支えたい思い、守りたい決意
色褪せた世界で俺を見下ろす女性がいた。
彼女がとてもきれいで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。その笑顔を見て、心が温かくなると感じた。
白い髪に白い瞳、色のない世界でさえも際立つその白さは、この世界だからそう見えるじゃなく、それが彼女の本質だと分かる。俺と同じく色を持たない、という本質……。
幼いながらも、何かにすがりたい気持ちが溢れ、小さな手を伸ばしていた。その手を彼女が優しく握り返してくれたとき、胸に広がった安心感は言葉では表せないものだった。
『――♪』
そして彼女は子守歌を歌ってくれた、俺を眠りに誘うために。
瞼を閉じると、今度は別の音が奏で始めた。それは、俺たちを永い眠りに誘うものだと本能で分かった。
『--、----』
最後に、女性は俺に話しかけたけど、未だにどんな言語か分からないままだった。
でも、無償の愛を感じさせるその言葉は、きっといい言葉に違いなかった。
眩しい白光がすべてを飲み込み、次の瞬間、どこまでも続く深い闇が俺の意識を覆い尽くした。
……
…
✿
「……」
晩飯、私は静かに食べていた。リリアが軽い食事を作ってくれたおかげで、食欲がなくてもちゃんと食べられる量だった。
「あの感じだと1日や2日寝れば意識が戻るだって、心配しないで……というのも無理か」
「うん……」
俯いたまま、しばし沈黙すると、私は心を決めて口を開いた。
「ヴィルの症状を和らげることができるかもしれません」
「え、どうやって?」
「詳しくは言えませんけど……」
彼女の前で直接ヴィルに魔法を伝授したことがあるから、同調のことはもうバレているかもしれないけど、やり方を説明するのが恥ずかしくて……。
「うん、邪魔はしないから思い存分やってきて」
「ありがとうございます!」
幸い、リリアは詮索しなかった。
「私は寝るまで居間でギルドの書類を処理しているから、何かあったら言ってね」
「はい」
晩飯後、私はお風呂に入ってからヴィルの寝室に向かった。
「失礼します~」
小声で断りを入れたけど、当然返事は来なかった。私は足音を殺しながら、慎重にドアを開けて入室した。
マスターベッドルームは深い静寂に包まれていて、灯り一つもついていない。大きな窓から満月の光が降り注ぎ、ベッドに寝ているヴィルの髪をそっと撫でている。その銀色の輝きは月のものなのか、はたまたは髪の色なのか、その境界が曖昧で、私には区別がつかなかった。
ゆっくりベッドに近づいて、お湯が入ったボウルとタオルをベッドの横に置いた。
「体を拭きますね」
汗で濡れた服とズボンを脱いで、お湯に浸したタオルを両手で軽く絞り、ヴィルの体を拭いてあげた。そのままだとさらに体調が崩れる可能性があったから。
「お母様にもしてあげたよね……」
お母様は生まれつきの霊体病気で、たまに体調を崩すことがあった。それはきっと私の『呪い』のせいだって、メイドの誰も看病したがらなかった。だから昔からずっと私が看病していた。そのおかげでこういうことには慣れている。
「ヴィルの寝間着は……これだよね」
タンスから寝間着を見つけて、それを器用に着せてあげた。
昔のことを思い出して、さっきの胸騒ぎは、ヴィルの霊体疲労とお母様の病気を重なって見えたかもしれないって考えた。
「っ……」
その時、ヴィルが苦しそうな声をあげて、首が左右に揺れた。
考えるより先に体が動いて、その体を抱きしめた。
しばらくそうしているうちに、彼の体の震えが次第に小さくなって、呼吸も徐々に穏やかになっていく。
それは自分の行動には関係ないと分かっていても、少しでも力になれた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。その達成感に触発されて、支えてあげたい気持ちが胸に広がって、できることならなんでもしてあげたいという気持ちが強まった。
余計なことかもしれない。自己満足かもしれない。でも私はやらなきゃと思ったのだ。
「今、楽にするからね」
