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花の月、第2の木の日。
雨が静かに降っている。昨日の夜から降りだした雨はまだ止んでいない。昨夜、その雨の中、ユーゴ君が駆け込んできた。大和さんが急いで中に招いて事情を聞いたら、カークさんと喧嘩になったらしい。ユーゴ君が言うには「僕が1人暮らしをして、カークさんがリンゼさんと結婚してここで2人で住んだら?」と言ったら、カークさんがそれは出来ないと突っぱねたらしい。ユーゴ君を急遽泊めることにして、カークさんに『対の小箱』で連絡した。カークさんからは迎えにいくと返信があったけど、大和さんがそれに「とにかく今夜は泊めるから」と返信していた。
着替えてダイニングに降りると、カークさんとユーゴ君がダイニングに緊張した顔で座っていて、小部屋で大和さんが疲れた顔で座っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
大和さんにこそっと挨拶したら、手招きされた。
「お疲れですね」
「まぁね。お互いに遠慮しあってて、話が噛み合わない」
「どういうことですか?」
「ユーゴはカークとリンゼが結婚しないのは、自分の所為だって言い張ってるし、カークはユーゴが成人するまでは見守る義務も権利もあるって聞かない。どっちにも相手の事を思っているのに、それが平行線を辿っている。お互いに妥協しないんだよ」
「朝からずっとですか?」
「30分位前からだね。いつもはこの時間には出てるし」
「朝食の用意をして来ますね」
そっと離れてパンの成形に入る。食パンをオーブンに入れる頃に、大和さんが動いた。
「俺は地下に行ってくる。着いてくるなりここに残るなり、好きにしろ」
長いため息を吐いて、大和さんが地下に降りていく。入口は開けたままだ。
「お2人とも、言いたい事は言いましたか?」
「あぁ、はい……」
「言ったけど……」
「結論は今すぐでなくて良いんですよね?」
「はい、まぁ……」
「けど、リンゼ姉もずっと待ってるんだよ?僕が1人暮らしすれば全部解決でしょ?」
「ですからそれは、ユーゴ君が成人してからでも良いと言ったでしょう?」
「あと何年でしたっけ?」
「後2年だよ」
「部屋は違いますが、夕食の時に一緒だったりしているのです。後2年位待つと言ってくれているんですよ?」
「それだって僕が今、1人暮らしになっても一緒でしょ?」
「ユーゴ君は1人暮らしをしたいの?」
「そういう訳じゃ無いけど……」
「リンゼさんの気持ちはどうなんですか?」
「リンゼは待ってくれると」
「前はそう言っていたんですよね?それなら今すぐ結論を出さなくても良いんじゃないですか?1日も猶予がないって訳じゃ無いんでしょう?」
「それはそうだけど、でも、早い方が良いと思うんだよね」
「ユーゴ君は何を焦っているのです?急に私とリンゼの結婚話を出してきましたが、何かありましたか?」
「何も無いよ」
ユーゴ君がプイッと横を向く。何かあったって私にも分かるんだけど。
2回目のパン焼きに入る。お昼の為のサンドイッチを作る。今日は全員仕事だから、4人分作っていると、カークさんが立ち上がった。
「地下に行ってまいります」
「時間になれば呼びます」
「お願いします」
カークさんが地下に降りていくと、ユーゴ君が大きな息を吐いた。
「天使様、朝からごめんね」
「構わないよ。納得は出来ないだろうけど、話し合うしかないんだよね」
「うん……」
「隣って、部屋は空いてたんだっけ?」
「1つ空いてる」
「そこにユーゴ君が1人で住んだとして、月にどの位掛かるの?」
「えっ?」
「1人暮らしでもお金は掛かるよ?言い方は悪いけど、成人するまで面倒を見てくれるって言うんだから、それに甘えても良いんじゃない?」
「だって、リンゼ姉が、言ってたんだ。『結婚するにはまだ掛かるかなぁ?』って。それを聞いちゃってさ」
「だから焦っちゃったんだ。1人で先走っちゃったんでしょ?」
「そうなのかな?余計な事だった?」
「余計ではないと思うよ。ただ、急がなくて良いと思う。フラーの末にはお出掛けでしょ?」
「うん。行ってきて良いかな?」
「母親に会いたいって子どもの思いを邪魔は出来ないよ。私が直接会う訳じゃないんだし。会えって言われたら、たぶん拒むと思うけど」
出来るだけ何でもないように言う。会えと言われたら、絶対に拒否する自信があるし、会いたいとも思わないけど。実の両親にも会いたいと思わない。あの両親だし。私って冷たいのかな?
