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熱の月、第3の木の日。
アッシュさんの傷痕を薄くする事は、まだ出来ていない。アッシュさんと話す機会がないからだ。大和さんに言って今日、来てもらうことになっている。朝来てくれるのか、施療院に来てくれるのかは分からない。
ジャクリーンさんは次の闇の日にターフェイアに戻る予定だ。私の育てたドリュアスの木の葉をルメディマン先生にお土産に持っていってもらう予定でいる。今週は毎日クルスさんと一緒に施療院まで炎熱病の薬湯を持ってきてくれた。
今日は久しぶりに曇っている。お陰で過ごしやすい。起床して、着替えて、階下に降りる。朝食と昼食の用意をして、庭に出た。
花壇に水をやっていると、大和さんが帰ってきた。アッシュさんとカークさんが一緒だ。
「ただいま、咲楽」
「おはようございます。サクラ様」
「おはようございます、サクラ様。先ほどは何をしておられたのですか?」
「おかえりなさい、大和さん。おはようございます、カークさん、アッシュさん。さっきのは水やりですよ?」
「サクラ様、私はサクラ様の魔法にかなり慣れましたが、アッシュの反応が多人数の物ですからね?」
「あ、ヒドい」
「ヒドくありません。アッシュですから良かったものの、邪な目的の者が目にしたらどうなさるのですか。自覚をお持ちください」
「はい。気を付けます」
カークさんが言うことは理解できる。でも、使うのはこの庭だけでだもん。
「サクラ様?」
アッシュさんに心配そうに声をかけられた。
「アッシュさん、お話があるんです」
アッシュさんを離れのウッドデッキに誘う。カークさんは離れた場所に居てくれた。
「お話というか、お願いなんですが。アッシュさんの胸の傷を薄くしたいんです。私のワガママに付き合ってもらえませんか?」
「これ、ですか?」
「はい。今、共同で古い傷痕を消す、もしくは目立たなくする研究をしているんです。私が個人的に知っている傷痕がある人は数人です。どの人も一定の効果が得られました。後はアッシュさんだけなんです。アッシュさんはその傷痕を以前贖罪だと仰いました。だから迷いました。でも、お願いです。ワガママに付き合ってください」
アッシュさんがカークさんの方を見た。
「どうすればいいのですか?」
逡巡していたアッシュさんが掠れた声で言う。同意は得られたかな?
「まずはこの薬湯を飲んでください」
アッシュさんに薬湯を渡すと、素直に飲んでくれた。
「傷痕がムズムズしますね」
「後は私がシカトリーゼをかけるだけなんですが」
「分かりました。ここで脱げば良いですか?」
「ちょっと待ってください。今、離れを開けます」
慌てて言うと、カークさんがアッシュさんの側に来て、何かを言っていた。
離れの玄関から入って、戸を全て開ける。離れを風が吹き抜けていった。
「お待たせしました。こちらから上がってください」
ソファーに座ってもらって、アッシュさんにシカトリーゼをかける。施術する前でも十分に傷痕が薄くなっていた。
シカトリーゼをかけると、アッシュさんの傷痕は綺麗に無くなった。
「終わりました」
「傷痕が、無い……」
呆然として言うアッシュさんに、大和さんが声をかけた。
「綺麗に治ったな」
「トキワ様……」
「あの話はカークは知らない。安心しろ。傷痕が無くなって悔しいと思うか?」
カークさんは話の聞こえない所でこちらに背を向けて立っている。
「悔しい訳ではないんです。ただ、こんなに簡単に許されていいのか、と」
「戸惑いがあるか」
「はい。あの傷痕は私の罪の証でした。傷痕が無くなる頃に罪を許されるのだと思ってきました」
「犯した罪は消えないぞ」
大和さんの言葉にアッシュさんがビクリと身体を震わせる。
「犯した罪は消えない。表面の傷痕が消えても、罪を犯したという事実は消えない。魂に刻み込まれるだけだ。それを忘れずに、それに押し潰されずに真っ当に生きる。それが罪を犯した者の真の贖罪だ」
「トキワ様」
「いいか?傷痕が消えれば罪が消えるなんて甘い事はない。アッシュが忘れない。それが真の償いだ。分かっているだろうが」
