車の免許を取ろう
大越伝次郎六〇歳、定年退職したら妻と約束していた。
車で日本一周することだ。だが伝次郎は免許を持っていない。
銀行勤めしてから取る機会を失ってズルズルと定年まで来てしまった。
伝次郎は日本でも三本の指に入る銀行の常務まで勤めた男だった。
だからプライドはやたらと高い。朝出勤の時は重役専用車が運転手付きで迎えに来る。
特に免許を取る必要もなかったのだが、退職したらそうも行かない。また運転する楽しみもある。
これからは有り余る暇な時間、これを有効に活用しない手はない。
奮起一番、伝次郎は自動車学校に通うことに決めた。
だがプライドの高い伝次郎だ。まともに取れる筈がないと思うが……。
「ちょっと君……車の免許を取りたいんだけど手続きはどうすればいいのかね?」
「ハイ、それならこちらに希望コースと、一定の書類に書き込んでください」
伝次郎は氏名、年齢など書き込んでいたが、意味不明なものがあった。
希望コース 普通車AT 普通車MT
「なんじゃこりゃあ? ATとかMTとかなんだね、これは」
「ああ、それは AT車はオートマチック車の略です」
「オートマチック? なんじゃね。それ」
「つまりギアチェンジを自動化したもので、クラッチを使う必要がないのです」
「ギアチェンジ? クラッチ? さっぱり分からん。君が書類に書いてくれたまい」
「えっどうして私が?。お客様が書かないと意味がありません」
「まったく融通が効かんねぇ。そんなんじゃ出世に響くぞ」
受付の女性は口をあんぐりと開けて呆れた顔をした。しかしすぐ笑顔で応える。
「申し訳ありません……細かいことは入校してから説明しますので、それからでも大丈夫ですよ」
とにかく妻と日本一周を車で周ると約束した。頑張らないといけない。
この年になって自動車学校とはいえ、学校に入学するとは思わなかった。
学校には必ず先生が居る。ここでは教官というそうだが先生に変わりはない。
取りあえず学科の方は、なんとか理解出来た。
ATとMTの違いも分かるようになった。伝次郎はATを選んだ。
最短コースなら二週間で取れるそうだ。だが今日で一〇日、未だに車が前に進まないのだ。
なんたって若造が教官? 偉そうに教えると云うよりも指図するからだ。
伝次郎は言ってやった。
「俺を誰だと思っている。あの大手銀行の常務まで勤めた男なんだぞ。口に気をつけたまえ」
とまくし立てた。
だが此処ではそんな肩書きが通用する筈もなく、場違いな発言は教習所の噂になった。
そして伝次郎この教習所始まって以来の不良生徒となった。いやまだ、なりつつある。
定年退職してもプライドだけは高かった。それが障害となり一ヶ月経ってやっと車が前に進んだ。
そう前に進むだけで、カーブも思うようにハンドルを切れない。
車が前に進むのは当然だが車はバックもする。これが困難を極めた。
「大越さん、落着いてやってください」
「そんなの分かっているよ! 私は常に冷静だが車が言う事を効かないんだ。仕方がないだろう」
「車が言う事を効かないのじゃなく、大越さんのハンドル捌きの問題です」
「なんだと! 私に説教するというのか私を誰だと思っている」
「知ってますよ。大手銀行の常務だったんでしょう」
「そうだ、分かったら口に気をつけたまえ」
またやってしまった。これで教官が三人も怒って代わってしまった。
そして一四日どころか半年も過ぎて未だに仮免許さえ取れていない。
その教習所の事務員から通告を受けた。
「大越さん、有効期限九ヶ月は御存知ですよね。このまま行ったら無効になり今までの教習がゼロからやり直しで、費用も無駄になりますよ」
そんな事は分かっていたが、つい人に教えられると腹が立ってくる性格だ。
なんたって大手企業の常務ともなれば、大勢の部下は傍を通っただけでひれ伏すのだ。
まるで王様のような気分だった伝次郎だ。
妻には何度も注意されていた。
「貴方これからはね、プライドは通用しないんだからね。これからの人生を楽しむなら、人とのお付き合いを大事にして下さいね」
分かっているのだが、くだらないプライドだと云う事を。しかし長年プライドをバネに仕事をして来た。
取引業者の駆け引きもそれで旨くやってきて成功を収め長年それでやって来た伝次郎はプライド・イコール仕事、それが伝次郎の人生だったのだ。
残された期限はあと三ヶ月、これで取れなかったら世間の笑い者だ。
いや世間なんかどうでも良い。プライドはもう必要ないのだ。そう己に言い聞かせるのだが。
妻から何度も言われ肝に銘じたはずなのに。そして今日もまたやってしまった。
プライドは妻だけには通用しなかった。その妻の存在なくして伝次郎の出世はなかったのだから。
「さあ大越さん今日からやっと仮免許ですよ。路上運転に出ますから頑張ってくださいよ」
伝次郎は(やっと仮免)の言葉にムッとなったが我慢した。
まずコースを覚える為に他の仮免許生徒の運転する車の後部座席でメモを取る。
そして出番がやって来た。見られていると思うと緊張で手に汗が滲む。
路上に出るとまるで違う。素人は邪魔だと言わんばかりに追い越して行く。
教官は今日ばかりは何も言わないが、しかしチェックを執っている。
たぶん運転テクニックの採点しているのだろう。それを横目にハンドルを握る。
その時だ。となりの車が急に割り込んで来て一言、バカヤローウスノロ邪魔だ!!
