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熱の月、第4の土の日。グランテ先生から預かった書物は、少しずつ解読している。解読しているのは大和さんで、私は書いているだけだけど。
分かったのは享保15年卯月にこちらに転移したという事。江戸詰めの武士だけど、郷里が伊勢国と書かれている事、こちらに来てしばらくは冒険者をしていたけど、奥さんを貰って農家になったという事だった。
伊勢国って三重県だよね。伊勢神宮とかが思い浮かぶ。ただ、記述の中に大和国に近い波瀬宿の出身だとあった。波瀬宿ってどこ?大和国は奈良県のはず。三重県と奈良県の県境って結構長いよね。だから、大和さんもどの辺りか見当が付かないって言っていた。
目覚めると、雨が降っていた。
「おはよう、咲楽」
「おはようございます、大和さん。雨ですか?」
「うん。ついさっきから降りだした。お陰で朝のトレーニングを中断しちゃったよ」
「ロープ登りとかは?」
「10セット終わった。シャワーも浴びてきた」
「それってついさっきじゃないですよね?」
「ついさっきだよ。1時間位前」
「1時間位前はついさっきじゃありません」
「起きないの?」
「誰が邪魔をしてると思ってるんですか」
「恥ずかしがらなくていいのに。毎朝毎晩見てるんだから。あれ?隠れちゃった。おーい。出ておいで」
毎朝毎晩見られている事が恥ずかしくて、シーツで顔を隠した。
「もぅ、向こうに行っててください」
「準備が出来たら、4階に上がってきてね」
満足そうに笑って、大和さんは寝室を出ていった。
大和さんが出ていったのを確認して、クローゼットで着替える。着替え終えたら、4階に上がる。4階では大和さんが瞑想をしていた。
大和さんを取り巻くモヤが真っ赤だ。思わず足が止まる。
「咲楽、入っておいで」
「……はい」
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。絶対に抑えてみせるから」
「そこは信頼してます」
「じゃあ、何の警戒?」
「大和さんを取り巻くモヤが真っ赤で」
「深紅って事?」
「動脈血の色です」
「動脈血……」
「はい」
「咲楽らしいっちゃ、咲楽らしいけど」
「鮮紅色とか、猩々緋色とかって言った方が良かったですか?」
「まぁ分かるけどね」
そうして舞われる『夏の舞』。相変わらず景色は見えなくて、大和さん自身が燃えているような感じがする。
「咲楽、ここでは水球は止めてね」
「え?水球、用意しましょうか?」
ピンポン玉位の水球をたくさん周りに浮かべてみた。
「本気で止めてね」
「冗談ですよ。どうして水球の話題を出したんですか?」
水球を消しながら聞く。
「『夏の舞』の時はいつも燃えてるみたいって言うから」
「あぁ、そうですね。そんな顔、してました?」
「イタズラを思い付いた顔をしていた。そういう顔も可愛い」
「大和さんは可愛いって言い過ぎです」
「本当の事だし、仕方がないよね」
階段を降りながら、会話をする。
「『夏の舞』のスランプは抜け出せたんですか?」
「まだだね。どうしてもイメージがね」
イメージかぁ。ユーゴ君が『春の舞』を習う時も「フラーといえば、という明確なイメージを」って言っていたなぁ。
私には剣舞の事は分からない。でも大和さんが何かに苦しんでいるのは分かる。私には何も出来ないのかな。こういう時にこそ大和さんの支えになりたいのに。
私が出来る事。美味しいご飯を作る事。話を聞く事。後は?思い付かない。私って何も出来ないんだなぁ。
朝食を食べながら、考えていたら、大和さんが腕を伸ばして、向かいの私の頭を撫でてくれた。
「咲楽がそこに居てくれる。それだけで救われているよ」
「私は役に立ててますか?」
「役に?立っているよ。そうだなぁ、欲を言うなら咲楽からの積極的な愛情表現が欲しいかな?」
「積極的な愛情表現?」
「考えておいて?」
「はい」
「素直すぎるんだよなぁ……」
ボソッと大和さんが何かを言った。
