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霜の月、第1の土の日。
先週、急な夜勤から帰ってきた大和さんは、1匹の猫さんを連れていた。シャヴェルトゥでもシャゼールでもネージャでもボワーシャでも無い。白地に茶と黒の三毛猫さんだ。私のおやすみの挨拶の前の相談が、その三毛猫さんだったそうだ。どこから現れたのかは分からないけど、王都内で捕獲されたらしく、檻に入れられた状態で威嚇しながら運ばれてきた。大和さんには威嚇しなかったらしく、お世話を頼まれたんだって。
三毛猫さんは私にも威嚇しなかった。小部屋で居ると寄ってきてスリスリしてくれる。大和さんに大声は出すなって言われたから、心の中できゃぁぁぁって悶えている。柔らかくて手入れの行き届いた毛並みの三毛猫さんは、大和さんによって「フェリス」と名付けられた。猫の学名から取ったそうだ。猫の学名的正式名称は、ラテン語でFelis silvestris catusと言うらしい。傭兵時代のご友人(中国系の方)が猫に「マオ」って名付けていて、それを真似したらしい。ちなみに「マオ」は中国語で猫という意味だ。それって猫に「ネコ」って名付けるのと同じだよね。
フェリスは頭がいい。家の敷地外には絶対に出ようとしないし、離れにも近寄らない。もっとも、離れの件は大和さんが言い聞かせていた。爪研ぎ用に爪研ぎ台を作ったら、そこでバリバリしているけど、家具に傷を付ける事はない。爪切りは出来ていないんだけどね。そもそも猫用の爪切りが無いから。
フェリスのお気に入りの場所は2階の廊下の隅っこ。大和さんの部屋の前だ。そこに寝床とトイレを作った。どうやらフェリスは風属性を持っているらしく、トイレの後に風属性の塊を持って外に出ていく。トイレが臭わないから臭いを外に出しているんだろうと大和さんと予想している。
大和さんによると、日本で飼っていた猫に似ているらしく、もしその子なら私達と同じように異世界転移してきたのかもしれない。
起床して着替えてキッチンに降りたら、フェリスが鳴きながら寄ってきた。すぐに暖炉の前に行っちゃったけど。はいはい、寒いのね。暖炉に火を入れてディアオズに水を入れて、改めてキッチンに入る。フェリスは暖炉の前から動かない。パン種を成形してパンを焼く。パンを焼いている間にフェリス用のご飯を作る。パンにペクス肉と野菜を炊いた物をかける。大和さんに教わった猫用ご飯だ。お家で作っていた物のアレンジらしい。お家ではカリカリの上にかけていたから、カリカリをパンに置き換えたと言っていた。フェリスがペチャペチャと音をたてながらご飯を食べ始めた。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん」
みゃあ、と鳴いて、フェリスが大和さんを出迎える。
「フェリスもただいま。地下に行くか?」
とっととリビングに行くフェリスを見送って大和さんが笑った。
「行く気満々だね。咲楽、地下に行ってくる」
「はい。フェリスの朝ごはんは終わってますからね」
「OK」
朝食を作ってスープを温めて、ハーブティーを淹れる。もうちょっと時間があるなぁ。今、フェリス用のクッションを作っている。フェリスは三毛猫だから三毛猫柄にしている。
「大和さん、時間です」
「分かった、上がるよ。あ、こら。フェリス、先に行くな」
たぶんシャワーを浴びてくると思う。朝食プレートにホットサラダと卵を盛り付けて、パンを暖炉で温める。スープを器に入れたらテーブルに運ぶ。いつもより遅く上がってきた大和さんは腕にフェリスを抱いていた。
「咲楽、捕獲してきたよ」
「捕獲してきた?フェリス、逃げたんですか?」
「先に階段の方に行って、俺がシャワーを浴びている間に隠れちゃって。とんだお転婆ちゃんだ」
「ふふふ。フェリスはお転婆さんですか?」
大和さんがパンをパン篭に入れてくれて、朝食を食べ始める。フェリスは暖炉の前でぬくぬくしている。
「フェリスはこのまま飼うんですか?」
「この家や俺達に特に嫌がっている感じはないし、他の人にはバリバリ威嚇していたのに、ここに居る間はそれも見られない。俺は飼っても良いと思うけど、咲楽はどう思う?」
「私ですか?フェリスが側に居てくれるだけで、幸せなんですが。猫さんが自分に寄ってきてくれる幸せを噛み締めてます」