ヴィルの上にゆっくりと跨って彼の顔を見下ろす。こうして見ると、いつもの毅然とした雰囲気が消えて、彼は年相応に見えた。
彼の胸に手を当てて、同調の能力でもう一度霊体の状況を確認する。
「これはひどいね……」
魔力を使いすぎて、全身の魔力パスがめちゃくちゃになっている。そして数か所はダメージを受けた痕跡があった。それが気になって服をめくって確認すると――
「傷はまだ完全に治っていない……」
特に脇腹と腕の傷がひどかった。彼の服を替えたとき、傷に気づかなかったのは、それだけ私が動揺していたからかもしれない。
「あとで傷薬の軟膏を調合して塗ってあげよう」
今はそれより症状の緩和だよね。
改めて彼の胸に手を当てて魔力の流れを探る。予想通り、源泉と繋がる魔力パスの主要な経路はすべて損傷していた。霊体の修復を促すには、魔力の流れを変えて、別の経路で外に出す必要がある。
「確か、ここだよね」
ヴィルの首筋をそっと撫でる。
この前、魔力枯渇で倒れた私が、無意識にヴィルから魔力を奪った。その時、直接源泉に繋がる魔力パスが無理矢理こじ開けられた。それは私の霊体と繋がる以外使い道がないので、今もなお無傷なのである。
その『例外的な回路』を使って、私を通じて余った魔力を放出すれば、ヴィルの体はより早く回復するはず。
「……うぅ、やっぱり恥ずかしい」
あの時みたいに首筋を舐めて、魔力を吸い取ればいいのに、顔が熱くなって、つい躊躇ってしまった。
この偶然がなかったら、エッ……もっと恥ずかしいことをする必要があるだろうし、そのような行為はヴィルの意思を無視して勝手にすることじゃない。だから、この程度なら……!
覚悟を決めて、あの時と同じ場所に口付けた。
そうすると――
「んっ……んんんっ!?」
その瞬間、全身に力が入らなくなって、ヴィルの上に倒れ込んだ。
異常なほどの魔力が私の中に流れ込んで来た。魂を揺さぶられるような感覚に、私は抗えず小刻みに震えるしかなかった。
「こ、これは……っ!?」
日々の触れ合いを通じて、ヴィルの調子が良い日の回復量や、蓄えている魔力の限界が、感覚で分かるようになっていた。
しかし今、彼の魔力は、かつて滝のようだと感じていたそれを遥かに凌ぎ、水族館で見た『津波』に近かった。魔力の回復スピードが普段の数倍になっていて、これは明らかに異常事態……。
これほど膨大で獰猛な魔力に、鍛えていない私では耐えられるわけがない。無理をして私まで霊体疲労で倒れたら、元も子もない。
「でも、ヴィルはずっとそれに耐えてるよね」
やっぱり放っておけない……。諦めたくない。その思いが私を奮い立たせた。
無謀なことをするつもりはない、ちゃんと考えがあるのだ。
「二元魔力の干渉現象……。取り入れた魔力を二つの源泉で異なるものに変換して、相殺させれば霊体への負担を減らせるはず」
同調のおかげで、ヴィルからもらった魔力はそのまま使うことができる。しかし、時間が経つにつれ、それは無意識のうちに私自身の魔力へと変わっていくと分かった。
あとは相殺干渉現象を再現すれば、この仮説は実現できるはず。
魔力暴走が起った時のことを思い出してみた。
不安、焦燥、そして嫉妬……。こういった負の感情は、魔力の制御を失わせ、暴走を引き起こす要因だった。
けれど今、私の中にあるのはただ一つ――ヴィルの力になりたいという願いだけだ。
「……だから、きっと大丈夫」
目を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。
「この二元魔力は呪いなんかじゃない。私にしかできないことを果たすための祝福なんだ」
何とか感覚を掴めた気がして、内なる二つの源泉を同じ魔力経路に接続させた。
まずはそっと二つのさざ波を起こして、互いの波紋を交差させる。そしてそれらを調和させ、鏡のような水面を生み出した。
「いける!」
高揚する気分を抑えて、今の感覚を決して忘れないように心に刻み込んだ。
コツを掴むまで繰り返し練習して、ついに本番の時を迎える。
「今度こそ……!」
再びヴィルの首筋に唇を触れた。
「んんっ……」
押し寄せる圧倒的な魔力。しかし今回は、その奔流を冷静に受け止め、二つの魔力へと変換する。そして、丁寧に相殺しながら流していった。
