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芽生えの月、第1の光の日。今日から施療院での勤務が始まる。マックス先生は何かして欲しい事があるって言っていたけど、その内容は知らない。何をするんだろう?
先週、西街のオババ様の所に「帰ってきましたよ」と挨拶しに行ったら、綺麗な意匠の万年筆を渡された。キラキラしたラインストーンのような石が柄の部分に付いていて、実は魔道具だと言う。効果は『インクを補充しなくても、好きな色で書き続けられる』という物。ボールペンかな?もしくはカートリッジ式の万年筆。『好きな色で』ってどういう仕組みなんだろう?確かに黒からピンクまで、その時に思った色が書けたけど。ラインストーンのような石は小さくても魔石なんだって。オババ様は気軽に『持っていきな』と言ってくれたけど、魔道具ならそれなりのお値段なんじゃないだろうか。良いのかな?『受け取れません』って言ったら、『遠慮するんじゃないよ』って凄まれちゃって、受け取らざるを得なかった。それを見ていたオババ様の甥御さんが珍しく笑っていた。楽しかったらしい。
パンはあれからほぼ毎日焼いている。バザールでレーズンを見つけたから、新しく酵母を起こしている最中だ。空き瓶ならたくさんあるからね。トマトソースのが。レーズンはレザンって名前で売っていた。私の知っているレーズンより黄色っぽくて甘味が強い。
大和さんも今日から王宮騎士として出勤する。カークさんは従者契約も終わって、今日から冒険者ギルドと大和さんの従者の、二足のわらじを履くことになる。物凄く嬉しそうなカークさんとは対照的に、大和さんは根負けしたって笑いながら項垂れていた。
ユーゴ君は双剣の扱いに苦労しているらしい。まだ始めて10日も経っていないのに、短期間で出来るようになるのがおかしいと思う。
ナイオンは昨日、マイクさんの騎獣屋に送っていった。どう見ても『帰りたくない』と顔に書かれているナイオンに、大和さんが『もう少しだから、待っていろ』と言っていた。何がもう少しなの?
起床してクローゼットで着替える。ダイニングに降りて、暖炉に火を入れた。芽生えの月に入って多少寒さが和らいだとはいえ、まだ朝晩は寒い。ディアオズに水を入れて、パンの成形をする。まだ5時頃だから、二次発酵させて、焼く時間は十分ある。今日は何の形にしようかな?コッペパン風にしてみよう。お弁当用のパンは昨日焼いて冷ましたものが異空間に入っているからそれを使う。
一次発酵を終えたパン生地をガス抜きして、包丁で切ってベンチタイム。その後成形して二次発酵したらオーブンへ。
「咲楽、ただいま。おっ。良い匂い」
「幸せな匂いですよね。おかえりなさい、大和さん」
「カークとユーゴはあっちで食べるって」
「分かりました。先にシャワーですか?」
「その前に地下かな。行ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
異空間からパンを取り出して、横に切れ目を入れてそこに厚切りハムと野菜類、チーズを挟んでいく。4人分を作って大和さんの分は木皿に入れて布で包む。私の分はお弁当箱のような木箱に入れる。カークさんの分とユーゴ君の分は別に包んでおいた。後はそれぞれのスープを器に入れてお弁当は出来上がり。ユーゴ君にはお昼を取りに来てって言ってあるから、毎朝寄っていってくれる。朝食用の焼きたてのパンをオーブンから取り出して、野菜やウィンナーと一緒にお皿に盛り付ける。
そこまで準備が出来たら伝声管で大和さんを呼んだ。
「朝食が出来ましたよ」
「すぐに上がるよ」
すぐにと言っても地下でシャワーを浴びるから、10分位はどうしても掛かっちゃう。その間にオムレツを焼いた。
「お待たせ」
大和さんが上がってきた。騎士服のジャケットを羽織れば、そのまま出勤出来る状態になっている。
「焼きたてのパンって旨いよね」
「そうですね。切りにくいですけどね」
「そうなの?」
「はい。柔らかいから切りにくいんです」
