0x2E 透華の母
静謐なリビングルームに、ひんやりとした空気が張り詰めていた。
窓の外では鈴虫が鳴き、まだ夏の盛りだというのに、どこか物悲しい蝉時雨が響いている。
透華はソファの縁に指を絡ませながら、じっと母を見つめていた。
その視線は、感情を押し殺したかのように揺るぎない。
「……話があるなら、普通に言ってくれればよかったのに」
透華の声は、細い糸のようにか細かったが、その中には微かな怒りの震えが宿っていた。
テーブルの向かいに座る母は、年月の流れを感じさせない滑らかな指先でカップを撫でながら、微かに微笑んだ。
その笑みは、透華の心に深い不信感を募らせる。
母はゆっくりと息を吸い込んだ。
まるで、重い扉を開く前の深呼吸のように。
「透華。あなたにとっては、ただの八百長だったのかもしれない。
でも、私にとっては……あなたの人生が掛かっていたのよ」
母の言葉が、透華の胸に冷たい水滴のように染み込んだ。
透華の眉がわずかに動く。
それは、抑制された感情の、唯一の表出だった。
母はテーブルに手を添え、指先で木目をなぞりながら、まるで遠い記憶を辿るかのようにゆっくりと話し始めた。
「ねえ透華、私の仕事について……あなたはどこまで知っているの?」
その問いに、透華は何も答えなかった。
知っている。確かに知っている。
断片的な情報が、彼女の記憶の奥底で渦巻いている。
しかし、それを言葉にしたくなかった。
認めたくなかった。
だが、母は透華の沈黙を承知しているかのように、その微笑みを崩さなかった。
そして、静かに、まるで独白のように言葉を続けた。
「私は、遺伝子工学と神経科学を専門とする研究者よ」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
透華の隣に座っていた朔が、驚いたように息をのむ。
凛は目を丸くし、バルスはわずかに身じろぎ、表情をこわばらせた。
彼らにとって、それはあまりにも突拍子もない告白だった。
「私は世界中の優秀な科学者たちと共同で、人の認知能力を向上させる方法を研究してきたの。
つまり、知性を飛躍的に向上させるための……」
母の言葉が続くにつれ、透華の頭の中で、パズルのピースが埋まっていくかのように、ぼんやりとした輪郭が鮮明になっていく。
そして、次の言葉を、彼女は知っていた。
「……人工的な手法」
透華の言葉に、母は静かに頷いた。
その頷きは、一切の迷いもなく、揺るぎない確信に満ちていた。
「そう、あなたのような子どもを生み出すためのね」
その言葉が、透華の胸に、底冷えするような冷たい違和感を広げた。
全身の血が凍りつくような感覚。
自分が、まるで実験動物かのように扱われていたのではないかという、深い絶望が胸を締め付ける。
夜の静寂に包まれたリビングで、透華の母はゆっくりと息を吐きながら口を開いた。
「……透華。あなたが私を嫌っている理由は、よく分かっているわ。」
彼女はテーブルの上にそっと指を置き、僅かに目を伏せた。
「それでも、あなたに知ってほしいの」
凛とバルスは黙って息をひそめ、朔は表情を強張らせながら透華の母の言葉を待っていた。
そして――透華の母は、当時の事を語り始めた。