「幸せを噛み締めてって、避けられてたんだっけ?」
「避けられていたっていうか、逃げられていたというか」
「でも、コイツはどこから来たんだろうね?」
「猫は魔物以外居ないんでしたよね?」
「そう聞いているけどね。カークも聞いたことが無いって言っていたし」
「カークさんが聞いたことが無いってことは、この国には居ないって事ですよね?」
「カークも専門家じゃないけど、詳しいのは間違いないね」
「カークさんにも威嚇しませんでしたよね?」
「カークの方がビクビクしていた。あれは面白かった」
「面白がらないでやってくださいよ」
カークさんはおそらく普通の猫を見た事がない。魔物の猫しか知らなければ、怖いのは当たり前だと思う。
朝食を食べ終わったら、着替えに上がる。出勤用の服に着替えて軽くメイクをして、サコッシュを持ってダイニングに降りる。
「おはようございます、サクラ様」
「おはようございます、カークさん。フェリスは?」
「フェリスさんならあちらでお寛ぎになっておられます」
リビングを示してカークさんが言う。フェリスに敬語って……。そういえばナイオンにも敬語だったっけ。
リビングに行くとフェリスは暖炉の前で香箱座りでこっちを見た。香箱座りは1番リラックスしてると、大和さんが言っていた。
「フェリス、そろそろお仕事に行くよ」
声をかけてもそのまま座っている。動かないなぁ。フェリスのお留守番は家の中だから良いんだけど。
「フェリス、良い子で待っているんだぞ」
大和さんの声かけに「みゃあ」と答えるフェリス。私には答えてくれないのに。
「何拗ねてんの?」
家を出て歩き出したら、大和さんに笑いを含んだ声で聞かれた。
「フェリスですよ。大和さんには良い声でお返事するのに、私にはご飯の催促だけなんですよ?」
「信頼はしていると思うよ」
「私の事はご飯をくれる人としか、認識されてない気がします」
「エサが1番大切でしょ?フェリスにとっては」
「フェリスさんはどこから現れたのでしょうね?」
「それが分からないんだよな。魔術師塔でも調べているらしいが」
「普通の猫は居なかったって認識なんですよね?」
「聞いた事はございません。あのような3色の毛色の猫も見た事はございません」
「白と砂色と黒と緑だったか?」
「そうですね。シャヴェルトゥが黒、シャゼールが砂色、ネージャが白、ボワーシャが緑と言われておりますから」
「サバトラさんとかトラネコさんとかハチワレさんとか可愛いのに」
「そうは言われましても」
「カークも見た事があるのはシャヴェルトゥとシャゼールだけだったか?」
「はい。とは言いましてもシャゼールは、この間の集団暴走の時に初めて見たのですが。ところでサクラ様、先程仰られたのは、猫の種類ですか?」
「毛色の種類です。サバトラが明るい灰色に黒い虎模様、トラネコは分かりますよね?ハチワレさんは額から鼻筋にかけてこう……」
「ハチワレは説明しにくいよね。額から鼻筋にかけて毛色が分かれているように見えるんだ。こんな感じに」
大和さんが私の前髪で説明する。
「大和さん、止めてください」
「可愛いのに」
「猫さんの毛色の説明を私でしないでください」
「仕方がないね。サバトラはシルバーマッカレルタビーとも言われている。シルバーはラルジャの事だ。マッカレルは、魚の種類、タビーは縞模様。ラルジャ色の縞模様の柄という事だな」
「はぁ」
「あちらには認定されている猫の種類だけで約50~60種程、認定されていない品種を含めると約100種程度だったか?居たから。毛色の種類は8種類のベースとなる毛色と4種類の模様の組み合わせで、24種類だったかな?」
「そんなに居たんですか?」
「咲楽が驚いてどうするの」
「私は単色の猫さんも好きですけど、ハチワレさんが好きなんですよね。三毛猫さんも毛色の比率によって印象が変わりますし」
「咲楽は本当に猫好きだったんだね」
「ナイオンさんはどうなのです?」
「ナイオンは格好良くて可愛いんです。比べられません」
「同じ猫科だが、大きさも何もかも違うしな」
「ネコ科?」
「動物は全て分類されていたんだ。例えば人間なら動物界・セキツイ動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・ヒトという風に。虎は動物界・セキツイ動物門・哺乳綱・食肉目・ネコ科・ヒョウ属・トラだな」