「あぁ、なるほど」
「それにある程度冷めた方が、水分も落ち着いて食べやすいんです」
「そうなんだ。よくテレビでタレントが焼き立てパンを食べて『美味しい』とかってやっていたのって、そこまでじゃないって事?」
「美味しいのは美味しいですよ?焼き立てと少し冷めたパンで、大きく味が変わるって事も無いですし。食べやすいか食べにくいかの違いはありますけど」
「そうなんだ。そういうのは知らなかったからなぁ。初めて知ったよ」
「今、レザンの酵母も起こしていますから、風味とか違うパンが焼けそうです」
「酵母を起こす?」
「酵母が寝ている状態なので、そこから活動できるようにすると教わりました。だから酵母を起こすんだそうです」
「ふぅん。今のがアフルだっけ?で、次のがレザン?レザンって干しブドウ?レーズン?レザン・セク?」
「違いはなんですか?」
「日本語と英語とフランス語」
「つまりは同じ意味ですね。バザールではレザンで売っていたんです。レーズンですね」
「こちらではレザンか」
「そうみたいですね。と、いうか、レザン・セクのセクって何ですか?」
「secはフランス語で乾燥したって意味。言語の基本にフランス語とかドイツ語が入っているし、日本語も入ってきているし。訳が分かんないよね」
「私はこれはこういう物って割りきってます。私はほぼ日本語しか話せないですけど、マルチリンガルだと大変ですね」
「こだわりが強い自分が恨めしい……」
「こだわりというか、探究心?」
「レザンの他だと、何が使えるの?」
「話題を変えましたね。柑橘類とか、紅茶葉でも出来るって聞きました。私はレーズンしかやったことがないんです」
「酵母菌の違いか。やってみれば?」
「レザンが上手く起こせたら、挑戦してみます」
ターフェイアの領城の料理人さん達に教えたのは「果物と砂糖と水を密閉してフラー位の温度で置いておくと、ふわふわなパンの元が出来る」って事だけ。教えたというより雑談に近い。ターフェイアに行ってすぐ位の時期だったから、あれから色々やってくれたんだと思う。その結果が私がいただいたアフルの天然酵母のパン種だ。
食器を大和さんが洗ってくれている間に、私は着替えに上がる。出勤用の服に着替えて、リップを塗って防寒着を着る。
「お待たせしました」
「待ってないよ。ユーゴが来たから昼を渡しておいた」
「私の分まで申し訳ありません」
カークさんが嬉しそうに言う。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
3人で出勤する。
「オスカーがサクラ様に会いたがっていましたよ」
「えっ?いつですか?」
「昨日の4の鐘辺りでしょうか。バザールでばったり会いまして。嬢ちゃんは帰ってきているのか?っていきなり言われました」
「咲楽、嬢ちゃんって言われてるの?」
「はい。オスカーさんが施療院に通いはじめた頃からです。天使様って呼ばないんだって嬉しくなりました」
「オスカーの用は何だろうな?」
「いくら聞いても言いませんでした。ただ、なにやら楽しそうでしたね」
「楽しそう?何でしょうね?」
「オスカーは細工師だったな?」
「えぇ、そうですね。いろんな物に仕掛けを施してくれます。飛行装置もオスカーが回路などの仕掛けを担当してくれました」
「飛行装置は完成したのか?」
「まだ実験が出来ていませんからね。安全性が確保できないと危ないですから、なんともなりません」
「咲楽は風属性で飛行訓練だね」
「忘れていた訳じゃないんですよ?優先順位が低くなっちゃってただけで」
「誰かに習う?」
「風属性で飛べるかもって、モフィおじさんしか思い浮かばないんですけど」
「あぁ、狸人族の。どうやって通うかだよね」
「ですよね」
「筆頭様はたまに飛んでいらっしゃいますよ?」
「「えっ!!」」
筆頭様、飛んでるの?
「見た事がないんだが」
大和さんが困惑したように言う。私は屋内で居る事が多いから分からないけど、大和さんは外で居る事が多いよね。それでも見た事が無いの?
