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霜の月、第4の木の日。
霜の月に入ってからほぼ毎日のように降っていた雪が、昨日から止んでいる。毎朝大和さんが庭に出てせっせと雪像を作っていて、日に日に雪像が増えていたんだけど、昨日はウルージュを作ったと自慢していた。雪で作っているから、見た目は白熊さんだ。リアルに作ってあってご近所さんがたまに見ていく。家の庭には入らないけど、カークさん達の庭から覗いていくようで、今の時期だけ庭の木を動かせないかと相談を受けてしまった。リンゼさんに聞いたら、今の時期はあまり動かさない方が良いと言われたから、カークさんにそう言ったら、せめて枝だけでも切ってくれと頼まれた。カークさんも見たいらしい。明日、リンゼさんに聞いて切って良い枝を切ろうと思っている。
起床して着替えて階下に降りる。フェリスがすり寄ってきた。大和さんは居ないらしく、暖炉に火が入っていない。
「はいはい。ちょっと待ってね。今、暖炉を入れるからね」
暖炉に火を入れてディアオズに水を補充して、火にかける。フェリスが暖炉の前で座ったのを見てから、パンを作り始める。捏ねて成型して焼きに入る。焼いている間に朝食と昼食を作る。フェリスにご飯をあげてパンをオーブンから出していると、大和さんが帰ってきた。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん。走りに行っていたんですか?」
「うん。1人でだけどね。王都内を走ってきた。フェリスもただいま。せっかく来てくれたが、地下に行くか?」
スリっと寄ってきたフェリスを抱き上げて、大和さんがフェリスに聞く。返事も聞かずに地下に向かうんだけどね。
「いってらっしゃい」
「朝食、出来たら呼んでね」
「はい。フェリスのご飯は終わってます」
「了解」
手をちょっと上げて、大和さんは地下に降りていった。
スープを温めて卵を焼いて、昼食用にサンドイッチを作る。この頃、パンを焼いているから、和朝食を食べてないなぁ。明日は和朝食にしようかな?考えながらお料理をして、出来上がったら大和さんを呼ぶ。
「大和さん、朝食の用意が出来ました」
「分かった」
パンを温めていると、大和さんがフェリスを連れて上がってきた。
「大和さん、引っ掻き傷が……」
「地下は広いからなのか、障害物があって楽しいのか、走り回るんだよ。捕まえようとしたら引っ掻かれた」
シカトリーゼをかけるとすぐに消える傷だけど、フェリスは地下では活発なんだ。いつもは大人しいのに。
「地下は楽しいんでしょうか?」
「どうだろうね。お転婆だからね。俺が地下でシャワーを浴びていると必ずどこかに隠れるし」
「フェリスにとって、地下はワクワク空間なんでしょうね」
「毎度毎度探すのが大変だけどね。猫用の首輪とかリードとか、欲しい」
「作るしかないでしょうね」
「だよね?シヤン用だと大きいし」
そもそも一般的には出回っていない。
「猫用の首輪とかリードじゃなくて、ケージじゃ駄目なんですか?」
「キャットタワーとか?」
「キャットウォークって可愛いですよね?」
「改造しちゃう?」
「良いですね。明日の話になっちゃいますけど」
「今からは現実的じゃないよね」
フェリスを繋いでおくという話だったはずが、地下室の改造になっちゃったのは何故でしょう?朝食後に着替えながら気が付いた。おかしいな?
