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くも膜は、脳脊髄を覆う3層の髄膜のうち、外から2層目にあたるものだ。はるか昔、ギリシャの解剖学者が頭部を解剖した際に「脳がクモの巣のような薄い膜に包まれている」事を発見して、この膜を「くも膜」と名付けた。このくも膜の内側に有る動脈が何らかの原因で動脈瘤となり、瘤が破裂したものがくも膜下出血だ。今回の場合は外傷性くも膜下出血ということも考えられる。原因は不明だけど、くも膜下出血には変わりがない。
頭部の処置を終えて、一息吐く。患者さんはまだ寝ているけど、刺激には反応している。
「もう少し寝ていると思います。命の危機は脱しました」
「ありがとうございました」
お礼をされて、部屋を出る。3の鐘を少し過ぎていた。闘技場の通路ににスープとパンの屋台が見えたから、ローズさんと一緒に買って、昼食にする。
「サクラちゃん、大丈夫?急に呼び出してごめんね」
「大丈夫ですよ。ローズさんは出場するんですよね?時間は、大丈夫ですか?」
「今から行ってもね。集合時間は過ぎているし。友人達には言ってきたから私抜きで出場したと思うわ。でも、このまま帰るのもつまらないわね」
「そうですね」
通路にあるベンチで少し休む。ベンチに座って15分位話をしていると、靴音が聞こえた。顔をあげると白っぽい防寒着の女性が見えた。私達もモコモコだけど、その女性はなんというか、ゴージャスだ。
「あれってリディーさんよね?」
「そうですね。あ、気が付いたようですよ」
私達の方に足早に歩いてくる。走らない所がお嬢様って感じだな。
「ローズさん、サクラさん。やっと来られましたわ」
「リディーさん、いらっしゃい。騎士団員による模範演技は終わってしまったわ」
「残念ですわ。ローズさんも出場なさるのでしょう?」
「私は出場はしないわ。さっき、この近所の男性が雪の下敷きになって運び込まれてね。施術を終えたら時間も時間だったし」
「観覧席にリディーさんのお兄様がいらっしゃいますよ?」
「兄にサクラさんの相手を頼んだのですわ。全く予想外でしたわ。2番目の兄は昔から強引で、私を振り回しておりましたけれど、まさか今日、連れ出されると思いませんでしたわ」
「婚約者様の所だとお伺いしましたけど」
「お義姉様は好きですけれど、今日でなくとも良いと思われません?お義姉様が雪投げ大会を見たいと言い出されませんでしたら、こちらに来られませんでしたわ」
プンスコとリディーさんが怒っている。珍しいな。リディーさんがここまで不満を言うのは。
「そのお兄様達は?」
「貴族用の観覧席に行かれましたわ」
「それで?リディーさんはどうするの?」
「雪投げ大会を見てみたいですわ。サクラさんはどこで見ていたんですか?」
「観覧席ですよ?リディーさんのお兄様と一緒に見ていました」
「それじゃあ、お兄様の所に行きましょう」
「寒いですよ?外ですし」
「構いませんわ」
「リディーさん、昼食は?」
「いただいてきましたわ。お兄様に奢らせました」
話をしながら階段を登る。
「居ましたわ。お兄様」
「リディー、ようやくのご登場だね」
「中兄様のお願い事は、しばらく聞いてあげない事にいたしましたわ」
「ハハッ」
「笑い事ではありませんわ」
リディーさんとお兄様が話をしていたから、私とローズさんは近くの席に移った。
「サクラちゃん、彼女達よ。私の友人達のチーム」
「この時間にフィールドに居るって事は決勝進出ですか?」
「そうみたいね」
フィールド上に集まっているのが、決勝ステージに進んだチームらしい。チーム毎に分かれて4チーム居る。マッチョな職人さん達の『チーム・ハントヴェルカー』、雑貨屋フルレットの店員さんのチーム『チーム・フルレット』、何店舗かの飲食店の店員さんのチーム『チーム・サラマンジェ』、ローズさんの友人達のチーム『チーム・ローズレィ』。それぞれの代表のインタビューが行われていた。
「私達のチームは施術師の友人達のチームです。ローズ、見てる?」
「ローズ、というともしや施療院のバラの精霊様?」
「言わないであげて。本人は嫌がっているから」
「これは失礼しました」
「もぅ。あの子達、覚えてらっしゃい」
