38.スペイン語 と 加賀乙彦 「悪魔のささやき」 に思う
スペイン語には実に 動詞 matar(殺す)を含めた熟語が多いような気がします。
物騒な言語だなぁと思いました。
お国柄でしょうか?
ドッジボールは mata gente (人を殺す)ですし、
(eso) no me va a matar って表現もあります。
「それは私を殺さない」が直訳ですが、もっと端的に言えば、「私を困らせない」とか、「私にダメージを与えない」って意味ですかね。
Matar el tiempo は「時間をつぶす」 ですし、
¡ No fastidies !
¡ No jodas !
¡¡ Te voy a matar !! 「うるさい!たたくよっ!」って意味にもなります。
(ギャングが使うと、本当に「殺すぞ!」です。)
Matame con besos... 直訳しますと、「キスで殺して」 ですが、まぁ、「熱いキスをして」って感じですかね、ふふふ・・・。
実際、彼ら、スペイン語話者は日本人よりも生きることに執着してるように感じます。
というか、自分が生きることが当前と思っているように思います。
日本人のように、自殺人口が多い国では考えにくいです。
日本人は自分のミスを死でもってお詫びをするようですが、
スペイン語話者の彼らは生き続けることで埋め合わせようとします。
生き続けながら直していこうとします。
死んでしまっては何も直すことができないからです。
過激な言い方を許していただけるとしたら、
仮に、彼らは自分が生きる為に他人を殺したとしても、自分を殺したりはしません。
そのような発想がないのだと思います。
日本では、自殺を美しく描きすぎているような感じもします。
三島由紀夫の『憂国』や赤穂浪士などがその代表的なような気もします。
日本は個人の主張ができない国だと思います。
加賀乙彦氏の『悪魔のささやき』の中にもありましたが、
日本人は、人から反対意見を言われることに慣れていないらしいのです。
他人に反対意見を言うと角が立つので、思っていても自分の意見を言うことを控えます。
仲間割れをしたくないからです。
古来の灌漑水田稲作の中で、個人プレーはできませんでした。
個人プレー=死につながるからです。
協調して和を保つことで生きながらえてきた民族です。
なるほど、やはり環境が人をつくるのですね。
サッカーの試合を観ていて感じるのが、
やはり日本人は元来の『農耕民族』なんだなって思います。
守りには強いけれど、攻撃には弱い。
欧州人は『狩り』の民族です。
自分が獲物を取りに行くことで命を繋いできました。
DNAにそのように組み込まれているので仕方がありません。
と、ちょっと話が吹っ飛んでしまいましたので、話を戻します。
日常的な暮らしのなかでもそれを垣間見ることができるような気がします。
彼ら、スペイン語話者の多くは理不尽なことには「No!」と言っているような気がします。
どんなに大人しそうに見える子でもです。
「No!」と言うこと・言えることもコミュニケーションの一貫だと思うのです。
教育が違うのだと思います。
日本人的考え方は「頑張りなさい。」「我慢しなさい。」です。
どこまで、いつまで、頑張って我慢をしなくてはいけないのでしょうか?
だから、究極まで我慢をし続けたあげく、死んでしまいたくなるのです。
カワイソウです。
子どもが変わるんじゃなくて、大人が変わらなくてはいけません。
最近の小学校では「討論」の授業もあるそうですが、
まずは、先生を含んだ大人が学んだ方がいいと思います。
何故なら、人の話を聞けない大人のもとで、子どもたちは成長していかなくてはならないからです。
「生徒は先生に従え」風の教育は未だに変わっていないような気がします。
先生が変わらないからです。
生徒の主張にいわゆる「討論」で負けそうになると、すぐに暴力で解決しようとします。
言葉で説明することを怠ります。
忍耐もいるし、時間もかかるからです。
最悪なのは、彼らは自分の言葉を持っていないからです。
私は高校時代に二回、先生と呼ばれる人種から頬を叩かれたことがあります。
一番手っ取り早い方法です。時間も労力も要しません。
時間もかけずに教育なんてできないと思います。
時間がないと言っているのなら、
学校の先生は勉強だけを教えていればいいのです。
部活動も、素行指導も全てをやりたがるから、結局は何もできない。
勉強が嫌いな子どもには技術を学んでもらえばいいのです。生きていくためです。
とりあえず、とりあえずと言いながら、とりあえず学校に、とりあえず三流大学へと繋いでいる。
そして、「どうせ三流大学出だから。」と自分を卑下しながら三流以下の会社に入る。
三流がイケナイと言っているのではなく、そのように思わせている社会がイケナイのです。
だから自分に対して自信が持てない。
生きていくことを肯定できないのだと思います。
日本で言う、大学なんてブランドです。有名企業だって役所だってそうです。
どこに入った、どこを出たなんて関係なく、
『何をしたのか』が大切なのに、そこに重きはおかれていないような気がします。
昨今の大きな事件を辿ってみても、役所がらみ、大手企業がらみの事件が多いです。
結局のところ、教育はファーストフードのようにはいかないのだと思います。
その時、頬を叩かれたって私の心は変わりませんでした。
私は、自分が間違っているとは思わなかったからです。
ただ、「次回からはうまくやろう。」と思いました。
「うまくやろう。」と言うのは、
その種の人間には近寄らないか、
うわべだけは彼らに従うように振る舞っておこうということです。