「本当にたまに、ですよ。冒険者ギルドにいらっしゃるのに飛んできたり。それでギルド長に怒鳴られています」
「まさかとは思うが、窓からの訪問か?」
「はい。『受付を通してくださいと何度も言っているでしょうが!!』ってギルド長が怒鳴って、筆頭様は『面倒なんだよね』って笑っておられます」
状況が目に浮かんでしまう。大和さんも遠い目をしていた。
「サクラちゃん、一緒に行きましょ」
王宮への分かれ道でローズさんとライルさんが待っていてくれた。副団長さんは居ない。
「おはようございます。ライルさん、ローズさん」
「おはよう。今日からまたよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
「いってらっしゃい」
「はい。大和さんもお気を付けて」
大和さんとカークさんと別れて、施療院に向かう。
「この頃ルビーがお昼から勤務が多いのよ。もしかしたらルビーの代わりにって言われるかもしれないわ」
「それか立ち上げの施設や、新施療院の要望の纏めだね」
「それから、フォスさんの浄化も見てあげてくれないかしら。血液の浄化が上手くいかないみたいなの」
「分かりました」
「後は所長が言うだろうけど、一次試験通過者の資料も読んでおいて欲しいんだよね」
「何故ですか?」
「所長が言うには、ずっと王都にいた僕達以外の意見を聞きたいって事だったね。この作業は急がない。二次試験までにお願いしたいって言っていたよ」
「どこまで力になれるか分かりませんけど」
「別視線からっていうのは大切だからね」
「サクラちゃん、フルールの御使者には何もお役目は無いのよね?」
「特には言われていませんけど」
「じゃあ、一緒に花巡りをしましょ?」
「花巡り?」
「貴族だけでなく、王都内のいろんなお家でお花を貰うのよ。それをね籠に入れていくの。籠は私が用意するわ。花がいっぱいになった籠は、幸運が詰まっているって言われているのよ」
「花巡りね。僕はやったことはないけど、王宮に持っていけば加工してもらえるよ。その場で作ってくれるのがミニ花馬車だね」
「ミニ花馬車?ミニチュアの馬車に飾り付けてくれるんですか?」
「そうだね。ミニチュアの馬車は孤児院の子ども達とか、貧困層の人達が作っているんだ。もちろん賃金ありで。その馬車に乾燥させた花を飾ってくれるんだよ。シロヤマさん達が乗った2年前の馬車は今でも人気らしいよ」
「毎年違うんですか?花馬車って」
「違うんだよ。装飾を変えているんだよ。2年前の馬車は全体的に装飾が抑えてあって、それが人気だったりするんだ。5年位前の花馬車はもう、何て言うかね……」
「覚えてるわぁ。ゴテゴテしてたわね。やたらにピカピカしていて。あれはあれで派手で人気があったらしいけど」
ゴテゴテした装飾の馬車?ちょっと見てみたいかも。
「だからね、一緒に花巡りをしましょ?出来れば3台分は欲しいわね」
「そんなにどうするの?ジェイド嬢」
「もちろん施療院に置くんです。3ヶ所に出来るんだから、3ヶ所共に飾りたいじゃないですか」
「あれ、まだ諦めてなかったんだ」
ライルさんがポソリと言った。
施療院に着いた。ローズさんと更衣室に向かう。
「ルビーはまだ来ていないわね。今日もお昼からかしら」
「悪阻はもう落ち着いているでしょうし、どうかしたんですか?」
「ん~、私達施術師って、魔力を使っているじゃない?マックス先生が言うには、妊娠中に上手く魔力が全身に回らない人が居るんですって。ルビーがその症状みたいでね。2人位施術すると魔力切れみたいな症状が出てくるのよ。少し休めば良いんだけど」
「心配ですね」
「だから施術する人数自体を減らしているの。ルビーの場合は朝に症状が出やすいから、朝、起床してお産婆さんの許可が出たら朝からの出勤になるわね」
「お産婆さんってそんなに朝早くから診てくれるんですか?」
「診てくれているのがナリヤちゃんでね。モルガさんが補佐に付いてくれているけど、朝の検診くらいなら出来るからって通ってくれているらしいわ」
「そうなんですか」
ナリヤさんは一人前と認められたけど、まだ不安が多いからってモルガさんの元で居るらしい。モルガさんはナリヤさんを後継者にしたいと言っていた。ナリヤさんはまだまだ自分には務まりませんって言っていたけど。
待合室にはたくさんの人が居た。恐怖はないけどドキドキする。
「「チャク~」」
ん?グラシアちゃんとタビーちゃん?声をかけられた方を見ると、記憶の中より大きくなったグラシアちゃんとタビーちゃんが居た。ヴォルフさんと黒い耳の狼人族の人も居る。
「大半はサクラちゃんを見に来た人達ね。今日から復帰だってみんな知っているし」
ローズさんが耳打ちして言った。
「チャク、おかえりなさい」
「チャク、これね、みんなで作ったの。受け取ってください」
渡されたのはちょっといびつなクッキー数枚。
「みんなで作った?」
「うん。南の孤児院のみんなで作ったの」
「ありがとう。大切に食べさせてもらうね」
「後で、おじいちゃまの足を見てあげて?」
「おじいちゃま?」
顔をあげると黒い耳の狼人族の人が軽く頭を下げた。
診察室はルビーさんが使っている部屋を使わせてもらった。
以前の常連さん達が代わる代わる挨拶に来てくれた。施術したのは数人。その中にグラシアちゃんがおじいちゃまと呼んだ黒狼族のアートルムさんが居た。




