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霜の月、第2の緑の日。
今週に入って、雪がすっかり止んだ。ただし、油断は出来ないらしい。この晴天の後、どかっと降ることもあるそうだから。
ローズさんのベールの刺繍は順調に進んでいる。トリアさんに聞いたら、貴族の紋章の上は空けておくのが基本だけど、指定がある場合はその限りじゃないらしい。「このルビーって子の手紙を読んだ限りだと、その為に紋章の位置を下げてある可能性もあるわね」と言っていた。
エフィー様は毎日お昼休憩に来てくれて、演奏会に向けて練習している。セットリストも作った。①フェイドラージ、②Frühling、③ベルスーズ、④バージニーリルア、⑤Ah! vous dirai-je, maman 、⑥レキュイレム、⑦Maison heureuseの順だ。バージニーリルアはエフィー様は知らなかったらしいけど、次の日には間違いなく弾いていらした。凄いなぁ。
その演奏会は今月の第4の光の日に決まった。うぅぅ……。緊張する。
今日は晴れている。雲はない。暗くてよく見えないけど、その辺りは分かる。魔力を目に集めると、暗視スコープや望遠鏡のようになる。望遠鏡?双眼鏡?まぁ良いや。とにかくよく見える。この世界ではメジャーな魔力の使い方だ。知らない人もいるけどね。
起きて着替える。キッチンに降りて、暖炉に火を入れたら薬湯を煎じる。
「ただいま、咲楽」
「おかえりなさい、大和さん」
「ごめん。先にシャワーを浴びてくる。泥だらけだし」
「はい」
大和さんがシャワーに行った。汗だくじゃなくて、泥だらけ?どうしたんだろう?薬湯を飲みながら、大和さんを待つ。
「お待たせ」
「泥だらけってどうしたんですか?」
「泥濘んでてね。雪融けの後の泥濘みの上を走ったから、泥跳ねが凄くて」
「あぁ。そうなりますね」
「昨日まではここまでじゃなかったのに、一気に融けだしたね」
4階に向かう。
「今日は『春の舞』はどうしますか?」
「するよ。伴奏お願い」
「分かりました。指慣らしの時間だけ下さい」
「俺は鬼じゃないよ。瞑想中にしても良いのに」
「お邪魔になっちゃいませんか?」
「ならないよ」
笑顔で大和さんが言った。良いのかな?
4階に着いて、大和さんが瞑想を始める。それを邪魔しないように、静かにリュラの準備を始める。指慣らしのエチュードをポロンポロンと弾いていると、大和さんがそれを見ていたらしい。私は気が付かなかったんだけど、エチュードが終わって顔を上げたら、大和さんと目が合った。
「大和さん、瞑想は終わったんですか?」
「もうちょっと」
「時間が大丈夫なら、何も言いませんけどね」
再び瞑想する大和さんを見ていると、やっぱり瞑想中の指慣らしは止めておいた方が良いと思った。
瞑想を終えた大和さんが立ち上がる。大和さんが構えを取ったのを見てから、演奏を始める。
この時には景色を見ないようにしているから、風景は見えない。でも、脳裏に枝垂桜と花畑が浮かんだ。
「咲楽、何か見たの?」
「視覚的には見えていないんですけどね。脳裏に浮かぶというか、映像が分かるんです」
「慣れるしかないね」
「そうですね」
ダイニングに降りて、朝食の仕度をする。大和さんのシャワーを舞っている時に作っておいても良かったんだけど、冷めちゃうよね、と思って止めておいた。
「それさ、作って異空間に入れておけば良かったのに」
「大和さんがシャワーから出てくる直前に、思い付いたんです。ちょっと遅かったんですよね」
「お疲れ様」
「作るのは好きだから良いんです。不格好になっちゃうのは大目に見てください」
「形が崩れようが、咲楽の料理ならどれでも旨い」
「ありがとうございます。朝食、出来ましたよ」
ダイニングに運んで、朝食を食べ始める。
「咲楽、奉納舞の時は衣装はどうするの?」
「あぁ、どうしましょう?」
「白で頼むね。白いワンピースとか」
「白ですか。大和さんは詰襟ですか?」
「そうなるね。袴も考えたんだけど、ちょっとね。衣装だって考えてもらえるだろうけど、問い合わせが来たら、面倒臭い」
「分からなくはないですけどね」
「あまり異邦人だって広めたくないし」