時間を見て伝声管で声をかける。と、ユーゴ君が朝食と昼食を掴んで出ていった。慌てて追いかけると、隣に入っていくのが見えた。
「サクラ様、ユーゴ君は……?」
シャワーを浴びて上がってきたカークさんが尋ねる。
「今は顔を合わせたくないようですね。逃げちゃいました」
「何か聞けましたか?」
「聞きましたけど、私から言って良いのか……」
「解決の手助けになりそうなら言って良いと思うよ」
「大和さん、相談させてください」
「私は席を外した方が良いですね」
朝食を取りながら話をする。でも、ユーゴ君の事が気になっちゃって、会話は少ない。
朝食後、私が着替えをしている間に、カークさんは隣に戻っていたらしい。私が階下に降りて大和さんが着替えている時に戻ってきた。
「ユーゴ君は?」
「すでに家を出ていました」
「気まずいんでしょうけど、話し合いは必要ですよね」
「私には、ユーゴ君がなぜあそこまで出ていく事にこだわるのかが分からないのですよ」
「ユーゴ君の場合は、家を出る事が目的じゃないですしね」
「もう1つの方ですか?リンゼとの結婚。しかし待っていてくれると……」
「カーク、歩きながら話そう。咲楽、行こうか」
3人で家を出る。カークさんは少し離れて歩いていた。
「それで?」
「ユーゴ君が聞いちゃったらしいんです。リンゼさんが『結婚するにはまだ掛かるかなぁ?』って言ってたのを」
「聞いてしまったか。誰に言っていたとかは?」
「不明です」
「こりゃあ、リンゼにも関係してくるな。3人で話し合った方が良いと思う」
「ですよね」
「カークに言っておこうか」
カークさんを手招きして、ユーゴ君の話を伝える。
「ユーゴ君は自分はお荷物じゃないかと、前から言っていたのですよ」
カークさんが頭を抱えて言う。
「負い目もあるんだろうな。カークに世話になっているという」
ルプス君もこんな風に思ったりするのかな?
「おはよう、サクラちゃん、元気がないわね。どうしたの?」
いつの間にか、王宮への分かれ道まで来ていたらしい。ローズさんに声をかけられた。
「おはようございます、ローズさん。元気がないというか、難題にぶち当たったというか」
「相談になら乗るわよ?」
「どちらかといえば、孤児院の管理者とかの方が、適任な気がします」
「そう?」
ローズさんは諦めてくれた。
「ねぇ、サクラちゃん、サクラちゃんも来てくれるでしょ?お披露目会」
「えっと、こういう場合はどうすれば良いんでしょう?」
「貴族関係と2回に分けるのよ。同じだとお互いに気を使っちゃうでしょ?トキワ様も来てくださいね」
「ご招待ありがとうございます。喜んで出席させていただきます」
「おめでとうございます」
「ありがとう。今回はごめんなさいね」
「お気になさらず」
「ジェイド嬢って呼べなくなるね。ヴェルーリャ夫人とでも呼ぶ?」
「やめてくださいね?ローズで良いです」
「じゃあ、ローズさんだね」
「うわぁ。それもゾワっとする」
分かる気がする。呼ばれ慣れてないからね。ちょっと待って。私の時はどう呼ばれるの?