「なんですか?」
「なんでもないよ」
朝食を食べ終わって、大和さんが食器を洗ってくれる。私は着替えにクローゼットに上がる。
制服が支給されたので、どの組み合わせにしようとか、考えなくていいから楽になった。合服の夏用長袖もあるから嬉しい。私は半袖服は使わなそうだなぁ。
「その制服ね、ターフェイアの衣装店がコンペしたらしいよ。衣装部で意見が纏まらなくて、知り合いの衣装店にポロッと相談したら、デザインが集まったって言ってた」
「誰がですか?」
「衣装管理部のアールさん。女性陣に押しきられたって愚痴られた」
アールさんは衣装管理部の部長さんだ。施術室のシーツの交換やカーテンの洗濯など、アールさんに任せれば完璧にしてくれる。私のおかしな洗浄魔法並みの綺麗さだ。やり方は知らないんだけどね。
「最初に見せてもらったデザインと違うな?って思っていたら、そういう事だったんですね」
着替えを済ませたら出勤。城門を出た所でジョエル先生にばったり出会った。
「おはようございます」
「おはよう。イテテ」
「どうかされたんですか?」
「年だねぇ。徹夜でのカードゲームは堪えるよ」
「徹夜?」
「領城で寝るから大丈夫だよ。イテテ……」
大丈夫じゃないと思う。
門番さんが飛んできて、手慣れた感じでジョエル先生を連れていった。
「ずいぶん慣れてるな」
「そうですね」
「カードゲームか。ターフェイアに来てからやってないな」
「ポーカーでしたっけ?」
「ポーカーとブラックジャックはカジ……」
「カジノに行った事があるんですか?」
「行ってないよ」
「大和さん?」
「行ってません」
「大和さんが語尾をですますに変える時は、誤魔化したい時ですよね?」
「そんな事はないよ」
「大和さん、私の目を見て言ってください」
「咲楽、ほら、往来だと危ないから、ね?」
「法に引っ掛かっていないなら、カジノやギャンブルは個人の責任で良いと思うんですけどね」
「違法性は無かった……。あ、いや……」
「それなら良いじゃないですか。どうして誤魔化すんですか?」
「咲楽が嫌いかな?って思ってね」
「別に忌避感は無いですよ。自分で積極的にしたいと思わないだけで」
「それなら良かった」
「何か手軽に出来るゲームって無いんでしょうか?」
「リバーシとかバックギャモンとか?」
「バックギャモン?名前は聞いた事がありますけど」
「古くからあるゲームだよ。日本には飛鳥時代に入ってきたと言われている。日本での呼び名は盤双六」
「双六って、スタートからサイコロを振って、出た目だけ駒を進める、あれですか?」
「それは道中双六。盤双六は上下12に区切った枡と15の駒を使う。盤上に配置された双方15個の石を、どちらが先に全てゴールさせる事が出来るかを競うんだよ」
「分かったような分からないような?」
「聞くだけだと分からないよね。盤双六は偶然性が高くて、日本では度々「盤双六禁止令」が出されているんだ。ギャンブルに使われたからね」
「今では見ませんよね?」
「そうだね。消滅したわけではないけどね。プレイ人口が少ないだけで」
「バックギャモンと盤双六って同じ物なんですね?」
「全く同じとは言い切れないんだな、これが。まずルール。細かい点で違ってたりする」
「えぇっと……。そういうゲームがあるんですね?」
同じ物だって聞いていたのに、全く同じじゃないって言われて、話を無理矢理切り上げた。混乱してきちゃったからね。
「まぁ、良いけどね」
騎士団に着いて施術室に行こうと大和さんとの別れ際に、大和さんに引き留められた。
「あぁ、待って咲楽。ターフェイアに来たときに作ってもらったハチマキ、まだ持ってる?」
「赤だけ持ってます。他のは衣装管理部に渡しました。というより、返ってこなかったと思います」
「そのハチマキ、貰っていい?」
「どうぞ。私は使いませんし」
赤のハチマキを大和さんに渡す。
「ありがとう。積極的な愛情表現、考えておいてね」
「はい」
ハチマキはヒポエステスに使うんだろうな。今日は雨だけど、どうするんだろう?
