1・1 バレたら終わりの身代わり初夜
甘くかぐわしい香りがたちこめた寝室。窓から僅かに入る月明かりが、室内をぼんやりと照らしている。目を凝らせばなんとか家具の輪郭がわかるほどの暗闇。
恐ろしいまでの静けさの中で、エルゼは自分の鼓動の大きさに恐れおののいていた。
(だめよ、落ち着いて。絶対に失敗するわけにはいかないのだから)
なんといったって、これから初夜を迎えるのだ。お仕えする姫様の代わりに。今日姫様が夫婦になったばかりの隣国リーデルシュタインの第二王子、ハインツと。
エルゼは気持ちを落ち着けようと、そっと胸を押さえた。指先に感じた夜着に、すっかり忘れていた自分の格好を思い出す。
透け感のある薄い布を何枚か重ねたもので、胸元は大胆に開き、丈も膝までしかない。とても王侯貴族の女性が着るものとは思えないけれど、これが初夜の正式な装いなのだという。
しかも用意したのは王妃だ。拒むわけにはいかなかった。
(大丈夫、暗いもの。ハインツ殿下にはなにも見えないわ)
この薄闇の中ではどんなに近寄っても、顔の判別すら難しい。しっかり確認したから間違いない。
「……エルゼ。本当にいいのかしら」
ベッドに座るエルゼのやや後ろ、天蓋を支える柱の陰からアーデルが小さい声で尋ねた。迷いがある口調だ。
「もちろんですとも。姫様に助けていただいたこの命、ここで使わずいつ使うのです」
エルゼは振り返り、姿の見えない主に小声で、けれどきっぱりと返した。
そのとき、かちゃりと廊下に通じる扉のドアノブが音を立てた。
慌てて正面に向き直ったエルゼは固唾をのんで、次に起きることを待つ。
すぐに扉は開き、そこには灯りを背にした男性のシルエットが浮かび上がった。
顔の確認できないけれど、訪れたのはハインツ王子のはずだ。
「……」
室内の暗さに驚いているのか、王子は無言のままその場に立ち尽くしている。
廊下の灯りは部屋の奥にあるベッドまで届いていないから妻がいるかどうかわからず、入室をためらっているのかもしれない。
「……お許しください。恥ずかしいので、このままでお願いしたいのです」
覚悟を決めたらしいアーデルが、弱々しく言う。
「……なるほど。わかりました」
ハインツ王子は低い声で答えると、静かに扉を閉めた。寝室はまた暗闇に包まれる。
そして衣擦れの音がまっすぐに近づいてきたかと思うと、ベッドのすぐ前で止まった。
ぼんやりとした人影が動く。
エルゼの頬に、暖かな指の感触。
王子に触れられたらしい。
(気づかないで、気づかないで、気づかないで! 私は姫様、アーデル王女殿下よ)
緊張が最高潮になり、意識が飛びそうになる。けれどここで倒れてしまったら、なにもかもが終わりだ。
「初夜を迎えるのは、よいのですね?」
ハインツ王子が静かに尋ねた。
(よいも悪いもないわ。次期女王と王配の婚姻。つつがなく初夜を終えなければならないのだから)
そう思ったエルゼは、口の中がからからに乾いていることに気づいた。
先ほどはアーデルが答えたけれど、この距離ではそうもいかない。それに彼女は機を見て寝室を出て行くことになっている。
これから先はエルゼがアーデル王女として会話をするしかないのだ。
(万が一にでも身代わりが失敗したら……。いいえ、そんなことにはならない。私は絶対に成功させる!)
エルゼはハインツに気づかれないよう、そっと唇を噛んで口元の筋肉をほぐした。
(姫様。エルゼは精一杯身代わりを務めます。どうぞご心配にならないでくださいませ)
柱の陰にいるはずの主に心の内で語りかけると、エルゼは意を決してハインツ王子に向かって口を開いた。
「もちろんですわ」
なるべくアーデルの声に似るように。
絶対に身代わりだとバレないように。
そう念じながら発した声は残念ながら、か細いうえに緊張で震えていた。
だけれどそれがかえってよかったらしい。
ハインツは声の主が自分の新妻ではないと気づかなかったようで、「よかった」とほっとしたように答えて、ゆっくりと頬をなでた。
エルゼの心臓がビクンと跳ね上がる。
(落ち着くのよ、エルゼ。怖くないわ。姫様のためなら初夜の一つや二つ、処女の三つや四つはたいしたことではないもの)
「震えているな。怖いのか」
ハインツが心配げに尋ねる。
(そうよ、それにこの方は良い人そうだったでしょ?)
エルゼの脳裏に、一度だけ見たハインツの姿が浮かぶ。




