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眠りの月、第5の緑の日。
明日が星見の祭だからか、神殿地区が騒がしい。他領から王都に来る人も増えているし、トレープールの1件が落ち着いたから星見の祭に関係なく王都入りする人も多い。トレープールは落ち着いたとはいってもまだ警戒が必要だ。冒険者ギルドの調査員さん達が交代で警戒しているし、冒険者さん達も東街門周りで活動する人が増えているらしく、ギルド長さんが「そこまで東街門近くの依頼は多く無ぇんだよ」って愚痴っているとユーゴ君が教えてくれた。
東施療院の飾りとして作ったユニットくす玉はただいまスライム液でコーティング中だ。透明な糸があれば良いんだけど、この世界には無い。ちょっと残念。
今日はよく晴れている。起床して着替えてダイニングに降りた。暖炉に火を入れて、キッチンでパン種を捏ねる。パン作りは今週の光の日から始めた。上手く酵母を起こせたし、結婚でバタバタしていたのも落ち着いたからまた焼き始めた。今使っている酵母はレザンの天然酵母。焼くとほんのりピンクになって可愛い。大和さんも苦笑しながらお昼に持っていってくれている。
キュアノス領の刺繍がもうすぐ出来るから、次は何を作ろうか考え中。久しぶりに編み物でもしようかな。
焼けたパンをケーキクーラーの上に出して、庭に出る。寒くなってきたなぁ。花壇に水やりをして離れの戸を開ける。掃除をしてハーブ部屋で必要なハーブを持って、水屋でハーブティーを淹れてウッドデッキに出た。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん」
「シャワーだけ行ってくるけど、体を冷やさないように、暖かくしてね」
「上着は着てますし、膝掛けも準備してますよ」
「よろしい。じゃあ、行ってくるね。ちょっと待ってて」
私の額にキスをして、大和さんはシャワーに行った。ハーブティーをゆっくりと飲んで待つ。温かいハーブティーで身体が暖まる。
すぐに大和さんが出てきて、ウッドデッキでストレッチを始めた。
「東街門の兵士に聞いたんだけどね。どうやらアルフォンスが戻ってきているらしい」
「アルフォンスさん?」
「覚えてない?神殿騎士で咲楽をナンパしようとしてた奴」
「あぁ、大和さんと決闘しようとした人ですね?」
「あの時は怖い思いをさせてごめんね」
「戻ってきたってことは、地方赴任が終わったんでしょうか?」
「それだと時期が早いんだよね。神殿騎士の地方赴任だと5年位が普通だし。俺みたいな特殊例もあるけど、よほどの事情がある者だけだって聞いた」
「じゃあ、どうしたんでしょうね?王都の星見の祭見物とか?」
「さぁね?」
大和さんはそれだけ言うと瞑想に入った。今日の瞑想のモヤの色は今様色。『秋の舞』らしい。『アネモス』かぁ。リュラを出して準備しておく。
「アルフォンスだけど」
いつもなら瞑想の後はすぐに舞台に上がる大和さんが話し始めた。
「俺は直接見ていないんだけど、ツレがいたみたいなんだよね」
「それの何が不思議なんですか?」
「決闘の見届け人なら嫌だな、と思って」
それだけ言って大和さんが舞台に上がる。リュラの指慣らしをして大和さんが構えをとってから3拍置いて演奏を始める。
決闘という言葉を聞いてから、自分が動揺しているのが分かる。剣での戦いを見慣れてきたと思っていたけど、そうでもなかったようだ。動揺して何度も間違えてしまう。
「動揺させたね。ごめん」
舞い終わって舞台から降りた大和さんに謝られた。
「少しの事で動揺しない強いメンタルが欲しいです」
「咲楽は仕事モードに入ると、ちょっとの事では動揺しなくなるんだけどね」
離れの戸締まりをして、母屋に戻って朝食にする。
「ゴットハルトにでも確認しておくよ」
「アルフォンスさんの事ですか?」
「アルフォンスは神殿騎士だし、何らかの情報は入ると思うからね」
「でも、ゴットハルトさんって、アルフォンスさんを知りませんよね?」
「たぶん大丈夫」
「そうですか?」
自信満々に大和さんが言う。大丈夫と大和さんが言うんだから、大丈夫なんだろうけど。
「ライルさんが何か知らないかな?」
「ん?ライル殿とアルフォンスは知り合いなの?」