「はい」
「咲楽はかなり悩んだんだ。アッシュの傷痕を消していいのか、と。咲楽のワガママに付き合ってくれてありがとう」
「いいえ。こちらこそありがとうございました」
「カーク、アッシュを送っていってくれ」
「はい。では時間になりましたらお伺いします」
アッシュさんはカークさんと帰っていった。
「アッシュの傷痕が消えて良かったね」
「はい。後は大和さんの残っている傷痕だけです」
「気長にね」
「はい」
今日は剣舞はお休みするようなので、広縁にお膳を出して、朝食を並べる。
「ジャクリーンさんは闇の日に帰るんだっけ?」
「はい。その時にドリュアスの木の葉を少し渡します」
「何か作っていたのは?」
「ショールですか?渡しますよ」
ショールを作っているんだよね。私の分も後で作るつもりだ。ジャクリーンさんの身長は前に聞いて知っているから、それを基に作った。あともう少しで完成だ。身長と両腕を広げた長さはだいたい一緒だから。年齢差はあるけれど、それでも極端に変わる事はないらしい。
ロシャではないけど、軽い生地で作っている。ミシンが無いから手縫いしている。直線縫いだから、そこまで苦にならない。ミシンは今、様々な方面の協力を得て、服飾業界が開発中だ。
「咲楽には残っている傷痕とか無いの?」
「無いんです。幸運な事に跡形もなく消えてくれました」
「良かった。見えない所に有るのかと思った」
「肉体的な虐待はほとんどありませんでしたから」
「その分、精神的な虐待を受けていた訳だね」
「そうなんでしょうね」
「他人事だね。あぁ、忘れちゃったんだっけ?」
「感覚で言うと、小説で読んだなぁ、って感じです。覚えてはいるけど、それに対して怯えるとかは無いです」
「そんな感覚なんだ」
朝食を食べ終わって、母屋に戻る。
「カークさんに傷痕は無いんでしょうか?」
「有るよ」
「有るんですか?」
「カークは人には絶対に見せないからね。たぶん知っているのは俺とユーゴだけだと思うよ。リンゼも知っているかな?」
「薬湯を飲んでもらう訳には……」
「いかないだろうね。咲楽には一番知られたくないと思う」
「何故ですか?」
「咲楽を崇拝してるから」
「はい?」
「食器洗いも終わったし、着替えてきたら?」
「そういえば、大和さん、シャワーは?」
「咲楽がアッシュを連れ込んでいる間に行ったよ?」
「連れ込んで……」
「着替えておいで」
再度言われて自室に上がる。出勤用の服に着替えてリップを塗って出来かけのショールを魔空間に入れて階下に降りた。
カークさんの傷痕かぁ。聞いてみるわけにいかないよね。さっきアッシュさんの傷痕を消したばかりだし、誰が言ったかというのはすぐに分かってしまうと思う。
そんな事を考えていたら、時間になって大和さんを迎えに来てくれたカークさんに、心配そうに声をかけられた。
「サクラ様、どうかされましたか?」
「カークさん、薬師さんと言えば何でしょう?」
カークさんの傷痕の事は聞けないから、他の事を聞いてみた。
「薬師ですか?薬草や調薬器具でしょうか」
「調薬器具。それは思い付きませんでした」
前に見た調薬器具は薬研、薬匙、乳鉢、乳棒、天秤ばかり。後は魔力を注ぐ為の容器。
「咲楽、行くよ」
「はい」
いつの間にか大和さんが着替えて降りてきていたらしい。
3人で家を出る。
「何を考えていたの?」
「調薬器具の事を。薬研とか薬匙とか天秤ばかり、乳鉢、乳棒なんかを刺繍するならどう配置しようかなとか、考えていました」
「薬研とか薬匙とかって事は薬師?で、刺繍って事はジャクリーンさんかな?」
「その通りです」
「ジャクリーンさんが何か?」
「今、ジャクリーンさんにあちらで使ってもらおうと思ってショールを作っているんです。それで、何か刺繍をいれようかな?って。でも、時間が無いかな?」
「お名前を入れるのはいかがですか?」
「うーん。出来上がった時間次第ですけど」
「ご無理だけはなさらないでくださいね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ショールは前見ごろがないからなぁ。刺繍は入れられないかな?