伝次郎は限界を超えた。カァ~~~と体が熱くなるとアクセルを力いっぱいに踏む。
車は加速して右隣に並ぶやいなや、相手の顔を睨むと前に出た。
驚いたのは教官だ。相手の挑発に乗って乱暴な運転したのは聞いたことがない。
教習所始まって以来のことだ。だがもうひとつは運転テクニックが凄い。
こんなに上手いのだったら、とっくに免許を取れていたのにと教官は呟く。
「大越さん! なにをするんですか停めて下さい。教習中ですよ」
「そんなの知るか! 俺はいま侮辱されたのだぞ。世の中のルールを教えてやるんだ」
「止めなさい! それ以上暴走したら不適格として失格になりますよ」
だが頭に血が昇った伝次郎、もはや聞く耳を持たない。
それ処かハンドリングのテクニックが見事だ。相手の車の前に出て急停車した。
これだけの運転テクニックは何処から来るのか? 運転すると人が変わると聞いた事はあるが。
停められて怒った相手の運転手が血相を変えてドアを開けて出てくる。
「なんだこの仮免野郎が、こらぁオッサン許さんぞ」
だが伝次郎はプライドだけじゃい。学生時代から長年やって来た柔道の猛者だった。
怒り心頭した男が殴り掛かって来た。伝次郎はその手を払い退け一本背負いでアスファルトに叩きつけた。それを見ていた野次馬が一一〇番した。
もちろん仮免どこじゃなくなった。なんとパトカーが二台もやって来た。
教官は平謝りしてなんとか、その場は納めのだが。
暴走した上に暴力沙汰で教習所規約により退校とあいなった。
不名誉な記録として、教習所には伝説の人となり長く語り継がれたとか。
これで妻との約束をふたつ破った事になる。
ひとつは日本一周の旅が出来なくなったこと。新車まで買って準備したのに。
もうひとつは、妻に散々釘を指されたプライドのこと。
不思議と伝次郎は、妻の前では子供のように素直になるのだ。
妻はプライドが人を傷つけ、自分を駄目にするといい続けているからだ。
がっくりと肩落とした伝次郎は妻に詫びた。
「すまん。またやってしまった。俺は駄目な男だ。会社以外では通用しないプライドを、またしても出してしまって約束を果たせなくなった。車も無駄になり本当に申し訳ない」
「本当に貴方は困った人ね。私の前では素直なのに、仕方がないわ。これからは私が貴方の先生になるわ。プライドなんか必要のない人生を送りましょ」
「ああ、反省してるよ。しかし君の長年の夢、日本一周が出来なくなって、なんと言って良いか……」
「いいえ出来ますよ。私は貴方の妻を三〇数年もやってきたのよ。だから全てがお見通しよ。もしかしたら免許を取れないと思って、私が先に取って置きましたよ。二ヶ月で取れたのよ。だから私が運転して行きましょ」
「え~~~君が先に取ったのか?」
「そうよ。貴方と違って私は教官の教えに素直に従って取れたのよ。だからこれから先は貴方のハンドルを私が握るの。わかって?」
「…………」
それから暫らくして伝次郎は妻の運転する車で旅に出たそうだが、伝次郎が次に何をやらかすか? それは想像するだけで恐ろしい。
了
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