雨の日は、騎士様達はマナーの勉強や作戦の話し合いをする。だからという訳でもないけど、施術室は暇になる。
「おはようございます」
「おはよう、サクラちゃん」
「おはよう、シロヤマさん」
「おはようございます、シロヤマ先生」
「リアム君?おはようございます。どうしたんですか?」
「アメリアとイネスは第2書庫に行っています。ボクはその……」
「先日ね、リアム君とイネスちゃんの属性や魔力量を調べて貰ったのよ。そしたら、リアム君の魔力量が多くてね。魔力操作だけでも覚えておいた方が良いって事になったのよ。魔力操作が出来ないと色々と危険な事もあるし。それでね、サクラちゃんに結界をお願いできないかと思って」
「結界ですか?どのタイプの?」
「出来ないとは言わないのね。お願いしたいのは音を遮断する結界。アイビーちゃんから聞いたわ。防音が出来るって」
「あぁ、はい。防音タイプですね」
「後は風が漏れないようにって出来る?こっちから見えてると嬉しいんだけど」
「防音出来て、衝撃吸収かな?それと透明化」
防音室にしちゃえば、風も漏れないよね。休養室の一角に防音室のイメージで結界を張る。内部は軟らかく、衝撃を吸収出来るように。低反発マットって感じ。分かりやすいように、角を繋ぐ辺に黒色を付ける。入口は引き戸。引手部分にも黒色を付けておいた。
「出来ましたよ」
「あ、ありがとう。あのね、サクラちゃん。これってどの位維持できるの?」
「たいして魔力も使いませんし、たぶん解除しようとしなければ、いつまででも」
「解除しても、同じのは張れるんだよね?」
「はい」
「平然と言うわね。ちなみにどの属性を使ってるの?」
「光です。イメージは石造りの部屋でしょうか」
「石造りだったら音は漏れないよね。入口はこの黒いの?」
「はい。それを右に動かしてください」
「あら。ちゃんと動く感覚があるわ。ちょっと失礼して」
トリアさんが結界内に入っていった。何かを言ってるけど、外には聞こえてこない。
「音はどう?」
「全く聞こえなかったよ」
「それなら大丈夫そうね。トニオ、よろしくね」
「はいはい。リアム君、行こうか」
「はい」
トニオさんが教えるんだ。
「トニオさん、完全透明にしちゃうと、落ち着かないと思うので、少し曇らせますね」
「おぉ。白くなった」
スイッチひとつで白くなるパーティションってあったよね?って思って、やってみた。1m位までは完全に白く、そこから徐々に透明になる。
「凄いわね」
「防音の結界は何度か張ってますから」
「使ってるのは光だけ?」
「そうですね。光だけです」
「イメージさえ出来たら、私も張れちゃうのかしら?」
「出来ると思いますよ。浄化の時に空間を区切りますよね?あれと同じです」
「小さな部屋を作るのかしら?」
「そんな感じですね」
「うーんと、小さな部屋。小さな……」
「トリアさん、後にしてください。お仕事ですよ」
「はぁい」
いつものように時間が過ぎていく。食堂のおばさんの切傷、マイストのおじさんの擦過傷や腰痛、膝痛の治療。
「施術師先生、久しぶりに寝かせてください」
「レリオさん、お久しぶりですね。その後、どうですか?」
「痛みは完全に引きましたよ。終業時間で帰る事にも慣れました」
「違和感は無いですか?」
キトルス水をお出しする。柑橘系は胃酸分泌を促進させるって聞いたけど、この位なら良いよね。
「違和感ですか?無いですねぇ。食事も食べられるようになってきましたし、言うことがないですよ」
「でも、寝不足?」
「あはは。ハーブの勉強を始めたんですよ。そうしたら夢中になっちゃっちゃって。気を付けてたんですけど、昨日は気が付いたら8の鐘前だったんです」
「趣味を持つことは良いですけど、無茶をしないでくださいね」
レリオさんに休養室に行ってもらう。
「あれ?これ何ですか?」
防音結界室を見たレリオさんに聞かれた。
「ちょっとした勉強室ですね」
「へぇ。良いなぁ」
「はい。横になってください。ソムヌスはどうしますか?」
「要らない気もしますけど、かけてもらって良いですか?」
「軽くにしておきますね」
イメージは睡眠導入剤。寝付きだけよくするお薬だ。
レリオさんが眠ったのを確認して、休養室を出る。リアム君とトニオさんは水分を持ち込んでいるから、脱水の危険性は無いよね?
「レリオさん、元気になりましたね」
「そうですね。夢中になれる物を見つけたのは良いですけど、無理をしなければいいんですけど」
「さっきのってこの人よね?あら。ちょっと血を吐いたって、どうしたの?」
「精神的に負担がかかりすぎて、大丈夫って誤魔化し続けた結果です。ルメディマン先生のお陰で良くなったようですね」
「良かったわねぇ」