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(――鳥の囀りが……今日はずいぶん騒がしいのね)
オルレアの浮上した意識が、はっきりとする。
(いけない。寝坊したわ)
今日帰宅予定のロバートのために、昨夜少し無理をして税務院に提出する書類を仕上げたのだ。
ベルを鳴らすと入ってきた侍女は洗面用具を持っていない。
オルレアが僅かに首を傾げると、微笑みを返される。
「旦那様から、ゆっくりさせてやれ、とのお気遣いでございます」
(……そんなの本心であるはずがない)
「大丈夫、起きるわ。用意して」
「奥様は本当に働き者ですね」
そう言い残して侍女は準備をするために部屋を出ていく。
オルレアはベッドから下りると、衣裳部屋に足を踏み入れる。
書類の最終確認をするなら動きやすいほうがいいだろうと、装飾の少ないドレスを選ぶ。
洗面をすませ、髪は一筋も残さず結い上げてもらい、オルレアは執務室に向かおうとしてようやく気づいた。
(鳥の囀りではないわ……。これは――)
「奥様、どうなさいました?」
追随する侍女に悟られないよう、振り向かず聞く。
「誰か、お客様が?」
「はい。カッセル子爵様とヴィクトリア様がお出でにございます」
「そう」
オルレアは地味なドレスに一瞬躊躇いを感じるものの深く息を吸い、社交界で見せる愛されている妻ではなく理想の妻の表情を作る。
執務室の扉を開けると真っ先にロバートを確認した。
(不自然にならないように早めに退室しなくては)
夫の鋭く射貫く視線から逃れるように頭を下げる。
「お帰りなさいませ。申し訳ございません、寝坊をしてしまいました」
「――構わない。書類を仕上げるのは大変だっただろう。休んでていい」
「ありがとうございます。では書庫に帳簿の返却をしてまいります」
オルレアはロバートの幼馴染みであるカッセル子爵と男爵令嬢のヴィクトリアに体を向ける。
「おはようございます。カッセル卿、ヴィクトリア様。おもてなしもせず失礼いたしました」
「とんでもない。辺境伯家の使用人たちはとても優秀ですよ」
「ええ。そうだわ!オルレア様、お茶はいかが?」
返事も待たずにヴィクトリアが茶器に手を伸ばした。
「いえ、わたくしは」
「遠慮するな」
ロバートにきつく言われて、オルレアは僅かに首を縮める。
「どうぞ」
カップを置くヴィクトリアの指の爪は磨かれて花片のようだ。ピンクベージュの柔らかな色のドレスは適度にレースがあしらわれた可憐なもので、半分だけ結い上げた髪は王都で流行している型だった。
「ありがとうございます」
ソファに座り、カップを手に取る。芳しい香りに誘われるように口をつければ、コク深い味がオルレアの胸に染みいった。
「美味しいですわ」
「よかった」
ヴィクトリアが微笑む。無邪気で愛らしく、男性だけでなく誰もが目を留める輝く表情。その後ろで満足げにしているロバートの姿が見えた。
目を伏せ、紅茶の味だけに集中する。
「ごちそうさまでした」
オルレアは優雅に立ち上がった。
「では帳簿を返してまいりますので失礼することをお許しください。ごゆっくりなさっていってくださいませ」
一礼して、家令に目配せして執務室を後にする。
扉が閉まった途端、溜息が出て表情が崩れてしまう。
「奥様、大丈夫でございますか?」
(家令は何もかも知っているから、気負わなくていいわ)
「ええ。それよりもあなたのほうが大変そうね。わたしも持ちます」
老境の家令を気遣って帳簿の山の半分辺りから持ち上げようとするが、音を立てて二冊落ちてしまう。
「ごめんなさい!」
拾おうとしゃがんで、一冊が見覚えのない帳簿だと手を止める。
「奥様?あ、そちらは――」
家令の言葉が途切れる。その反応で、オルレアはこれは見てはいけないものだと直感した、が。
見るつもりはなくとも、見えてしまっていた。
ロバートがヴィクトリアの家を援助している事実を。
オルレアは無意識に胸元に手をさまよわせる。ルビーのペンダントに触れた途端、指先が弾かれたような痛みを覚えた。
「申し訳ございません」
家令の謝罪がただ通りすぎる。
「こちらはロバート様の個人資産の帳簿ね?」
「はい」
肯定されても、何の感慨もない。――むしろ吹っ切れた気がした。
オルレアは微笑んだ。完璧な妻からはほど遠い不格好な笑みに、家令は察したように僅かに目を伏せる。
「さあ、書庫に行って帳簿を片付けましょう」
「はい」
家令は静かに頭を下げた。
※
帳簿を片付けた後、私室に戻ったオルレアは頭痛を理由に侍女を下がらせた。
一人きり椅子に座ってしばらく天井を眺める。
去年に引き続き今年も辺境伯領の収益は高い。オルレアの実家からの援助も受け取らずに済んでいた。
この五年間で収入は右肩上がりで、少々のことでは八方塞がりに陥る心配はない。
オルレアは立ち上がり数ある宝石箱の中を確認して、持参したものだけを取り分ける。
ルビーのペンダントを外すと丁寧に宝石箱に収めた。
次は季節ごとに並べられた衣類に首を巡らせる。そのほとんどが妻として仕立てた物だった。
(置いていきたいけれど……。そうするとロバート様もヴィクトリア様も不愉快よね)
かといってオルレアも持っていく気はさらさらない。
(――家令に相談しましょう)
とはいえ着の身着のままで出ていくわけにはいかないので、日常使いの数着だけを選んでおく。
夜の帳が下りると、いつもどおり寝室に行くオルレアの足取りは自分でも意外なほどしっかりしていた。
(わたしって案外図太いのかしら……。そうよね、夫に〝仮面夫婦でいてくれ〟って言われても出ていかず五年も演じていたんだもの)
しかも最初の頃は、いつか夫に振り向いてもらえるかも、という根拠のない期待さえ持っていたのだ。自分の幼さが滑稽だった。
足音を立てずに入った寝室は、ロバートがすでにベッドの右側に横になっている見慣れた光景がある。
オルレアは初めて、ベッドを回りこんでロバートの前に立つ。
起きていた夫は少し目を見開いただけでゆっくり起き上がった。
「お話がございます」
「……改まって何だ?」
「離婚していただきたく存じます」
ロバートが今度ははっきりと目を瞠る。
「突然だな?」
「ええ。ですが結婚してもう五年も経ちますから。子ができなくて離婚したという理由が立つでしょう」
「そうだが」
軽く頷いてロバートが窺うような視線を向けてくる。それは結婚式の夜に見た弱さを帯びた瞳をオルレアに思い出させた。
(……この瞳を、思い違いしたのだわ。わたしを心配してくれているのだと――なんて愚かで厚顔だったのかしら)
オルレアが思わず笑みを零してしまうと、ロバートが凝視してくる。
「では失礼します」
「待て」
踵を返すと呼び止められたが、振り返らない。
「税務院に提出する書類に不備はございませんでしたか?今までありがとうございました」
ロバートが息を飲む音がはっきりと聞こえたが、そのまま寝室を出ていく。
(必要とされるふりに答えるのは、もう終わりね)
寝室の扉を閉めて歩き出した途端、ぐにゃりと足が力を失いオルレアは転びかけた。
(わたしったら……なんて大胆な……)
壁に手を伝わせながらなんとか進む。
(でも、これでいい。……最初からここにわたしの居場所はなかったのだから)