王宮への分かれ道にはライルさんとローズさんが居た。ローズさんは今週の光の日から王宮への分かれ道まで来てくれている。
「サクラちゃん。おはよう」
「おはようございます、ローズさん」
「サクラ先生、おはよう」
「おはようございます、ライルさん。どうしたんですか?大和さん」
大和さんが隣で笑いそうになっている。
「ライル殿の咲楽の呼称がサクラさんになったりサクラ先生になったりするのが楽しくて。一定しませんね」
「うーん。ローズ……さんの方も一定しないんだよ。仕事中は先生で統一出来ているんだけどね」
「privateでも先生で良いのでは?咲楽もローズさんも気にしませんよ?きっと」
「そうね。施療院で慣れちゃっているから、先生って呼ばれるのも慣れちゃったし」
「私もです。前は先生って呼ばれる立場じゃないって思っていましたけど、ターフェイアで慣れました。ずっと施術師先生とか呼ばれてましたし」
「そうなの?」
「騎士様とか、職員の皆さんが先生とか施術師先生って呼んでました」
「うふふ。サクラちゃん、行きましょ」
「ローズ先生のご機嫌が直ったね。じゃあ、行ってきます」
大和さんがヒラリと手を振って、王宮へ歩いていくのを見送っていると、ローズさんに手を引っ張られた。
「サクラちゃん、行くわよ」
「はい」
「あぁ、サクラ先生、今日は例の傷痕消しの依頼が2人入ってるよ。1人は女性だから、お願いね」
「はい。分かりました」
傷痕を消す依頼は冒険者ギルドや薬師協会が信用が置ける人を厳選して、ライルさんに依頼が入る。キチンと傷痕消しの治験で論文を書く事を了承してもらっている。年齢、性別、傷を負った経緯を書くから、相手の同意は必須だ。施術の時間はお昼休憩の時間。業務外の事だから、業務を離れた時間を使っている。所長は業務時間内でも良いって言ってくれたんだけど、本来の業務を疎かにしたくないとライルさんと話し合って決めた。
「サクラちゃんも真面目だけど、ライル様も同じなのよね」
ローズさんがため息を吐きながら言う。ライルさんと2人で顔を見合わせた。だってねぇ。これは自分達の研究の為だし、論文はクルスさんとジャクリーンさんにお任せしちゃったし、せめてデータ集めくらいはしておきたい。
さらに言うと、最初のきっかけは大和さんの傷痕を消したいという事だった。ライルさんのきっかけがどうだったかは知らない。でも私が、傷痕を消す手段は無いのか、と聞いてから、その方法を模索してくれていた事は知っている。
「サクラちゃん、ライル様、傷痕を消したいって人は冒険者ギルドと薬師協会の依頼ですわよね?」
「そうだよ」
「研究のサンプルとしているって事は、症例集のような書き方なんですよね?」
「はい。そうですけど」
「それなら施療院全体で協力した方が良いんじゃないかしら?薬湯の問題もあるけど、シカトリーゼをかけるのが2人だけって効率が悪すぎるもの。十分な人数が集まるまでに何年もかかっちゃうわ」
「そうだね。身元保証はある程度出来るし、今の状態だと何年かかるか……」
「必要人数って何人位ですか?」
「100人は欲しいよね」
「今、何人でしたっけ?20人分位?」
「うん。その位だったよ。確認しようか?」
「施療院に着いてから、話をしましょう?」
今、20人位だったら、今年中にはサンプル数は集まるだろうし、なんとかなる気がする。
施療院に着いて、着替えに行く。
「サクラちゃん、元の世界ではどうやって傷痕を消していたの?」
「酷い目立つ傷だと手術だったと思います。そこまで詳しく覚えてないんです」
「あら、珍しい」
「形成外科っていうんですけど、生まれながらの異常や、病気や怪我などによってできた身体表面が見目のよくない状態になったのを改善する外科があるんです。今やっている傷痕を消す手段もその一つです。熱傷の治療、怪我や手術後の皮膚の瘢痕・ケロイドや生まれつきの母斑の治療、皮膚や皮下の腫瘍の切除、眼球がおさまっている骨のくぼみやほほ骨などの顔面骨折が主な対象となってくるんですけど。ローズさん?」
「聞いていると、特別な人の特別な手段って感じだわ」
「特別でもないんですけど、『身体表面が見目のよくない状態になったのを改善する』って部分で綺麗にするだけって思われるんですよね。十分綺麗な人が更なる美を求めて、みたいな。そっちの方が有名になっちゃって、あちらでも『健康なのに、親から貰った身体を手術するなんて』って批判する人もいます。医療の1分野として元の国で確立したのがかなり最近ですから。私の習った学校でも形成外科の事は、そこまで時間を割いてなかったですね」