にこやかなフィールドでのインタビューを聞いて、ローズさんが真っ赤になっていた。気持ちは分かる。どちらの気持ちもね。
決勝ステージは『チーム・ハントヴェルカー』VS『チーム・サラマンジェ』、『チーム・フルレット』VS『チーム・ローズレィ』。2つのコートに分かれてまずは準決勝が行われる。私達が応援するのはもちろん『チーム・ローズレィ』。ローズさんも私も顔は知られているから、私達の周りの人は『チーム・ローズレィ』を応援してくれていた。
「ねぇ、サクラちゃん。雪投げ大会を知った時に言っていたのは何だったの?」
「雪投げ大会を知った時に言っていた?雪合戦の事ですか?」
「そう。ユキガッセンって言うのね。それはやっぱり雪を投げ合うから?」
「由来は知りませんけど、たぶんそうですね。戦いに見立てたんでしょう」
「でも、楽しいわね」
「楽しいでしょうけど、汗をかいて身体が冷えちゃうので、しっかり汗を拭いて暖まってほしいです」
「そうねぇ。今回の雪投げ大会は募集期間が短かったから、出場したのは8チームだったけど……」
「待ってください。8チームだけだったんですか?」
「そうよ。あの4チームの他に、王宮の文官だけのチーム『チーム・ベアムター』、バザールの旦那さんのチーム『チーム・マガザン』も居たわ。それから女性冒険者のチーム『チーム・クルーラパン』に、学門所の同級生チーム『チーム・ミットシューラー』。『チーム・ベアムター』は出るようにって言われたからって言っていたわね。『チーム・マガザン』は『チーム・サラマンジェ』の旦那さんのチームだから集合場所でも奥さん達の圧が凄かったわ。見ていて可哀想だった」
「バザールの女将さん達、パワフルですもんね。憧れます」
「サクラちゃんはそのままでいてね?あら、負けちゃったみたいね」
「フルレットの店員さん達、凄いですね。鬼気迫るというか」
「言ってたじゃない。優勝したらフルレットの社長から賞金が出るって」
「そういえば、参加賞もあるんですよね?」
「私は貰わないけどね。参加賞はチーム毎に王都内で使える商品券だったわね」
「反省会とかの名目で喫茶店で使っちゃいそうですね」
「そうね。あら。『チーム・ハントヴェルカー』が勝ったみたいね」
「『チーム・サラマンジェ』って飲食店の店員さんのチームでしたよね。あの人達はどう使うんでしょう?」
「揃いの何かを買うとかじゃない?『チーム・フルレット』のみんなと何か約束していたもの」
決勝は『チーム・ハントヴェルカー』VS『チーム・フルレット』。壮絶な雪玉の投げ合いが行われた。『チーム・ハントヴェルカー』が隠れもせずに腕力を遺憾なく発揮して、『チーム・フルレット』が壁に隠れながらも確実に雪玉を当てていっている。
「凄いけど、双方雪玉が無くなりそうね」
「途中補充は無しでしたっけ?」
「そう説明を受けたわ」
結局どちらのチームも雪玉が無くなって、生き残っている人数で僅かに勝った『チーム・ハントヴェルカー』が優勝した。閉会の挨拶で来年も行うことを決めているから、今から準備をしておいてほしいとアナウンスがあった。
4の鐘過ぎに家に帰って暖炉に火を入れると、ノッソリとフェリスが近寄ってきた。暖炉の前で丸くなる。今日は朝から仕込んでおいた煮込みハンバーグ。暖炉に掛けておく。小部屋で折紙のモビールを作っていると、大和さんが帰ってきた。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん」
「ただいま、フェリス」
にゃあ、と鳴いて大和さんにすり寄るフェリスを抱き上げて、寝床に降ろすと、大和さんはお風呂に行った。不満そうにそれを見送るフェリスが可愛い。
フェリスの夕食は玉ねぎ無しの焼いたハンバーグ。それをスパイス無しのスープに入れる。ドライフードがあれば良いんだけどな。お手軽だし。
大和さんがお風呂から出てきたから、交代で私もお風呂に行く。
雪合戦かぁ。私は雪合戦はしたことが無いんだよね。みんな今日は楽しそうだったな。雪像もこっちに来て初めて作ったし、冬の寒くて辛いイメージがどんどん塗り替えられていく。今では「寒いけど楽しい事もある」位にはイメージが向上している。これは良い事なんだろうな。大和さんの剣舞の曲の内『ヒュドール』、『アネモス』はイメージがしやすい。『フィアンマ』も苦手だけど大和さんの話でイメージは出来る。問題は『スォーロ』だ。どうしても辛くて苦しいイメージしか出てこない。百人一首のイメージでなんとかしているけど、『冬の舞』の時に大和さんに「厳しすぎる」と言われた事がある。
