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休暇が終わって、帰ってきた水の月の第3の光の日。馬車の音はまだ怖い。でも恐怖に囚われて何も出来ないという程じゃない。馬車にはまだ乗れないけど。昨日試したんだけど、馬車の内部に入れなかった。
避難民の人達はもう少しあの別荘で居るようだ。まだ住居が建っていないし、密入領という立場になるから、とりあえず冒険者登録をしておくにも、色々と都合が悪い。微々たる金額ではあるんだけど、トニオさんとトリアさんが雇っているという形にして、騎士団の有志と施術室のみんなでお給料を渡してもらっている。日雇いの別荘の掃除人という感じかな?もちろんそこまでの汚れはないし、ナジェフさん達もまだ体力が回復しきってないから、無理はさせられない。
スタージョン湖の高台に何棟かの住居を建てている最中だけど、大人はともかく、子ども達はこのままでは学門所にも通えないから、トゥリアンダ様始めターフェイアの役人さん達が、なんとかしようと連日会議を開いていると聞いた。
今朝は曇天だ。重い雲が垂れ込めている。お陰で塔の中が薄暗い。着替えてキッチンに降りる。薬湯を煎じていると、大和さんが帰ってきた。
「咲楽、ただいま」
「おかえりなさい、大和さん」
「今日は放牧場まで行ってきたよ。レーヴァとクラウと走ってきた」
「無断じゃないですよね?」
「管理人さんも起きてたよ。あぁ、咲楽にお土産」
「お土産?」
「はい、これ」
渡されたのは可愛い花。淡いピンクのペンタス。5枚の花びらが星形になっている毬のような花だ。鉢植えになっている。
「可愛い。どうしたんですか?」
「放牧場で見つけて、管理人さんに許可を貰って鉢植えにしてきた」
「嬉しいです」
「その顔が見たかったんだよ」
薬湯を持って4階に上がる。ペンタスはリビングに置いてきた。
4階に着くと大和さんが瞑想を始める。私はその間薬湯を飲みながら待っていた。今日の剣舞は何かな?別荘に居る間、剣舞を見ていないんだよね。朝は2人で散歩して、いろんな事を話した。この先の生活について。結婚についても話した。昼間は避難民のみんなが居てくれるから、私は1人になる事はなくて、大和さんもある程度自由に動いていた。スタージョン湖の浸水地域の片付けを冒険者さん達としていたり、連日訪れるハンネスさんと剣での試合をしたり、マリオさん達とじゃれあいのような体術の訓練をしたり、それに避難民の男性陣が加わろうとして女性陣に叱られたり、賑やかで楽しかった。
今日の剣舞は『秋の舞』だった。美しい黄葉の林の中を吹き抜ける風。コテージのようなログハウスの前でナイオンが寛いでいるのが見えた。何だかどんどん日本の風景が消えていくなぁ。『秋の舞』は完全にこちらの風景だ。見た事はないんだけど。
「ナイオンに会いたいです」
「その計画も立てなきゃね」
「1週間も休んでしまいましたし、さらに休みをってちょっと抵抗があるんですけど」
「大丈夫だとは思うけどね」
「そうでしょうか」
「大丈夫だよ」
キッチンに降りて、朝食の用意をする。大和さんはシャワーに行った。
マンドルのジュースを絞っていると、来客があった。こんな朝早くから誰だろう?
「俺が出るよ」
ちょうどシャワーから出てきた大和さんが降りていく。少しして大和さんは、ジョエル先生を伴って上がってきた。
「朝早くからごめんね、シロヤマさん」
「おはようございます。どうなさったんですか?」
「調子はどうかな?って思ってね」
「馬車に対しての恐怖は、かなり軽減したと思います。まだ乗れませんけど。お休みを頂いている1週間は第2の闇の日以外は、特に恐怖を覚える事もありませんでした」
「今日から通常通りの勤務で良いって事かな?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「構わないよ。休暇中の事は日報に書いてきたから、読んでね。それから頼みたい事があるんだけど」
「何でしょう?」
「1度じっくりと、シトリー総務部長の話を聞いてやって欲しいんだ。緑の日に施術室前をうろうろしててね。トリアが聞いたんだけど、何というかはっきり言わなくてね」
「分かりました」
「休暇明けに悪いね」
「いいえ。大丈夫です」
ジョエル先生が帰っていって、大和さんと朝食を食べる。
「そんなに急がなくても良いんじゃない?」
気になって幾分食べるスピードを早めてしまう私に、大和さんが苦笑した。
「気になっちゃうんです」
「分かるけどね。落ち着こう」
「はい」
穏やかに言われて、少し落ち着いた。
朝食を食べ終えると、私は着替えに行く。季節が進んで暖かいというよりは暑いって日もあるくらいだ。今日は曇っているからそこまで暑くはならないかな?ならないと良いなぁ。
「咲楽、用意は出来た?」
「はい」
大和さんと塔を出る。
「緊張してる?」
「少しだけ。初出勤って感じはないですけど」
「今日は全員集合?」
「シフトだとそうなりますね」
このシフトも私が組んでいるんだよね。セント様とアイビーさんの休みを合わせてあげたり、ちょっと楽しい。施術室長を任された時に月に何日の休みが欲しいかって話し合って、月に5日って事に落ち着いた。本当は週休2日とかにしたかったんだけど、騎士団長様に『えっ?!』って言われちゃった。今は人数が増えたから、月に6日の休みにしている。騎士団長様からは、夜勤の検討もしているという話も聞いている。問題は色々あるんだけど、やってみなきゃ分かんないよね。騎士団付きの施術師は女性が多いから、それも問題だ。この世界は夜間に出歩いて平気だった日本じゃない。夜になるとほぼ真っ暗になっちゃうし、夜間の女性の独り歩きは不可能だと言っても良いくらいだ。