まるで凪いだ湖のように、穏やかで心地よく、体の内側からぽかぽかと温もりが満ちていく。
心なしか、ヴィルの強張っていた体も、そっと解けていくようだった。
満ちていく温もりと、確かな達成感を噛みしめながら、私はヴィルの魔力を受け止め続けていた。
◆
色褪せた世界で眠りに落ち、色褪せた世界で目覚めた。
よく覚えている森、名前を知らない森。そこには忘れられぬ宿敵――雷魔竜が倒れていた。
激戦の余韻を物語るのは、剣を握り震える手だけだった。
しかし、敵を倒したというのに、心の奥にはまだ不安と焦燥が渦巻き、何かが足りない感覚だけが残っていた。
『シロ、君の宝物は、ここでは見つからない』
ふと、頭の中に師匠の声が響いた。
その言葉で、薄々と落ち着かなさの正体に気づいた。俺は何かを求めているのだと。
『さあ、前へ進みなさい』
その声に導かれるように、俺は森を進んだ。
やがて植生が変わり、別の森へと足を踏み入れた。ここも、覚えのある場所だった。
――包囲されている。
気配が揺らぐ刹那、俺は前へ突進し、襲い掛かってくる傭兵を切り捨てた。
隙を与えぬよう、弓を召喚した。次の瞬間には矢が空を裂き、最も近い数人の喉と胸を貫いていた。
しかし、喧噪はまだ終わらない。俺は白い炎を乱れ撃ちし、敵を牽制しながら素早く位置を変える。
そしてどれだけ時間が経ったか。森に響いていた悲鳴と怒号が、いつの間にか消えていた。
炎が揺らめく森の中、俺は仰向けに倒れ、空を見上げていた。
『おい、アッシュ。何ボーッとしてんだ?お前の大事なもんはここにないぞ』
かつての戦友の声が頭に響き、俺はハッとして体を起こした。
――そうだ。立ち止まっている場合じゃない。
燃え盛る森を後にし、俺はただ走った。だが、どれだけ走っても景色は変わらない。まるで同じ場所を彷徨っているようだ。
――俺はどこへ向かえばいい?
焦燥感が募り、不安が胸を締めつけていた。そして立ち止まり、諦めかけたその時だった。
ひらりと、一枚のバラの花びらが舞い降りる。
淡いピンクの花びらは、この色無き世界にそっと彩りを落とした。
そして一枚、また一枚。ゆっくりと舞いながら地に降り、俺の進むべき道を描いていくようだった。
気づけば、俺の足は花びらが落ちる方へと進んでいた。迷いはなかった。ただ、それが正しい道だと、心の奥で確信していた。
不安がいつしか期待へと変わり、俺は落ち着いて歩みを進めた。
やがて、景色が変わり、屋敷の裏庭へと足を踏み入れた。そこは、緑にあふれ、淡いピンク色のバラが優雅に咲き誇っていた。
穏やかな空気が流れるこの空間で、俺の心は静かに落ち着き、不安も焦燥もいつの間にか消えていた。ここは俺の帰るべき場所であり、安らげる居場所なのだと悟った。
そして終着点はすぐそこに……。
工房に繋がる扉に手をかけ、胸の高鳴りを押さえながら、ゆっくりと開けた。
中にいる女性が、あの花びらと同じ色の髪を揺らし、こちらに振り返った。
『ヴィル!』
驚きと喜びが入り混じった声が響く。
一歩踏み出した瞬間、彼女もまた俺へと駆け寄り、気づけば抱きしめ合っていた。
――やっと、見つけた。
……
…
◆
意識が深淵から浮かび上がって、自分がどんな状態に置かれているのか理解し始めた。
霊体疲労だ。
まだ短い人生で、すでに二桁回経験している現象。
無茶をするなと言われても、つい無茶をしてしまう。
「となると、今は明晰夢か」
徐々に目を開けるが、まだ視覚情報は何も得られていない。
経験上、完全に覚めるまでの間、普段覚醒している時間帯は明晰夢を見て、眠っている時間帯は深い眠りにつく。魔王討伐の時一週間も続いていた。今回は、二日ほどはかかるだろう。
明晰夢には一定の傾向があった。おそらく、もっと上手く戦えたはずだという思いが強いせいか、倒れた直前の戦いが再現されるのが常だった。
しかし今は、戦場の緊張感も張り詰めた空気もなく、穏やかで心を落ち着かせる空気が満ちていた。
――むにゅっ。
それに、戦場とはあまりに不釣り合いな感触が、胸から伝わってきた。
この柔らかさ……猫か?
