卒業の日に校歌は響く
ブレザーの左胸に頂いた赤いコサージュのズレを直しながら、私はパイプ椅子から立ち上がる心積もりを整えたの。
何せ私こと四天王寺夕香は、この堺県立御子柴中学校の今年度卒業生だからね。
古人曰く、立つ鳥跡を濁さず。
晴れの舞台である卒業式に、無様な真似なんて出来ないじゃないの。
それでなくても、麗らかな春の晴天に恵まれた卒業式は、式次第にあったプログラムを順調にこなしているのに。
「諸先生方に在校生の皆様、今日までお世話になりました。皆様方の御活躍を御祈りする事で、御礼と旅立ちの言葉とさせて頂きます。元化二十五年三月二十五日。御子柴中学校卒業生代表、枚方京花。」
卒業生代表に選ばれたクラスメートの恭しい一礼で、卒業生の答辞も無事に締め括られた。
「卒業生、起立!」
学年主任の数学教師による号令の声は、通し練習で何度も耳にしているから、私達卒業生一同にとってはすっかり御馴染みの物になっていたんだ。
−上手く歌えると良いな…
湧き上がる緊張を抑えながら、私は他の卒業生と一緒にパイプ椅子から立ち上がり、緑色のブレザーの胸を誇らしげにグッと張った。
そうして音楽教師が奏でるピアノの旋律を合図に、軽く息を吸う。
いよいよ、卒業生の校歌斉唱だよ。
上る朝日に照らされる
煉瓦造りの正門に
希望に満ちた若人が
理想を抱いて集い来る
今日も一日 朗らかに
元気に楽しく 学び合おう
御子柴 御子柴 我が母校
そびえ立つ 我が学び舎
春の体育祭に秋の合唱コンクール、それに各学期の始業式に終業式。
何度となく口ずさんできた校歌だけど、この顔ぶれで歌うのは、今日が最後。
校歌の一番にあった煉瓦造りの正門も、きっと今日の卒業式の帰りが潜り納めになるんだろうな。
中学生活という「今この瞬間」が、みるみる過去になっていく。
そんな実感に、胸がキュンとなっちゃうよ。
これが「卒業」って事なんだろうな。
だけど、感傷に浸ってばかりもいられないの。
普段の始業式や終業式では一番と三番だけしか歌わない校歌だけど、卒業式に関しては二番もキッチリ歌うからね。
緑の古墳と大和川
自然と寄り添う堺県
郷土の歴史をしっかりと
受け継ぎ伝える私達
今日も明日も その先も
強く優しく 助け合おう
御子柴 御子柴 我が母校
愛すべき 我が学び舎
正直言って私は、この二番の歌詞をうろ覚えだったんだ。
だから、舞台の右横に貼ってある校歌レリーフが有り難かったよ。
あの校歌レリーフを卒業制作として寄贈した大昔の先輩には、感謝しなくちゃいけないなぁ。
だけど、うちの校歌の二番って、こんなに郷土愛に満ちていたんだね。
普段の始業式や終業式では割愛されているからこそ、こうしてフルコーラスで合唱する卒業式の特別性が、改めて身に沁みるよ。
そんな校歌斉唱も、いよいよ三番を残すのみ。
胸に去来する万感の想いを歌声に込めて、悔いの無いようにやらなくちゃね。
下校の鐘が鳴り響き
夕日に染まるグラウンド
学びに遊びに全力で
取り組み満たされ 帰路に着く
先生 友達 また明日
明るい日々を 過ごそうよ
御子柴 御子柴 我が母校
青春の 我が学び舎
ああは言ったものの、校歌の三番をキチンと歌い終えたという自信は、私にはあんまりなかったんだ。
というのも…
「くっ、ううっ…」
あどけない童顔の中で自己主張している円な瞳から溢れる、大粒の雫。
少女の漏らす嗚咽に合わせて、華奢な肩に乗った黒いツインテールがブルブルと小刻みに揺れている。
それは私より出席番号が一つ後の、吹田千里ちゃんが漏らした涙だったの。
今でこそ元気な姿を見せている千里ちゃんだけど、ほんの数週間前までは大怪我が原因で入院していたんだ。
今年の三月に奇跡的な回復を果たした事で、こうして卒業式には間に合ったんだけど、それでも中学生活を少なからず棒に振った事には変わりないよね。
修学旅行も行けなかったし、中学最後の文化祭や芸術鑑賞会も不参加だったし。
この校歌だって、本当に数える程しか歌えていないんだもの。
−千里、ちゃん…
それを思うと、私だって哀しくなっちゃう。
思わず貰い泣きしている事は、頬を伝う温もりでキチンと知覚出来ているよ。
とはいえ、単なるクラスメートに過ぎない私に出来る事と言ったら、併設校である県立御子柴高校に内部進学を果たした千里ちゃんが、楽しい高校生活をエンジョイ出来るように祈る位かな。
なんせ千里ちゃんには、内部進学組の友達が何人もいるんだもの。
さっき答辞を読んでいた卒業生代表の枚方京花ちゃんにしても、中一の頃からの顔見知りだって聞くし。
だけど外部進学組の私にとっては、御子柴の校歌は泣いても笑っても今回で歌い納めなんだよね。
もっとも、同じ堺市内にある私立諏訪ノ森女学園の高等部への編入学って形だから、実家から通える事に変わりはない訳だけど。
セーラーカラーとスカートの青いチェック模様も鮮やかな諏訪女の制服に袖を通す日を思うと、今からドキドキしちゃうな。
勿論、外部受験組が全員、私みたいに堺県へ留まったとは限らないよ。
お隣の大阪府や和歌山県の高校への進学なら、私みたいに実家からの通学も出来なくはないけど、帝都の名門校に進学した子は、四月から寮生活だからね。
御子柴中の制服として慣れ親しんだ緑のブレザーとダークブラウンのミニスカとも、今日でお別れだし、顔馴染みの同級生達と一緒に御子柴中の校歌を合唱するのも、同窓会に全員出席するという奇跡でも起きない限りは、今日が最後の機会だろうね。
四月になれば、私達の学籍は各々の進学する高校に移される。
そうなれば、入学式なんてあっという間だ。
真新しい制服を纏って、初顔合わせしたばかりの子達と一緒に、まだ歌詞も覚束無い高校の校歌を合唱して。
それもいつかは思い出になり、懐かしく感じられるんだろうな。
ちょうど、今この瞬間が懐かしくて愛おしく感じられるみたいにね。
だから私、諏訪ノ森女学園に進学したら色んな事に挑戦して、悔いの無い高校生活を送りたいんだ。
いつか私が高校生活を追憶する時、語り尽くせない程の楽しくて濃密な思い出で、振り返る事が出来るようにね。
−大切な事に気付かせてくれて、ありがとう。そして、さようなら…
ピアノ伴奏の余韻に浸りながら、私は校歌レリーフに小さく目礼したの。
木製のレリーフに刻まれた校歌の歌詞。
独特な味わいがある一文字一文字が、私を優しく見守っているみたいだったの。
それはきっと、今まで卒業されていった諸先輩方の残された思いが、あの校歌レリーフに今なお息づいているからなんだろうな。
そして私の思いもまた、つい今しがたに仲間入りを果たしたんだ。