「ライルさん、私はどう呼ばれるんですか?」
「トキワ夫人?」
「大和さんの家名になるのは嬉しいですけど、夫人って呼ばれたくないです」
「サクラさんとしか言えなくなるよ?」
「それで良いです」
「シロヤマさんは妹だからね。慣れるように頑張るよ」
「よろしくお願いします」
大和さん達と別れて、施療院に向かう。
「サクラちゃんと私の扱いが違うのよね」
「それは当たり前だよ。シロ……サクラさんは妹だし、ジェ……ローズさんは手のかかる同僚だし」
「手のかかるって……」
「本当の事でしょ?」
「釈然としないわ」
「呼び方の事は所長とマックス先生にも言っておくよ。フォスはローズ先生とサクラ先生って呼んでいるから、それで良いよね?」
「そうね。フォスさんは問題ないのよね」
「サクラさんはアウトゥだっけ?」
「お式ですか?はい。その予定です。色々する事があって。でも、大和さんに言わせると、こちらは楽だそうです。お披露目会が友人達主導でやってくれるからって」
「向こうでは違ったの?」
「えっと、『私達は結婚しました。これからもよろしくね』っていう披露をする場だったから、新郎新婦側が準備をしていたって。そういった事を引き受けてくれる専門職もありましたけど、決定するのは新郎新婦側でした」
「お目出たいからお祝いするというのが、こちらのお披露目会よ。祝ってもらう側がすべての用意をするのっておかしくない?」
「それがあちらの文化だったんでしょ?どうしようもない事でサクラさんに文句を言っても仕方がないよ」
「分かってるんですよ。挨拶回りが大変で、文句が出ちゃうんです」
「貴族関係はね。順序でメンツとかも関わってくるから」
「ユリウス様が王宮勤めだから、そちら方面が多くって。あ、ライル様、今夜お伺いしますね」
「聞いてるよ。待ってるからね」
結婚かぁ。ローズさんはもうすぐだし、私も半年後なんだけど、いまいち実感がわかない。婚約期間が長かったから?ずっと一緒に居たから?どれも違うと思う。『結婚生活』が分かってなくて、今までとの差が無いけど、それより何より自分が奥さんになるというイメージが出来てなかったから、戸惑っているんだと思う。大和さんは同棲を始めた当初から結婚まで視野に入れて動いていたんだと思う。私はそれが出来ていない。その日を過ごす事で精一杯だった。
「サクラちゃん、難しい顔をしているわよ?どうしたの?」
「自分が奥さんになるってイメージが出来なくて、戸惑っている自分がいる事に気付いてしまいました」
「サクラちゃんは今までと大きく変わらないんじゃないの?住まいも変わらないんでしょ?」
「はい」
「しばらくは変わらないだろうね。子どもが出来る頃には落ち着いているんじゃない?」
「出来るんでしょうか?」
「どういう事?」
「マックス先生に言われたんです。子どもは出来にくいかもって」
「マックス先生はあちこち放浪していた時に、何人も取り上げているらしいよ。産婆さんが間に合わなかったんだって」
「一昨年にマックス先生の診察を受けた時に言われたんです」
「トキワ殿は気にしないんじゃない?」
「大和さんも一緒に聞いていたので、気にしないと言ってくれたんですけど」
「なぁに?サクラちゃんは何が気になるの?」
「ちょっとまだ漠然としすぎていて。その前の事も心配です」
「その前の事……」
施療院に着いて、着替える。
「そうだわ。王都でもお揃いの施術師服を作るようよ」
「ターフェイアみたいにですか?」
「そうね。騎士団付きではないけど、王立だから、予算が出る事になったみたい。サンドラに連絡が来たって言っていたわ」
「誰からですか?」
「王宮から兄様にね。で、兄様からサンドラに話がいったのよ。王都中の服屋で協議するみたい」
「そうなんですね」
しばらく沈黙が続く。
「ローズさんは不安はないんですか?」
「あるわよ。不安だらけ。でも、施術師を続けることは双方の両親にも納得してもらってるし、ユリウス様も続けて良いって言ってくれたしね。貴族だからって領地がある訳じゃないしなんとかなると思っているわ」
ローズさんは強いなぁ。
更衣室を出て、診察室に行く。
最初の患者さんとして、カミル君と40歳位の男性が入ってきた。
「あ、天使様」
「おはよう、カミル君。そちらの方は?」
患者さんは男性の方。右腕を押さえている。
「僕の里親さん。ハンス・シュレーマーさんっていうんだよ」
「決まったの?」
「まだ仮だよ。1ヶ月位一緒に暮らしてみて、それから決めるの」
「それで、どうしたの?ひどい打撲だけど」
「……でさ」
「ん?」
「あのね……」
「カミル、黙ってな」
「どちらにご説明いただいてもよろしいですよ。時間はたくさんありますし」
とたんにハンスさんは黙ってしまった。
「やっぱり僕から言おうか?」
「情けねぇじゃねぇか」
「でも、天使様も暇じゃないんだよ?」
「分かってらぁ!!」
しばらくゴニョゴニョと口の中で呟いていたハンスさんが、意を決したように話し出した。
「夜中にな、トイレに行ったんだよ。そうしたらな?でっけぇクモが居やがって、それで、その……」
「ビックリして大声あげて、走って逃げて柱にぶつけたの。夜中にいきなり悲鳴が聞こえてビックリしたよ」
「あっ、テメェ、言うんじゃねぇ」
「照れちゃって。天使様はこんなことで笑ったりしないよ」
「驚いたらそうなってもおかしくないですね。私は夜中に階段から落ちかけました。驚いてないのに」
「大丈夫だったのかい?」
「はい。お陰で目が覚めました」
笑いながら、ハンスさんとカミル君は帰っていった。