はじまりの
「紫恩さま、ご覧下さい。」
薄氷の張った大きな池が太陽の光を反射し煌く。
白い息を吐く少年は、隣に立つ小さな少年に笑いかけた。
「氷が張っていますよ。今朝は随分な寒さでしたからね。」
「わぁ!本当だ、綺麗だね。」
鼻先や頬が赤く染まっているのが可愛らしく思えて、少年はクスッと微笑んだ。
「絵漢!ちょっと来てくれ!」
何処かから少年を呼ぶ声がして、
「絵漢、良いよ。行っておいで。僕はここに居るから。」
小さい方の少年がニコリと笑って言った。
「あ、はい。すみません。おかしいな、言っておいた筈なのですが。」
「急用かもしれないよ。早く行きな。」
少年は足早に屋敷の方へ戻った。
「絵漢は頼りにされてるなぁ。……。」
俯いた先、薄氷の下に少年は影を見た。
「何だ、あれ……?」
「何だったんだろ。確かに誰かに呼ばれたのだけど……あれ?」
絵漢がもどってきたとき、いるはずの少年の姿は何処にもなく、池の水面が風に吹かれて波をたてているばかりだった。
「紫恩さま、どこですか?紫恩さま?」
何の音もしない。
風の音も、人の行き交う音さえ何かに遮られるように静まり返っていた。
「紫恩さま……?…っ!」
池の水面が音をたて、コポッ、ポコッ、と泡が弾けた。
「だっ……誰か!!誰かぁっ!!」
泡の正体は、紫恩の吐いた息だった。
背中を上にして浮かび上がってきた紫恩の体を、絵漢が死物狂いで陸に引き上げた。
「ど、どうして!紫恩さま!」
紫恩の顔は紙のように白く、唇は紫色をしていた。
ぎゅっと目をつむり手は白くなるほど服を握りしめ、ぴくりとも動かない。
「紫恩さま、紫恩さ…ま……」
屋敷のものが絵漢の声を聞いてか慌ただしく駆けてくる、砂を踏むざくざく、という音が後ろからしていた。
「紫恩…さま!」
「……っ、……はぁ、……っぁ、!」
微かに大気を揺らす音を聞き、絵漢は跳ね起きた。
紫恩が上半身を折って苦しげに胸を押さえている。
「紫恩!!」
背中に触れるとごつごつとした骨が指先に触れた。
また痩せた。
絵漢の胸にチクリと痛みがはしった。
「へ、っいき、……大丈夫、だっ…あぁぁっ!」
咳き込んだと同時に口から水が溢れでてきた。
ゴボゴボとまるで溺れているように。
「っげほっ、…げほっげほげほ……、」
しばらくそうして、ぜぇ、はぁ、と少し落ち着いてくると、紫恩が顔を上げた。
真っ青で、今にもくずおれてしまいそうな儚い笑顔を浮かべていた。
「ごめ、…ね。今日、調子が、悪い…みたい。起こしちゃった…ね、…うぅっ…!」
「紫恩!しっかり、今日は満月なんです。」
「あ……それで、か……」
また少し水を吐き出して、紫恩がじっとこちらを見ていた。
何かを言ったが呟くような小さな声で、かすれた息の音しか聞き取れなかった。
「どうしたの?」
耳を近づけると今度ははっきり聞こえた。
「そんな顔、しないで。」
「そんな顔って…?」
「何で絵漢が泣きそうなんだよ……けほっ」
だって、僕のせいだから。
僕が身代わりにならなきゃいけなかったのに。
そのための僕だったのに。
「絵漢がならなくて、良かったよ。」
「え…」
「だって、絵漢が居てくれないと、皆困るもの。」
僕の心を見透かしたような紫恩の言葉は、優しさで溢れて、気遣ってくれているのが痛いほど伝わって来る。
だから、さらに悲しさが募って、言葉に詰まって、やはり何も言えずに、
「ごめん。……ごめん、…」
紫恩に悲しそうな顔をさせてしまっている。
池に落ちた日、最初の発作が起きた。
何処で調べても答えは一緒で、何処にも異常は無いと言う。
『いや、無いと言うか、あるにはあるんですがね。』
そうして口を揃えてこう言うのだった。
『…まぁストレスという可能性もありますから。たまにいるんです。見て欲しくて嘘をつく子どもさんは。』
そいつらが今僕の目の前にいたら、思いっ切りぶっ飛ばしてやるのに。