「そうですね。今は理解を示してくれる人ばかりですけど、これからもそうとは限りませんしね」
「それで、白いワンピースはある?無ければプレゼントするよ?」
その言葉にワードローブを思い出す。白いワンピースはあるなぁ。今年のフルールの御使者の時に貰ったワンピース。あのワンピースは好きな色に染めてくれるって事だったけど、アレクサンドラさんやダフネさんが暖色系を薦めてきて、私は寒色系にしたかったんだよね。膨張色にした方が良いのは分かってる。私の痩せっぽっちな身体だったら、膨張色の方が合うと思う。でも、暖色系は苦手なんだよね。
後は上着かなぁ。
「ワンピースはありますけど、上着が無いですね」
「じゃあ、それをプレゼントしようか」
「それは悪いです」
「プレゼントしたいんだよ。彼氏面させて?」
「でも……」
「咲楽はもしかして、プレゼントに罪悪感でも持ってる?」
「罪悪感ですか?そうかもしれません」
罪悪感というか、必要な物を買う為に、お金を貰おうとすると、くどくどとイヤミとか言われたりして、何となく自分の為の物を買う事にマイナスな感情しか持てなくなった。プレゼントを貰って、それが見つかったら、取り上げられたり、壊されたりはしょっちゅうだったし。
「ふぅん」
見透かされているような気がする。
朝食を食べ終わって、大和さんが食器を洗ってくれている間に、着替えに上がる。奉納舞の時の衣装かぁ。ワンピースはある。後は上着とインナー?
「とにかく、俺に上着はプレゼントさせてね?」
大和さんも着替えにクローゼットに入ってきて、そう言った。
「良いんでしょうか?」
「良いんだよ。なんなら、アレクサンドラさんとかダフネに相談する?」
「そこまでしなくても」
「うーん。次の休みにジェイド商会に行こうか。俺も相談したい事があるし」
「相談ですか?」
「ちょっとね。用意は出来た?」
「あ、はい。大丈夫です」
「じゃあ、行こうか」
大和さんと塔を出る。
塔の周りはやっぱり泥濘んでいる。水属性で地面を乾燥させた。
「咲楽……」
「え?だって、泥濘んでいて、歩きにくいじゃないですか」
「そうだけどさ。分かってたけどね。咲楽は無意識だもんね」
「えっと……」
「歩きやすくなったよ。ありがとう」
「どういたしまして?」
呆れられたのが分かってしまったから、どうしても疑問系になってしまった。
「第4の光の日か」
「演奏会ですか?」
「うん。何をおいても聞きに行かないとね。何時から?」
「4の鐘からです。業務に穴を空けることになっちゃいますけど」
「施術室には人手があるけど、そうじゃない部署もあるからね。セットリストは?決まった?」
「決まりましたけど、教えません」
「教えて?」
「ダメです」
「俺が頼んでも?」
「大和さんの事は大好きですけど、それとこれとは話が別です」
「言おうと思ったら、先に言われた……」
「何を言おうとしたんですか?」
「俺が好きなら言ってくれるよね?って」
「脅迫ですか?」
「脅迫……」
「言葉のチョイス、間違っていますか?」
「脅迫と言うとね。相手方に恐怖心を生じさせる目的が含まれてくるからね。言うなれば強要かな?」
「じゃあ、やり直しで。強要ですか?」
「やり直し……」
クックックっと笑いながら、大和さんが私の肩を抱いた。
「今日、仕事が終わったら、ジェイド商会に行こうか?」
「闇の日じゃなかったんですか?」
「早い方が良い気がしてきた」
「大和さんにも何かプレゼントしたいです」
「何をプレゼントしてくれるのかな?」
「ん~。まだ分からないです。何か欲しい物はありますか?」
「欲しい物?欲しい物ね」
ちらっと私を見る。
「何ですか?」
「何でもないよ。欲しい物か。考えておく」
「あまり高くない物でお願いしますね?」
「さぁ?どうかな?」
「えっと、常識的な値段でお願いします」
「そんな無理をさせる気はないよ」
その辺りは、大和さんを信じているし、大和さんの金銭感覚も信じている。でも、大和さんがプレゼントしてくれる物と、私のプレゼントする物のバランスが合っていない気がするんだよね。
騎士団本部に着いて、施術室に行く。
「あ、サクラちゃん、おはよう」
「おはようございます。トリアさん」
