2・1 一夜明けて
ほんの少しだけ秋らしさを感じる風が、ヘンリヒの燃えるような赤毛と辺り一面に咲く黄色いキンポウゲをゆるやかに揺らしている。
大昔に打ち捨てられたと思われる廃教会の裏庭。
崩れた壁に囲まれて、近づく人は誰もいない。
家族の輪に入れてもらえないエルゼと難しい事情を抱えているらしいヘンリヒが偶然出会い、夏の間たくさんの思い出をつくった秘密の場所だ。
けれどヴァカンスはもう終わり。
家族とともに王都に帰ると告げたエルゼに、ヘンリヒは淋しげな笑顔を見せた。
「エルゼリーナのことは生涯忘れないよ。幸せになって」
その言葉にエルゼは悟る。
(ヘンリヒに会うことは二度とないのね)
胸の奥が潰れそうなほどに痛む。けれどエルゼは懸命に笑顔を浮かべた。
「出会えて楽しかったわ。ヘンリヒもどうぞ、幸せになってね」
キュッとヘンリヒが目を細めた。まるで痛みに耐えているかのような表情をしている。
それから彼はゆっくり近づいてきたかとおもうと、少し伸びあがってエルゼの額にキスをした。
その初めての温もりに、エルゼはいっそう胸の奥が苦しくなる。耐えがたい痛みにエルゼは「さよならっ」と早口で別れの挨拶を伝えると、ヘンリヒに背を向けて駆け出した――
◇
ハッと目を開くエルゼ。
(ヘンリヒの夢。いつぶりかしら。幸せになっていてくれるといいけれど)
そう考えながらまぶたを閉じたエルゼだったけれど、すぐに異変に気づく。
(待って。この柔らかで快適なベッドはなに? 腕が重いし全身がおかしいし、それに今、目の前になにかあったような気が……)
慌ててまぶたを上げたエルゼの目に飛び込んできたのは、男性の一糸まとわぬ立派な胸筋だった。
(そうだわ、姫様の身代わりで初夜をっ!)
腕が重いと思ったのはその上に目の前の男性、ハインツ王子の腕が乗っているから。
少し顔を上に向ければ、エルゼのほうを向いてすやすやと穏やかな寝息を立てている王子の顔のドアップが見えた。
寝室はまだ薄暗いけれど、顔かたちがわかる程度には明るい。
(大変っ。彼が眠った隙に姫様と入れ替わる予定だったのに。ああ、でも、ぎりぎり夜明け前なのかしら。急がないと)
エルゼは慌てながらもハインツを起こさないよう静かに、彼の腕の中から抜け出す。
けれどベッドから降りたところで、エルゼはその場にくずおれてしまった。全身が痛くて、動けない。
(初夜がこんなに大変なものだなんて、聞いていた話とは違うわ。花嫁の負担にならないように軽く済ませるものではないの? それともリーデルシュタイン国では一晩中するのが習わし? まさかこんなことになるなんて)
エルゼは必死に這いつくばって扉に向かう。
(けれどここまでは身代わりがバレずに済んだのだもの。絶対に初夜を乗り切るのよ。それが命を救ってくれた姫様への恩返しなのだから)
ふとエルゼは自分が素っ裸であることに気づいた。だけれどガウンを探す余裕はない。
リーデルシュタイン国は妻の処女性を重要視する。そのため、国を統べる王とその息子たちには、独特の風習があるらしい。
初夜の翌朝、日の出とともに夫が妻の《処女の証》を証人たちに披露する、というものだ。
きっともう、寝室のバルコニー下には証人たちが集まり始めているだろう。
この奇妙な風習は基本的に口外禁止だそうで、アーデルが知ったのはすでに処女を失ったあとだった。
けれど、アーデルを責めるわけにはいかない。
もともと彼女は恋仲の公爵令息と婚約していたのだ。
それが王太子が事件を起こして廃嫡となったせいで、急遽アーデルに次期国王の座が回ってきた。
令息が公爵家のひとり息子だったこと。それから近隣国との政治状況。それらを考慮した結果、公爵令息との婚約は解消となり、他国の王族から王配を選ぶこととなった。
失意のアーデルはせめて一度だけは夢を見たいと、令息と一夜を過ごした。まさか夫となる王子の母国に、そんな風習があるとも知らずに。
しかもかの国では妻が処女ではなかった場合は、王族を侮辱している意味になるのだという。
困り切ったアーデルが、エルゼに泣いて秘密を打ち明けたのが挙式前日。すでに魔法で誤魔化す方法を散々探して、なんの成果も見つけられなかった後だった。
それを聞いたエルゼはすぐさま、初夜の身代わりをすることを決意した。
(だってこの命は姫様に助けていただいたものだし。こうなった元凶の半分は兄だし)
エルゼの兄は王太子の共犯だった。ふたりは平民上がりの男爵令嬢に入れ上げた挙句に、愚かで非人道な悪事に手を染めた。
その結果エルゼの実家、ライヒ伯爵家は取り潰され、一家全員に反逆罪が適用され処刑命令がくだったのだった。
(とにかく姫様を守らなければ)
エルゼはなんとか扉に辿り着くと、力を振り絞り立ち上がり、続き部屋に転がり込んだ。