出勤用の服に着替えて、軽くメイクをする。防寒具を身に付けてダイニングに降りる。いつものようにカークさんが大和さんを迎えに来てくれていた。
「おはようございます、サクラ様」
「おはようございます、カークさん」
フェリスは小部屋のバスケットの中で丸くなっていた。
「フェリスさんは3色の毛色ですが、他の毛色も有るのですよね?」
「そうですね。魔物猫って4種類でしたよね?あ、そうだ。大和さんが雪で猫を作ってました。白いからネージャに似ていると思いますよ」
「そうなのですか?魔物猫の雪像って有りましたっけ?」
「フェリスを参考にしたって言ってました。何かの影で見えないのかも?」
「少し見てきて良いですか?」
「どうぞ」
カークさんが出ていってすぐに大和さんが降りてきた。
「カークは外?」
「はい。雪像の猫を見に行きました」
「カークも可愛い物が好きだから」
「でも、まだフェリスは苦手なんですよね」
カークさんが戻ってきて、一緒に出勤する。
「フェリスさんにそっくりでしたね」
カークさんが楽しそうだ。
「猫は身近に居たからな。特徴が分かっているだけだ」
「魔物猫達もフェリスさんのようだったら、可愛いのですがねぇ」
「前に見たシャヴェルトゥは普通の黒猫さんでしたけど?」
「前に見たシャヴェルトゥって、そこの道端で俺が捕獲した?」
「そうです。普通の黒猫さんでしたよね?特に特徴も無い普通の猫」
「特徴ならあったよ。重瞳だった」
「そうだったんですか?」
「トキワ様、チョウドウとは?」
「重瞳というのは、1つの眼球の中に黒目が2つ生じる症状だ。多瞳孔症ともいう。先天性と事故なんかによる衝撃での後天性がある」
「シャヴェルトゥは瞳が3つ以上あると言われているのですが、それでしょうか?」
「瞳が3つ以上?」
「片目に瞳が2つだったり、両目に2つずつだったりですね」
「そうかもしれないな。これまで捕獲したシャヴェルトゥはどちらも重瞳だったし」
「カークさん、他の猫さんはどうなんですか?」
「他のは詳しくないのですよ。集団暴走時のシャゼールはそんなことは無かったと思います。ひたすら可愛かったです」
「見たかったです。あの時は行けなかったんですよね」
「あの時はカクチュスとケヴァイハーゼも居たし、ちょっとした動物園だったよ」
「そういえばあの時に居た4本腕のウルージュはどうなったんでしょう?」
「西の森でたまに見かけるよ。コボルト族とも共存している」
「あのウルージュも謎な存在ですよね」
大体からして、4本腕の熊ってなんなの?生物学的におかしいでしょ。
「サクラちゃん、おはよう」
「サクラさん、おはようございます」
「ローズさん、リディーさん、おはようございます」
「雪、止んだわね。やっと運動出来るわ」
「運動ですか?」
「なんだか体力が落ちたなって思っちゃって。ほら、サクラちゃんの家みたいに地下室なんて無いから、晴れるのを待っていたのよ」
「体力ですか?」
「なんだかね。疲れているわけでもないのに眠くなっちゃったり、魔力切れでもないのに怠くなっちゃったりね。だから体力が落ちたって思ったのよ」
「ローズさん、熱っぽかったりしませんか?下腹が痛いとか」
「たまにはあるけど」
「匂いに敏感になったとか?」
「父様の整髪料が、嫌いになっちゃったわ。今まで気にならなかったのに、2週間位前からかしら」
強い眠気に怠さ、匂いに敏感になって、熱っぽくてって思い当たる症状が1つしかないんだけど。
「ローズさん、月の物は順調ですか?」
「今月は遅れているわね。なぁに?どうしたの?」
「私だけでは確信が持てません。マックス先生にも相談したいです」
「珍しいわね。サクラちゃんが自信が無いなんて」
「私はいつも自信なんか無いですよ。知識から必死に判断しているだけです」
「どっちでも良いわ。ライル様……。さんが来たわね。施療院に向かいましょう」
「おはよう、サクラさん。どうしたんだい?」
「おはようございます、ライルさん、ダンテさん。はっきりした事は施療院に着いてからで良いですか?」
「良いけど。急いだ方が良い?」
「そこまでではないです」
緊急性は無いし急がなくても良いよね。急いで転倒する方が怖い。
「サクラさん、何かございますの?」
「リディーさんも覚えておいた方が良いかもしれません。男性も知っておいた方が良いと思いますけど」
「ちょっと怖いね。何なのかな?」
「ライルさん、学園での閨教育ってどの位まで踏み込んでますか?行為だけ?」
「あー、うん。行為だけだね。サクラさんがそういう話題を出すのは珍しいね」
「その後については?」
「その後?女性を労るようにとか、そういう事?」