「古い友人だって聞いた覚えがあります。アルフォンスさんが移動になるって知った時にライルさんが言ってました」
私も記憶に引っ掛かっているだけだから、確定的ではないけど。
「まぁ、咲楽を賭けてって言われても、今は受ける気は無いけど」
「勝手に賭けの景品にされても困りますけど」
「景品にしなくても、もう俺の奥さんだし」
「そうですね」
奥さんって言葉は慣れないなぁ。顔が熱くなってしまう。
「まだ慣れないかな?」
「そうですね」
「咲楽を呼び捨てにし始めた時みたいに、ずっと呼んでいたら慣れるかな?」
「そうですね」
「さっきからそうですねばかりだね」
「そうですね」
「心ここにあらずだね」
さっさと大和さんが食器を片付け始める。
「ほら、着替えておいで」
「そうっ……。はい」
無意識に「そうですね」って返しかけて頑張って踏みとどまる。ここは「そうですね」じゃないよね。
大和さんが笑いをこらえている姿を横目に見ながら、着替えに上がる。出勤用の服に着替えて髪を纏め、リップを塗る。お化粧は教えてもらったんだけど、顔に何かを塗っている感じに違和感を覚える。プロの方達にやってもらったり、シシリーさんに教えてもらった時にはそんな風に感じなかったんだけどな。それでも保湿液は付けている。
サコッシュを持ってダイニングに降りると、大和さんとカークさんが何かを話していた。
「おはようございます、カークさん」
「おはようございます、サクラ様」
大和さんが着替えに上がっていく。
「何を話していたんですか?」
「情報収集を頼まれていました。従者部屋の従者達は情報通が多いので」
「従者さん達って、貴族に仕えている方ばかりなんですか?」
「貴族に、というよりも、爵位持ちの方に、もしくはそのご子息にといった方が正しいですね。トキワ様のように騎士爵の方もいらっしゃいますので」
「あ、そっか」
「騎士爵でも従者が居ない方もいらっしゃいますが」
「騎士爵って従者が持てるように、お給料が上がるんじゃなかったでしたっけ?」
「そうですよ。私もトキワ様からお給料をいただいております。そういった建前ですね」
ん?微妙な言い回しだなぁ。
「俺の給料からカークに出しているという体を取っているんだよ。カークの給料は俺の給料を経由して渡されている」
んん?大和さんが階段を降りながら言った言葉に首をかしげる。3人で家を出て歩きながら説明してもらった。
「総支給額と手取りが違うって事。必要経費として天引きされている」
「あぁ、なるほど」
私は就職経験が無いからピンとこなかったけど、そういうことなんだ。
「給料明細っていうのが無いから、分かりにくいよね」
「勝手に振り込まれていますもんね。楽で良いですけど」
「キューリョーメーサイとは?」
「給料の内訳だ。基本給がいくらで、ここに手当てが付いて、そこから引かれる物、税金とかだな、それがいくらでってすべて書いてある」
「それはかなりの手間ではないですか?」
「手間だろうな。不正防止の側面もあると思うが」
そう考えると、経理っていうんだっけ?その人達って大変だよね。
「冒険者ギルドでも買取りで揉める事がありますよ」
「値上げ交渉か?」
「はい。買取り額に納得がいかない、等ですね。後は実際に討伐してない物を持ってくるとか」
「討伐してない物を?どうやってですか?」
「拾ったというのが一番多いです。預かった物をそのまま自分の物にしてしまったり、奪ったりという事もあります」
「それはどうやって見分けるんだ?」
「ギルドカードに討伐の記録が残りますから。原理は知りません」
「知るのは魔道具師だけか」
「でしょうね。認めない者も居りますが、そうするとギルド長が出てきます」
「ギルド長さんが?」
「拳での話し合いで解決するのですよ」
「拳で……。ギルド長さんって強いんですか?」
「元サンクルジャンランクです」
「へぇぇ」
王宮への分かれ道でいつものようにライルさん達が待っていてくれた。
「サクラちゃん、ダフネが呼んでいたわ。また暇な時にでも顔を出してあげて」
「はい。ジェイド商会で良いですか?」
「えぇ。大丈夫だと思うわ。私も一緒に行きたいんだけど、今日は無理なのよね」
大和さんはライルさんと何かを話していた。たぶんアルフォンスさんの事だと思う。
