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星の月、第3の光の日。
あの時の行き倒れ寸前の患者さんは、まだ入院している。栄養失調で、まずは体力の回復を待っている。お名前は先に目覚めた人がアレクシスさん、もう1人の男性がジョルジュ・トレィヴァー氏。アレクシスさんはジョルジュ・トレィヴァー氏が捕まっていた、赭の獄に有るカプティフ峡谷近くに住む住人だそうだ。カプティフ峡谷は1度入ったら出られないと地元で言われているほど深い峡谷で、ジョルジュ・トレィヴァー氏はカプティフ峡谷にへばりつくように建てられた粗末な小屋に閉じ込められていたらしい。見張りが何人か居て、その内の1人がアレクシスさん。雇われたんだそうだ。他の見張りもカプティフ峡谷近くの住人で、1人だけ雇う方の男性が居て、2ヶ月程前に足を滑らせてカプティフ峡谷に落ちて亡くなった。
しばらく途方にくれていた見張りの面々だったけど、ジョルジュ・トレィヴァー氏の話を聞いて、アレクシスさんが王都に連れてきた。赭の獄は王都まで歩いて2週間程。途中で野盗に襲われて、ジョルジュ・トレィヴァー氏を見張っていた時に貯めた有り金を全部盗られて、なんとか王都まで辿り着いたと言っていた。実際には途中で行き倒れ寸前だった訳なんだけど。
入門料は訳を聞いたトレィヴァー家が払って、栄養失調が回復して体力も付くまで施療院に入院している。トレィヴァー家から派遣されたメイドさんがお世話をする中、アレクシスさんは非常に戸惑っていた。ジョルジュ・トレィヴァー氏のついでだからとお世話されるのに慣れないようだ。赭の獄は元々前王朝の時の犯罪者の追放地の1つ。その近くに住むということは、アレクシスさんの先祖も犯罪者の1人なんだそうだ。アレクシスさん自身は良い人なんだけど。赭の獄は不毛の地で、そこに暮らす人が居ると思われていなかったらしい。今回アレクシスさんが王都までジョルジュ様を送ってきたのは、赭の獄に住む住人の総意。アレクシスさんの所に住む人はアレクシスさんを入れて6人。細々と畑を作り、魔物を狩り、なんとか暮らしてきたけれど、限界だったそうで、ただちに王宮の政務官が赭の獄に、現地の人達を保護する為に出発していった。
今日は曇っている。例年ならそろそろ雪が積もってる時期だ。今年はまだ降っていない。でも寒そうだなぁ。
起床して着替えてキッチンに降りる。食料庫からパン種を出してきて、成型を始める。今日は丸パン。昨日煮込みハンバーグだったから、お昼をハンバーガーに出来るよね。
パンを焼き終わったら、庭に出る。目の前を白い物が舞い落ちていった。朝から雪の事を考えていたら、本当に降ってきちゃった。急いで離れに行ってハーブティー用のハーブを薬箪笥から取り出す。いつもは水屋でハーブティーを淹れるけど、今日は母屋で淹れることにした。
暖炉の前でハーブティーを飲んでいたら、大和さんが帰ってきた。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん」
「ついに降りだしてきたよ。今年は遅かったね」
「大雪にならないと良いんですけど」
「今日は大丈夫でしょ」
「そうですね」
大和さんがシャワーを浴びている間に、朝食と昼食を作る。あ、そうだ。今日の夕食はポトフにしよう。
「ちょっと地下に行ってきて良い?」
「はい。時間になったら呼びますね」
大和さんが地下に降りていく。朝食と昼食を作ったら異空間に入れておいて、ポトフの下ごしらえをする。お肉類、ベーコンとウィンナーを茹でて、大きく切った野菜を入れる。キャベツは帰ってから煮込む。その方が煮崩れないし。
時間になったからリビングの伝声管で大和さんを呼ぶ。
「お時間ですよ」
「すぐに上がるよ」
たぶんシャワーをもう一度浴びるんだろうな。地下に行ったってことは汗をかいただろうし。
15分位して大和さんが上がってきた。朝食を食べながら大和さんが言った。
「今日は俺も施療院にお邪魔するよ」
「大和さんが?」