「僕の時は、跡継ぎ問題に発展しかねないからって魔法避妊薬だとか、媚薬関係の話もされました」
「つまりは行為の後の一般的な事だけですよね?」
「一般的……。そうだね。サクラさんがそういう話題を出すのって、結構な違和感が……」
後半にライルさんがブツブツ言っていたのは聞こえなかったけど、行為のみの学習か。その後に起こりうる妊娠の可能性は聞かされていないのか、女性の事だからと切り離されたのか。
「サクラちゃん、どうしたの?そうだわ。トキワ様に効率的に体力をつけるには、って聞いておいてもらえない?」
「それは少し待った方が良いと思います」
「どうして?」
「可能性を捨てきれないからです」
「可能性?」
施療院に着く手前で、マックス先生に出会った。体力作りに毎朝歩いているんだって。
「おはよう、みんな。どうかした?なんだか雰囲気が……」
「マックス先生、ちょうど良いところに。話を聞いてもらえませんか?」
「えっ?なになに?」
マックス先生を引っ張って、みんなから少し離れる。
「ローズさんなんですけど、妊娠の可能性があります」
「本当に?」
「私の覚えている妊娠超初期の症状に、ぴったり当てはまるんです」
「彼女には?」
「言っていません。マックス先生に相談してからって思って」
「うーん。診てみる?」
「でも、まだ超初期ですよ?分かるんですか?」
「お産婆さんの方が確実だけどね。普通は悪阻が始まってから発覚することが多いね」
「ですよね」
「何か理由をつけて全身スキャンしようか?いつものスキャンより、若干出力を上げれば分かるかもよ?」
「お願いして良いですか?」
「そういうのを考えるのは僕達の役目だよ。組織の上の立場の仕事だね」
「ありがとうございます」
「でも、来週になるかもね」
「今日中は無理だって事は分かってますから」
「あ、そうだ。サクラちゃんも全身スキャン、受けてみる?」
「相互にスキャンしあうのはどうでしょう?」
「それは何故?」
「今後の為です。全身状態を知っておくことは大事だと思います」
「そうだね、大事だね。じゃあ、そういう方向で先輩に言ってみるよ」
施療院に着いて、着替える。
「サクラちゃん、私ってどこか悪いの?」
「そんな事はないと思いますけど。不安にさせてしまいましたね。すみません」
「いいわ。サクラちゃんは私を思ってくれているんでしょうし、言ってくれるまで待つわ」
「サクラさん、先程ローズさんとも話していたのですけれど、もうすぐ新施療院での勤務が始まってしまいますわよね?その前にお食事かお茶会でもしませんか?ルビーさんも誘って」
「良いですね。ルビーさんもだと、双子ちゃんはどうしますか?」
「私がルビーのお母さんに話してみるわ。ルビーも息抜きは必要でしょう?」
「お願いします。お茶会って、どこでするんですか?」
「それはこれから話し合うのよ」
着替え終わって、診察室に行く。昨日は週1回の東施療院勤務だったから、そちらのカルテを纏める。東施療院の患者さんは王都外の人だけでなく、近隣の王都民も来てくれる。郊外に別荘を、なんていう裕福な人も居るけど、大抵は貧困層の人達だ。東施療院ではそういう人達には労働代金を認めている。労働代金とは文字通り労働力を施術料の代わりにすること。お掃除だったり草むしりだったり、要は施療院の雑用をすることで施術料の代わりにするのだ。『「身体で支払ってね」って事だねぇ』ってマックス先生が笑っていた。昨日、東施療院に行って驚いた。施療院の隣に2階建てのアパートが出来ていた。先週、先々週は東施療院に行っていないから、知らなかった。
「東街門と東施療院の当直施設だって。街門騎兵士もここで宿泊できるみたい。決まった部屋は無くて、宿屋のような感じかな?もちろん施術師も利用できるよ。夜勤をして少し休んでから家に帰るとかね」
アパートというより、職員専用のホテル?とにかく個室が用意されているんだそうだ。ベッドタイプもシングル幅とダブル幅があって、使用料金は給料から天引きなんだって。この辺りは大和さんから聞いた。
「アタシはね、慕ってくれるのは嬉しいんでさ。でもね、誰1人独立しねぇってのはどう思いやす?」
診察に来るなりブチブチと愚痴を溢しだしたのは、オスカーさん。腰を痛めた時に施したマッサージがいたくお気に召したようで、5日に1度は通っている。それもお弟子さん達の目を盗んでくるようだ。今日もミゲールさんは居ない。
「だからって目を盗んで施療院に来なくても」
「ミゲールは煩いんでさ。飯の内容まで決められちゃたまんねぇ」
「健康管理をしてくれているって事でしょう?心配なんですよ、オスカーさんの事が」
「好物のラヴァニも滅多に食べられねぇんでさ」