やがてライルさんが戻ってきた。
「じゃあね、咲楽。行ってくるよ」
「いってらっしゃい。気を付けてくださいね」
「咲楽もね」
大和さん達と別れて施療院に向かう。ダンテ先生がそれを見送ってため息を吐いた。
「やっぱり格好いいなぁ。サクラ先生が羨ましい」
「ん?ダンテ先生は男性が好きなの?」
ライルさんがそう言って揶揄う。
「違いますっ!!」
「そうやってムキになるところが怪しいわね」
あ、ローズさんも加わった。
「そうですの?」
リディーさんは疑問系。リディーさん、純粋だから、揶揄われているって分からないんだろうな。
「違いますって。サクラ先生、笑ってないで助けてください」
「ライルさん、ローズさん、イジメちゃダメですよ。リディーさん、ライルさんもローズさんも、ダンテ先生を揶揄っているだけですよ」
「サクラ先生が優しい。ありがとうございます」
「どういたしまして。大和さんが格好いいというのは同意します。格好いいですよね」
「僕もあんな風になりたいなぁ」
ダンテ先生は可愛い系だからねぇ。
「大和さんとダンテ先生は違うんですから、違う方向でも良いんじゃないですか?」
「僕って可愛いって言われちゃうんです。やっぱり格好いいって言われたいじゃないですか」
「あぁ、それは分かる。僕なんか遊んでるって思われてたんだよ?女性をすぐに口説きそうとか。そんな事ないのにさぁ」
「ライル様、遊んでるってどういう事ですの?」
「うーん。なんて言ったら良いかなぁ?あちこちで女性に声をかけたりしていそうって事かな」
「ライル様、そんな事をされておりましたの?」
「していそうってだけだからね?していないからね?」
ライルさんの慌てたような弁明に、みんなが笑顔になった。
施療院に着いて、更衣室で着替える。
「ローズ先生、星見の祭にも施療院として参加でしたかしら?」
「あぁ、そうね。所長から指示があると思うけど、いつもは施術師を2グループに分けていたわ。朝から5の鐘までと5の鐘からのグループね。5の鐘からのグループは通常勤務もあるわ。だからちょっと大変なんだけど」
「そうですわね。でも楽しみでもありますわ。サクラ先生も一緒なのでしょう?」
「そうですね。一緒です。グループが別でも今年はお役目がありませんから、時間外まで居ることが出来ますし」
「サクラちゃんはお役目があったものね」
「去年は居ませんでしたし」
「星見の祭のお役目ってどういったものなんですの?」
「それはエリアリール様に口止めされているんです。ごめんなさい」
「口止めかぁ。だからなのね。いろんな人に聞いても答えてくれないのって」
「聞いたんですか?」
「知っている人には声をかけたわ。でも誰も教えてくれなかったのよ。神秘的な体験をしたって言うだけ。もう、気になって気になって。ねぇ?」
「私もですわ」
気にはなるよね。でも星見の祭の神事は秘事だってエリアリール様が言っていた。だから言えない。
更衣室を出て、診察室に行く。
「サクラ先生、今日はよろしくお願いします」
今日はダンテ先生の浄化の指導。発動が遅いからってことなんだけど、最初は空間浄化が出来なかったんだから、ずいぶん上達したと思う。
「こちらこそお願いします。でも、指導する事なんてあるのかなぁ?」
「空間浄化のイメージは最初にサクラ先生に教えてもらったから、大丈夫なんです。でも、どの位の規模で、とか考えちゃって」
「空間浄化は強めても意味はありませんよ。有害な物を消去する。それだけで良いです」
「それだけで?」
最初の患者さんは冒険者さん。トレープールの見張りをしてくれている人だ。トレープールを見張っていて、うっかりそこに居たシャヴェルトゥのしっぽを踏んじゃったらしい。それで引っ掛かれた、と。
「あんな所に居るなんて分からないじゃないですか。なんとか捕獲しましたけど」
「捕獲したんですか?」
「外で仲間が見張ってます」
「外に居るの!?」
そわそわしている私を見て、冒険者さんがお昼休憩まで中庭に居ると言ってくれた。
「シャヴェルトゥですよ?魔物ですよ?サクラ先生、分かってます?」
「分かってますよ。集団暴走の時のシャゼールは見られなかったんです。ネコって好きなんですよ。見るだけでいいんです」