「難しいのですね」
「ここまで詳しく覚えている人は、そんなに居ませんでしたけど。人間の分類は私も覚えました」
「何の為に覚えるのですか?」
「知識と教養?」
「興味があったから」
「そのような難しい事は覚えられませんよ」
「カークさんだって魔物について詳しいじゃないですか」
「仕事に必要だったからですよ」
「私も同じですよ。その時には必要だったんです」
「俺もそうだな。興味があったというのもあるが」
カークさんが理解出来ないって顔をしている。そうだよね。
「サクラちゃん、おはよう」
「おはようございます、ローズさん」
「おはようございますわ、サクラさん」
「おはようございます、リディーさん」
「ねぇ、カークさん、どうかしたの?」
「どうかって?」
「なんだか難しい顔をしているから。カークさんっていつも穏やかに微笑んでいて、あんな顔は見た事がないから」
「そうですわね」
「あぁ、あちらの学問の事を話したら、あんな顔になっちゃったんです」
「あちらの学問?」
「人間は動物界・セキツイ動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・ヒトって分類されるって話したんです」
「ん?なんですって?」
「動物界・セキツイ動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・ヒトです」
「……何かの呪文のようですわ」
「実際に呪文みたいにして覚えましたよ」
「それって何かの役に立つの?」
「一般的な生活をしていたら役には立ちませんね」
「何の為に覚えたの?」
「その時には必要だったんですよ」
「その時には、ねぇ。私には分からないわ」
「私にも分かりませんわ」
「学生のテストがあったんです。生物学ですね」
「あぁ、テスト……」
「お待たせ、行くよ」
大和さんと話をしていたライルさんとダンテさんが戻ってきて、施療院に向かう。
「何の話をしていたの?」
「どうして、学園では日常生活に役に立たない事を教えるのかな?って」
ダンテさんは私の事情を知らないから、ローズさんが誤魔化した。
「役に立たない事?」
「私は日常生活で他国の風土についてなんて、使ったことがないんですよ。学園で覚えても、忘れちゃっている事も多いし、なぜ教えるのかな?って」
「知識はあっても困らないからね。日常生活で必要じゃなくても、貴族として生きていく以上、必要になるかもしれない。そういう事だよ」
「私は属性が光と地ですけれど、地属性はほとんど教えていただいていませんの」
「貴族には必要ないからだろうね。きちんと覚えれば有用なんだろうけど、地属性は貴族は使わなくても不自由はないから。リディーさんは普段は土に触れないでしょ?」
「そうですわね。お庭は庭師が居りますし、サクラさんと花の種を植えるまでは、花がどういう風に咲くのか、知りませんでしたもの」
貴族って大変なんだなぁ。学園ではマナーや立ち居振舞いなんかも徹底して教えられるらしいし、ダンスもいくつも覚えなければいけないらしい。私の習った物は初歩の初歩でデビュタントで踊られる物だそうだ。この国の貴族のデビュタントは10歳。デビュタントを終えて学園に向かうのだそうだ。成人は18歳だけど、その前に貴族家の一員となったお祝いということらしい。
「でもね、学んだ事は無駄にはならないよ」
「一生使わない、知らなくても生きていける事も、あるじゃないですか」
「それでも知っておいて損はないよ」
「損はないでしょうけど、得にもなりません」
「参ったね」
ライルさんが助けを求めるように私を見る。
「ローズさん、何かで隣国に行く機会があって、何も分からないより、多少なりとも知っていた方が楽しくないですか?」
「例えば?」
「名産は何か、とか、コラダームとの関係とか。隣国から入ってきている物もあるんですよね?」
「有るね。ヴィクセンの食器は隣国の物だよ。コラダームではあんな薄くて白い焼物は作れない」
「知らなかった……」
「ほら、そういう物もあるんだ、位には得をしたでしょう?」
「本当だ」
ちょっと呆然としちゃったローズさんを励ましながら、施療院に着いた。




