勿論、家族となったからには人の力の範囲内でその者達のために尽くして来たので先の言も嘘ではない。
そうやって長い時間を過ごして来たが美しいなどと言われたことも、手を褒められたことも一度たりとてなかった。
「民百姓こそが国の礎である。彼らを軽んじれば国は滅ぶ。
土と共に生き、やがては土に還る、生まれてから死ぬまでをこの大地と共に生きる美しき者達。それが百姓だ。
だから俺は彼らの手が好きで好きでしょうがない。美しい、素直にそう思えてならないのだ。
まりは信長の力強い言葉にほんのり頬を染めながらも驚きを隠せなかった。
うつけと呼ばれている若殿がまさかこのような見識の持ち主であったとは思いもしていなかったから。
「(でも確か吉法師は良く民百姓と戯れていると……)」
それはこの見識あってのことかと驚嘆する。
「中でも御主は今までに見たどの者よりも美しい。それは何故かと思い、先の問いを投げたのだ。
女の幸せを求めて嫁にも行かず、好いた男すらも作らず家族がために働き続けたからなのだな。
女だてらに病身の父と、幼い弟や妹を護るために戦い続けたからこそ、その手は眩い光を放っておる。
尊敬するぞ、心の底から。美しいその生き方にそこ人の尊厳が宿るのだな。学ばせてもらった、ありがとう!」
もうベッタ褒め。
まりは茹蛸のように顔を真っ赤にして信長の言葉に聞き入っていた。
もうすっかり第六天魔羅王様の術中である。
「い、いえ……こちらこそ、そのような御言葉、勿体のう御座いますぅ……」
フルフルと身体を震わせ、潤んだ瞳で上目遣いをするまり。
実年齢ではない設定年齢も彼女の方が上だが、信長はガタイが良いので丁度良い按配だ。
「まり殿」
「は、はい!」
「俺は御主に惚れた!!」
声高に、堂々と、誰憚ることなく愛を叫ぶ。
ちなみに現代ではこのようなことはしていなかった。
単純に今生きている時代に合わせただけ。現代で得たものを応用しているのはあくまで女と対峙する際の要訣のみ。
「さりとて、俺は流浪の身。そして、御主に護るべき者を捨てて着いて来いなどとは口が裂けても言えん」
その上で、
「それでも良いのなら、どうか輝ける思い出を俺にくれまいか? 御主を――――抱きたいのだ、余すことなく」
ズキュゥウン! と効果音がつきそうな口説き文句。
しっかり観察していろと言われた犬千代は聞いているこちらが恥ずかしいと顔を真っ赤にしていた。
「はいぃ……よ、喜んで……」
現代においては死語、しかしこの時代では未来に生き過ぎている言葉で例えるなら『めろめろ』と言った顔のまり。
「ありがとう。では、丁度良いところに小屋もあるし往こうか」
そうして堕とした女こそが、千年を生きる魔女マーリンだった。