お風呂から出て、キッチンに行く。煮込みハンバーグを盛り付けてテーブルに運ぶ。パンは大和さんが運んでくれた。フェリスの夕食は大和さんが出してくれていたようで、フェリスはハグハグ食べている。
「今日はどうだった?」
「大和さん達のエキシビションは見られたんですけど、途中で緊急事態で呼ばれちゃって」
「あぁ、雪の下敷きになったって連絡が入っていたね。近くにいたローズさんに処置を頼んだって」
「それが、くも膜下出血を起こしていて。ローズさんが手に負えないからって、テレパスで応援を要請されました」
「くも膜下出血か。雪の下敷きになったって事は外傷性?」
「たぶん。普段の様子が分かりませんから、断定的には言えませんけど」
「頭蓋内は怖いよね」
「そうなんです。出血を止めて、頭蓋内の血液をなるだけ血管内に戻しましたけど。お昼過ぎには目覚められました」
「さりげなく高度な事を。漏れだした血液を血管内に戻すって、出来る物なの?」
「破裂した血管に血液のみを戻すのは、水属性があるから出来る事ですね。血管を塞ぐのは気を使います。細いですし」
「だろうね。地球に魔法があれば、亡くなる方や後遺症が残る方は少なかったんだろうね」
「そうですよね。脳外科医がこの世界に来たら、神の使いとかって言われそうですけど」
「そうだね。天使様どころじゃないだろうね」
夕食を終えて、明日の仕込みを終えたら、小部屋で寛ぐ。私は折紙のモビールを作っているし、大和さんはフェリスと猫じゃらしで遊んでいた。
「モビール?」
「はい。東施療院に飾るんです。西や王立の分も頼まれていますけど。パーツはそれぞれに教えて作ってもらっています。さすがに全部私1人でする気はありません」
「そんなに早口にならなくても。全部1人でって言ったら呆れたとは思うけど」
「学習してますから」
ほいっと猫じゃらしの先端が私の方に飛んできた。フェリスがピョンと私の膝に飛び乗る。すぐに飛び降りちゃったけど。
「あっ、行っちゃった」
大和さんは笑顔で猫じゃらしでフェリスを翻弄している。猫って身軽だし柔らかいし、猫派の私にはたまんない。でもすぐに行っちゃうんだよね。このツンデレ感がなんとも言えないんだよね。
「咲楽の顔が蕩けてる」
大和さんが後ろに座って、私を膝の間に挟む。フェリスは飽きちゃったのか、寝床で丸くなった。
「モビールは出来た?」
「一応は。モビールというか壁飾りにしようと思っているんですよね」
「吊り下げ飾り?」
「そんな感じです」
雛飾りの吊るし飾りみたいにしたいんだよね。壁龕に飾ろうと思って、3ヶ所分、色目を揃えた色違いで作っている。
「良いんじゃない?咲楽っぽいというか、優しい感じがする」
「3ヶ所の印象を変えようと思って」
「東施療院はお出迎えの雰囲気にしたいよね。あ、そうだ。俺の部屋もあるらしいんだよ」
「ん?東街門にですか?」
「そう。副隊長の執務室だってさ」
「執務室?書類仕事があるんですか?」
「あるんだろうね。咲楽も花の月はほとんど休めないんでしょ?」
「そうですね。そんな感じです」
「無理をせずに休む時はきっちり休むんだよ?」
「はい。分かってます。大和さんもですよ?」
「分かってるよ」
大和さんと一緒に寝室に上がる。大和さんはフェリスの寝床を2階に運んでいた。
「雪合戦、楽しかったですか?」
「楽しかったよ。咲楽もやれば良かったのに」
「出来ると思います?」
「出来るでしょ。雪玉を投げりゃ良いんだから」
「ソフトボール投げで5mいかない私でも?」
「えっ!?」
「そんなに驚かないでくださいよ。買い物で腕力は有るはずだったんですけどね。なぜか距離が伸びなかったんです」
「高校生の時に40m行ったけど?」
「40……」
「聞いた記録は65mだったかな?陸上選手が高校生の時に出したって聞いたけど」
「人間業と思えません」
ベッドに横になる。
「おやすみなさい、大和さん」
「おやすみ、咲楽。今度雪合戦をしようね」
「お手柔らかにお願いします」
「もちろん。咲楽には絶対に当てないよ」
「それって雪合戦なんでしょうか?」