第三十一話・黒色の絵の具と筆
先日、目に付いて衝動買いした黒色絵の具と絵筆。
ガビーが自室に戻った深夜、モリヒトと二人になってから僕はそれを取り出す。
『アタト様、これは何に使う物でしょうか?』
絵を描きたいわけではないのは分かっている。
僕が何をしようとしているのか、モリヒトは困惑顔だ。
「単なる趣味」
そう言って僕は笑う。
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墨の匂いがした。
この世界では文房具屋とは言わず、魔道具店というらしい。
雑多な小物を扱っているが、魔法が付与されていたり魔力を必要とする物を中心に販売する、お値段高めの店である。
その店で黒い色と太い筆を見た僕は、何かに惹きつけられた。
店員に頼んで瓶を開けてもらう。
ああ、この匂い。
眩暈がした。 懐かしさで胸がいっぱいになり、目頭が熱くなっていく。
気がついたら購入を決めていた。
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さて、まずは黒色絵の具。
「この色絵の具。 煤から出来てるよね」
『そのようです』
煤に膠を混ぜて液状にし、防腐のために保存の魔法がかかっている。
僕は、指二本分くらいの細長い四角の型をガビーに作ってもらい、それに黒絵の具を入れて干し固めた。
それとは別に、ガビーの工房から硬い石を一つもらい、モリヒトに頼んで大人の手の平くらいの長方形の浅い器にする。
その器の内側には緩やかな傾斜をつけてもらい、少量の水を入れると低い位置に溜まるようにした。
『これでよろしいのですか?』
「うん。 ありがとう、モリヒト」
本当に魔法って便利だ。
特にモリヒトは大地の精霊だから土や石などに干渉し易い。
チョイチョイっと朝飯前である。
そして、固形にした黒色絵の具を、その器の中の水に濡らし、さらに器の底に擦り付ける。
最初はガリッガリッという感じで削れる音がした。
固形絵の具は保存の魔法を解除してもらったので、少しずつ削れて、水が黒く染まっていく。
水が馴染み滑りが良くなると、シュッシュッという音に変わった。
『どうして液状の絵の具をわざわざ固めて、またそれを水に溶かすのですか?。 意味はあるのですか?』
モリヒトの疑問に僕は簡潔に返す。
「単なる趣味」
でも、これをやると妙に落ち着く。
僕は気が済むまで固形絵の具を磨り続けた。
紙の上辺を重みのある物で押さえて紙をピンと張る。
紙はそんなに大きくはない。
雑記用のため、本より少し大きい程度だ。
絵筆は色々あったが丸いものを選んだ。
筆の先は獣の毛を使い、持ち手部分も丸くて太いもの。
これが一番手に馴染む。
ふうっと息を吐く。
筆先をほんの少し、磨った黒い液に浸して持ち上げる。
紙の上にそっと置き、縦にすぅーっと下へと動かす。
黒い線が生まれた。
「おー……」
なんだろう。 何かを思い出せそうで思い出せない。
それでもしっくりくる。
本を手元に引き寄せて開き、一つの文字を選ぶ。
しっかりと筆を握ったまま、目を閉じて集中。
気持ちが凪いでいく。
目を開き、白い紙を目の前にすると周りが消えた。
自分でも何をしたのか分からない。
しかし、気がつくと先ほど見ていた文字が紙に写し取られている。
勝手に身体が動き、文字を書いたようだ。
『美しいです、アタト様』
モリヒトの少し興奮したような声がする。
「いや、まだだ」
まだ自分のものにはなっていないと感じた。
だから、もう一度、目を閉じる。
そして僕は、何度も同じ文字を紙に書き続けた。
紙を替えずに、書いた上にさらに二度三度と重ねているうちに紙は真っ黒になっていく。
フゥッと息を吐く。
真っ黒な紙を新しいものと入れ替えようと、重しを動かして紙を引き抜く。
「あー、絵の具が下に写るな」
紙が黒くなるまで書き殴ったせいで、紙の下のテーブルまで黒い。
僕はガビーが作ってくれたノートを敷き、その上に新しい紙を乗せて重しをする。
そして、改めて先ほどの文字を一つだけ書く。
完成したそれを目の前に持ち上げて見る。
「どうかな」
『文字というより絵画のようですね』
あははは。
モリヒトの言葉に僕は笑う。
完全に書道だろうな、これ。
「この文字自体が、記号か絵みたいだって思ったんだ」
本の中、一部の文字が元の世界の漢字に見えた。
そう思ったら書きたくなってしまった。
一本の線を引く緊張が心地よいと思える自分がいる。
自分にとっては何の利益にもならず、他人の目にはたいした価値も無い。
だけど、胸が熱くなる、損得を考えずのめり込む感覚。
僕はそれが趣味だと思っている。
『アタト様、これは良いモノです』
何故かモリヒトが褒めてくれた。
「ありがとう。 嬉しいよ」
全然完成品とはいえないけど、誰かに誇れるような出来ではないけど、それでも。
書けたことに胸が震えた。
一晩経って、翌日。
魚の干し作業を終えて朝食を食べていると、ガビーが何やら差し出してくる。
「うん?」
「あのー、モリヒトさんから伺って。 これ、文字を練習するときに紙の下に引いてください」
昨日書いた紙より一回り大きいノート。
いや、ノートの背表紙のように何も書いてない灰色の厚紙だ。
「要らなくなった紙を水で溶かして、乾かして、また接着液で引っ付けて紙にしたものです。
白くはないから文字の練習用には使えないし、捨てようと思ってたんですけど、モリヒトさんが」
『アタト様が昨日、練習していらした黒絵の具の文字が机に写らないようにするにはちょうど良いと思いまして』
紙の下敷きに使えないかという。
「ありがとう。 うん、使えそうだ」
大きさもだけど、柔らかさもちょうど良い。
「それと黒色絵の具も少し改良したいんですけどいいですか?」
ガビーの手元には僕が昨日書いた一文字だけの紙がある。
「思ったんですけど、これ、光沢が欲しいなって」
他の色との相性だと良くないだろうが、一色だけなら目立つようにしたいという。
「ああ、好きにしていいよ」
俺は出来上がったものが欲しいんじゃなくて、書きたいだけだからな。
「こっちも改良します!」と硯のほうも持って行ってしまった。
まあ、夜まで使わないから好きにしな。