「捜査査問官として赴く訳じゃないよ。俺の目的はアレクシスさんの方。ジョルジュ・トレィヴァー氏が拘束監禁されていた実態の聞き取り調査は終わっているから、赭の獄での生活とかね。これは捜査には関係ないから。捜査査問官には頼めないんだよ。赭の獄の報告書もあるけど、現住していた者の証言が欲しくてね」
「聞き出してどうするんですか?」
「一応王国領だからね。どうもしないけど聞き取りはしておくんだって。再び服役の地に出来るかもしれないし」
「獄って名前ですし、不毛の地だって言ってましたよね?そこを服役の地に?」
「開墾させて国土を広げるんだね。カプティフ峡谷が有るからどうなるかは分からないけど。政務官もそこまで調査するかは微妙だし」
「それで、何故大和さんなんですか?」
「立候補した。新人達に聞き取りのテクニックを見せておきたいっていうのもあるし、勤務時間に咲楽に堂々と会えるかもって下心もある」
「下心……」
朝食を食べ終わって、大和さんが食器を洗ってくれている間に着替える。軽くお化粧もして用意が出来たら階下に降りる。
「おはようございます、サクラ様」
「おはようございます、カークさん」
「降ってきましたね」
「そうですね。酷くならないと良いんですけど」
「こればかりはなんとも言えませんね」
たしかに天候の事は誰にも明言できない。天気予報で「雨が降りそうです」なんて言っている局もあったらしい。「降りそうってなんなのよ。はっきりしてよね。予想じゃないんだから」って葵ちゃんが騒いでいたなぁ。大和さんと話をしていた時にエピソードとして話したら「無茶を言うね」って何故かキスされたけど。
「お待たせ。行こうか」
大和さんが降りてきて、3人で家を出る。
「咲楽、コートに入る?」
「私もコートは着ていますよ?」
「ターフェイアではしょっちゅう入っていたのに」
「私から入りたいと言った事はありません」
「俺のコートの中はぬくぬくだよ?」
「私も防寒着は身に付けています」
「火属性で暖めてるし」
「何を魔力消費しているんですか?」
「ヒートの消費魔力は微々たるものだよ」
「分かってはいますけどね。最近たまに魔力を使いきって寝て回復しているでしょう。総魔力量は増えました?」
「増えた。今、2850。もう少しで3000だからそこまでは頑張る」
「明後日の方向に頑張らないでください」
「トキワ様はその方法を推奨しておられますからね」
「推奨?」
「トキワ様に言われて私もやりましたら、たしかに増えましたよ。ただ、トキワ様、お気を付けください。魔力量は5000を越えると一晩では回復しないそうです」
「筆頭様の論文だな。俺も読んだ。まぁ、総魔力量5000までは頑張らないから、大丈夫でしょ」
「大和さんの大丈夫でしょは信用できない気がします」
「咲楽の大丈夫ですよりは信用できるよ」
そう言われると黙るしかない。大丈夫だって言いながら無茶をして来た記憶はあるし、反省もしている。
黙ってしまった私を暖かい物が包んだ。大和さんのコートだ。すっぽりとコートの中に入れられている。
「トキワ様、狙っておられましたね?」
「咲楽がどれだけ言っても入ってくれないから」
「私の所為ですか?」
「うん」
コートから顔を出して抗議したら、清々しい笑顔で肯定された。
「トキワ殿、何をやっているんだい?」
「妻を堪能しています」
王宮への分かれ道で待っていてくれたライルさんに聞かれて、間髪入れずに答えた大和さんに、ローズさん達の呆れたような目が向けられた。
「サクラちゃんも大変ね」
「暖かいんですけどね」
ゴソゴソとコートから抜け出して、ローズさん達の側に行く。
「おはよう、サクラちゃん」
「おはようございます、サクラさん」
「おはようございます、サクラさん。暖かかったですか?」
「おはようございます、ローズさん、リディーさん、ダンテさん。暖かかったですよ。恥ずかしいですけど」
「王都に戻ってきた時は、たまにやっていたわよね」
「ターフェイアは寒くて、よくコートに入れられていました」
「そんなに変わる?」
「変わりますね。一気に気温が下がります」
「そう。あ、ねぇ、サクラちゃん、寒い時期に食べたい物って何?」
「寒い時期にですか?スープ系とか?」
「スープ系……。簡単に出来る物は?」
「ポトフとかでしょうか。後はスパイススープも温まりますよね」