施術室に入る直前に、声をかけられた。トリアさんだ。今日はトニオさんはお休みだ。
「ねぇ、エミディオ君はいつから?」
「今月第4週からです」
「演奏会の日からね」
「演奏会……。気が重いです」
「そんな事言っちゃって、その場になったらしっかりと役目を果たすのよね?サクラちゃんは」
「その場になったら諦めがつくというか、なんというか……」
「サクラちゃんは、諦めがつくなんて言っているけど、絶対に逃げ出さないもんね」
「逃げ出したくなる事もありますよ?でも、逃げても事態は変わらないんです。むしろ悪くなる事が多いんです」
「耳が痛いわね」
掃除をしながら話をしていると、アイビーさんが出勤してきた。
「おはようございます」
「おはようございます、アイビーさん」
「おはよう、アイビーちゃん」
「お掃除の最中ですか?」
「休養室は終わったわ。浄化をお願いして良い?」
「分かりました」
私とトリアさんが掃除をしていって、アイビーさんが浄化をしていく。
「サクラさん。今日も奥様と練習するんですか?」
「エフィー様がいらっしゃったらですね。たぶん今日も練習はしますけど」
「知ってます?サクラさん達が練習を始めると、どこからともなく人が集まってくるんですよ?」
「えっ?」
「当然よね。みんな聞きたくて仕方がないんだから」
「エフィー様の演奏って、上品なのに力強くて、引っ張ってくれて、すごく弾きやすいんですよね」
「サクラちゃんの演奏は、優しくてどんな感情も受け止めてくれる気がするのよね」
「え?」
「だから素直に泣けるし、楽しい曲はウキウキするの」
「そうなんですか?」
「サクラちゃんがビックリしていちゃダメじゃない」
イタズラっぽく、トリアさんが笑った。
「そういえばね、ティナちゃんから、手紙が来たのよ」
「シトリー様から?グリザーリテはどうですか?」
「派閥はあるようね。多少の足の引っ張り合いもあるみたい。でも、ティナちゃん達には隠そうとしているんだって。ティナちゃん達は気付いているんだけど、それを悟らせないように、頑張っているって書いてあったわ」
「やっぱり足の引っ張り合いはあるんですね」
「長く派閥争いをやっていたら、仕方がないわね」
「グランテ先生と、キタール先生ってどうなったんでしょうか?」
「そこは書いてなかったわ」
「それぞれの派閥を率いている人同士ですから、一気に仲良しこよしって訳にはいきませんしね」
「サクラさん、グランテ先生とキタール先生に、上手くいって欲しくないんですか?」
「上手くいって欲しいですけど、すぐには難しいと思いますよ?当人だけならともかく、トップの意を勝手に解釈して、暴走する人はどこにでも居ますから」
「組織が大きくなると、その辺りが難しいのよね」
「私には分からないです」
「アイビーちゃんが分からなくても、当然だと思うわよ?サクラちゃんが分かっているのが驚きなのよ」
「そうですか?」
今日は晴れているけど、風が冷たい。それでも騎士様達は、ランニングをしている。
「大変よね。休む所はあるけど」
「あのイゴールでしょ?あの中って案外暖かいのよね」
「イゴール?」
「雪で作ったドーム型の……。サクラちゃんの所では何て言っていたの?」
「かまくらです。雪のブロックで作ったものは、イグルーと呼ばれていました。先住民族が作っていたものだそうです」
「先住民族?土着の民ってことかしら?」
「そうですね。他にも民族名は色々ありましたよ」
「例えば?」
「アイヌとか、インディアンとか、アボリジニとか。もっとも、私は名前を知っているだけです」
「そうなの?」
「そこの土地を一番分かっている人達ですよね?その人の事を知らないんですか?」
「新しく来た人達が、その土地を手にいれようとしたら、どうしますか?」
「無理矢理って事?それなら抵抗するわね。もしかして?」
「野蛮人だとか、文明の無い民族だとか、悪者扱いされた先住民族も多かったようです。その結果、隠れ住むようになって、交流が途絶えたりだとか、色々と」
「簡単な事じゃないわよね。先住民にしてみれば、自分達の土地財産を奪いに来たのだから、抵抗するのは当たり前。なのに勝手に悪者扱いされたら、紛争に発展してもおかしくないわ」
暗い話になってしまった。