騎士団の庭で昼寝をしていた頃を思い出す。なぜか、猫はいつも俺の上に乗ってきたものだ。
たまにこういう穏やかな明晰夢も悪くないな。
「んにゃ」
ふと懐から声が聞こえたが、明らかに猫の鳴き声とは違う。これは……?
声の主を確認しようとして、霞んだ視界にぼんやりと映ったのは、俺の上にうつ伏せで眠っている女の子だった。見慣れたピンク色の髪のおかげで、彼女がエレナだと分かった。
となるとその重量感のある柔らかさは二匹の猫じゃなくて、エレナのおっぱいだと……。
……。
エレナって、巨乳なんだよな。
つぶれたおっぱいが、その柔らかさを際立たせている。日頃から彼女の無防備な行動で、否応なくそれを思い知らされた。
柔らかさをもっと感じてしまいたい。腕じゃなくて、手のひらで。
夢だから……いいよね?
俺は認めなければならない。もしエレナに、またあの夜のように誘われたら今度は振り切れるはずがないと断言できる。だって、夢までこんなシチュエーションになっているから……。
夢だから……すべては元通りになる。
彼女の体に手を伸ばして――
落ちていた肩紐を戻して、露出していた白い肌を隠した。
「……なんでいつもこんな無防備な姿を晒すんだよ、エレナ」
胸の高鳴りを感じながら、誤魔化すようにその捨て台詞を言った。
夢で彼女を求めてしまえば、いずれ現実でも我慢できなくなる。そんな気がした。だからこそ、せめて制御できる明晰夢では、そんなことをしたくなかった。
くだらない葛藤のせいで、夢の中でも疲れてきた。
――は見つかった?
ふと、頭の中で夢の残響が鳴り、言い知れぬ気持ちが沸き上がってきた。
ああ、この子を守りたい。という思いが強まって、エレナを強く抱きしめた。
「えへへ……」
気持ちよさそうな寝言をエレナは零した。
まったく、俺はあれほど悩んでいるのに……。
ずっとこのように密着していると気が気でないから、夢の内容を変えようと思って目を閉じた。
だが、彼女の感触がいつまでも消えない。
なんでだろう。
そう思った時、寝室のドアが開けられた。
「エレナちゃん、大丈夫かな」
開いたドアから現れたのはリリアだった。
「リ、リリアまで夢に!?」
彼女はそっと人差し指を唇に当て、『しっ』と静かにするよう促して、そしてベッドサイドまでやってきた。
「ヴィルはまだ夢心地かな?でもこんなに早く意識が戻ったとは、エレナちゃんはすごいな」
リリアの顔がはっきり見えないから表情を読めない。
意識が戻った?
「これは夢……じゃない?」
「あっ、例の明晰夢ってものを見ていると思ったのか」
疲労で倒れて、覚めたら腕の中にエレナがいる。心のどこかで、この出来事は夢じゃないと期待している。
「夢じゃないよと言っても、証明にならないか。まあ、ちょうどいい、こうすればいいんだな……。」
リリアはメモ帳を取り出して、紙1枚を外して何かを書き記した。
「ヴィル、今は無理に考えなくていいよ。ちゃんと休んで、意識がはっきりしたらこれを読んで」
「……わかった」
リリアの言う通り、夢ならまだしも、もしこれが現実なら俺の意識はまだはっきりしておらず、まともに考えられない。
「今日はギルドに行くよ。私がいないと進まない仕事ができてしまったから」
「ありがとうな、リリア」
彼女は微笑み、折り畳んだメモを机にそっと置くと、静かに部屋を後にした。
「むにゃ」
その時、エレナが無意識に抱き返してきた。
この心地よさに浸って、俺はまた意識を手放した。