「スパイススープは上手く出来ないのよね。サクラちゃんのみたいに野菜の綺麗な色が出ないのよ」
ライルさんと大和さんの会話が終わったようだ。
「じゃあね、咲楽。行ってくる。気を付けてね」
「はい。いってきます。大和さんも気を付けてくださいね」
施療院に向かって歩き出す。
「スパイススープの野菜の色でしたっけ。あれは油通しをしているんです。サッと揚げているんですよ。それで後から盛り付けてます」
「あぁ、そうだったのね。料理をしなかった事を今になって悔やむわ」
「でも、貴族の方って料理をしないんじゃないですか?」
「家によるわね。家はたまに母様がしているけど、全くしない家もあるし」
「僕の母はしませんけど、姉が時々作ってました」
「私、お料理なんてした事がございませんわ」
「伯爵家以上になると、ほぼしなくなるね。僕は平民になるって決めて、ジェフに教わったけど、最初は驚かれた」
「でも、スパイススープかぁ。食べたいなぁ」
「美味しいわよ、サクラちゃんのスパイススープ」
「今日は無理ですよ?スパイスもありませんし」
「持ってこさせるわよ?」
「どれだけ食べたいんですか……」
持ってこられてもね。施療院で調理しろと?イグナシオ君の時は家で作って異空間に入れて持ってきたけど。
施療院に着いて、更衣室で着替える。
「サクラちゃんの簡単レシピ、たしかに簡単なんだけど、上手くいかないのよね」
「あ、そうですわ。お義姉様からサクラさんに感想を聞いてきてと新作を預かってますわ」
「お昼休みでも良いですか?」
「はい」
「どんなお菓子なの?」
「クロアンのフライですわ」
黒餡のフライ……?サクッとさせれば美味しいかも?あんドーナツっぽいのかな?ちょっと違う?
黒餡のフライという謎のお菓子の事を考えながら、診察室に向かう。
診察が始まって少し経った頃、玄関に大和さんと数人の騎士様が見えた。新人さんかな?聞き取りに連れてくるって言っていたし。窓から玄関を眺めていると、次の患者さんが入ってきた。
「天使様、お久しぶりです」
「天使様は止めてくださいよ、デイジーさん。今日はどうなさったんですか?」
「神殿衣装部に新しい魔道具が納入されたんです。魔道具というか、自動裁縫機なんですけど、足で踏んで使うんですよ。それで、その、指を挟んじゃって」
「自動裁縫機ですか。指を挟んだって?」
「使わない時には仕舞っておけるんです。仕舞うとテーブルみたいになるんだけど、その蓋部分が重くって」
どうやらミシンが出来て、神殿衣装部に納入されたらしい。それで挟んだ、と。
「けっこう酷い挟み方をしたようですね。しばらくは爪が変形しますよ」
「あー、やっぱり」
挟んだと言ったのは拇指。いわゆる親指だけど、血腫が出来ている。血腫を取り除きたいけど、うーん。骨折はしてないよね。吸収促進も上手くかからない。
「この色は取れなさそうですか?」
「爪が伸びてきたら徐々に無くなるとは思いますけど」
「それならこのままで良いですよ。痛みも無くなったし」
「気になっちゃいますよねぇ」
「上手く刺繍が出来るようになるまでは、たくさん指も刺したし、この位なら気になりません。それにね、自動裁縫機って凄く早く縫えるんです。それが楽しくて。という訳で、はい、これ。預かってきました」
手渡されたのは大量の服。ワンピースとかシャツとか、いったい何着あるの?
「こんなに?」
「トキワ様のもありますから。数が多いですよね。どうします?」
「どうするったって、どうしよう」
ワンピースは多少身長が違っても着られるだろうけど、シャツは……。うーん。
「スラムの方に持っていきましょうか?みんな暴走しちゃって止めても聞かなくて。サクラさんと同じ位の身長の子もいるだろうし」
「私達の為にって作ったんじゃないですよね?そうしたらバザーをしてみるとか?売上げを神殿の活動に使うとか、どうでしょう?」
「言ってみます。サクラさん、何着か持っていってください」
「あ、これ。これにします」
選んだのはカシュクールのシャツ。袷は西洋式で逆だけど、どことなく着物っぽい。
他にも何着かいただいてしまった。元々全てが私達の物って訳じゃなくて、貰ってもらえれば、という感覚だったみたいだし、デイジーさんもニコニコで帰っていった。