騎士団員の寮はあるんだけどね。そこに女性施術師をっていうのも、ねぇ。呼び出し手段が無いからオンコールは使えないし。
「……くら、咲楽」
「はっ、はい!!」
「何を考えてたの?大丈夫?」
「施術師の夜勤についてです」
「俺は反対だよ?」
「分かってます。安全に出来るって保証が全くありませんし、夜勤という形じゃなくても、オンコールという手段もあるけど、この世界ではそれも出来ないし、難しいなって思って」
「王都の方にも問い合わせて、検討してるみたいだけどね。オンコールか。前に咲楽が貰った双方向のみの通信魔道具があれば、解決できるかもね」
「通信魔道具ですか。高価ですよね」
「まぁね」
騎士団本部に着いた。
「施術師先生」
「シトリー様、待ってたんですか?」
「お話、聞いてください」
「少しだけ待って貰っても?施術室の準備だけしてきます」
「今すぐじゃなくても、お時間を頂きたいんです」
「あぁ、それなら大丈夫ですよ。いつでも来てください」
「ありがとうございます」
「サクラさん、おはようございます」
「アイビーさん、おはようございます」
「シトリー様ですか?」
「はい。待ってたみたいです」
施術室へ入って、掃除をする。浄化はトニオさんとトリアさんの練習の為に残しておく。
「サクラちゃん、アイビーちゃん、おはよう」
「おはよう、施術師ちゃん達」
「おはようございます。長くお休みをいただきました。ありがとうございました」
「良いのよ。良くなったの?」
「恐怖に囚われる事は、無くなったと思います。馬車にも不必要にびくびくすることも……多少は残ってますけど。ただ、馬車にはまだ乗れません」
「そうそう緊急救援なんて無いでしょ?大丈夫よ」
「あ、そうだ。シロヤマさん、血液の浄化って何?」
「血液を浄化する事ですけど」
「それって、トキスィカシオンじゃないんだよね?」
「イメージはそんな感じです。トキスィカシオンを光属性で行ってるって感じかな?」
「血液内の有害な物を取り除くってことかしら?」
「そうですね。血液内の有害な物を消し去るってイメージです」
「普段の空間の浄化の対象が、血液になる感じ?」
「そうですね」
「難しいなぁ」
2の鐘半頃、シトリー様がやって来た。
「施術師先生、お願いします」
「はい。どうぞ」
ハーブティーをアイビーさんに淹れてもらう。「気分が楽になりますように。美味しくなりますように」の光属性での祈りも忘れないようにしてもらう。
「あれ?以前のアイビーさんのハーブティーと味が違う?」
「そうですか?」
「すごく飲みやすいです」
「良かった」
しばらくハーブティーを飲んでいたシトリー様が話し出した。トニオさんとトリアさんは休養室に行っている。
「それでね、先生。聞いて欲しかったんです。部署内の仕事中の雰囲気があまり良くなくて。私なりに聞いてみたんですけど、仔狼達が居なくなったかららしいんです」
「はい?」
「総務部内で、時間があれば見に行ってる人達が居たんですけど、淋しいって言ってて」
「あらら」
「そんなのどうしようもないじゃないですか?なのに何とかしろって本部長から言われちゃって」
「どうしようもないですよねぇ」
「ですよね?部署内でなにか飼うわけにもいかないし」
「お世話も大変ですもんね」
「そうなんですよ。それでね、良い案は無いですか?」
「思い付きませんねぇ。でもこれってトリアさん達にも、聞いてもらった方が良いかも?」
「何故ですか?ちょっと恥ずかしいんですけど」
「良い案が出るかもしれませんよ?」
しぶしぶながら頷いてくれたので、アイビーさんに呼びに行ってもらう。
「……と、いう訳なんです。何か案はありませんか?」
「案?すぐには思い付かないんだけど」
「癒しが欲しいって事で良いのかな?」
「トニオ、何を思い付いたのよ」
「避難民の子達に来てもらったらどうかな?って思ってね。領主様達の了承は要るけど、あの子達ってすごく良い子達だし、保護者の人を騎士団で雇って、ついでに来てもらうとか、リアム君とイネスちゃんならちょっとした手伝いとかもできるでしょ?アメリアちゃんにはまだ難しいけど」
「でも、領主様と騎士団長様の許可が要りますよ?」
「僕も説明とお願いに伺うよ。どうかな?」
「ちょっと待って。子どもを代わりにするって事?子どもは愛玩動物じゃないのよ?」
「分かってるよ。実はね、僕も事務方の人達と話したりするんだけど、結構同じ事を聞くんだよ。仔狼達が居なくなって淋しいって」
「騎士団長様に話を通してからですね。具体的な事を決めるのはそれからです。シトリー様、仔狼達が居なくなって淋しいって人はどの位いますか?」
「私の部署内の半分くらい?」
「結構多いですね」
仔狼達が居なくなった淋しさは、時間が解決すると思うんだけど。要望は出してみても良いと思う。
「要望は出しても良いと思いますけど、避難民の皆さんの意見も聞かないといけませんね」
「そうね。こっちで勝手に決める訳にいかないわ」
「そうですよね。ありがとうございました」
シトリー様が出ていって、少ししてからアイビーさんが言った。
「あの子達に来てもらうの、私は賛成です」
「アイビーちゃん?」
「あの子達って良い子だけど、良い子過ぎるっていうか、自分達のしたい事を言わないじゃないですか。何だか気になるんです」
「確かに大人しすぎるわね。聞き分けが良すぎるっていうか」
「だよなぁ」
「周りが大人ばかりですし、我慢してきたんでしょうね」
「だから、少し位はワガママ言っても良いんだよって、教えてあげたいんです」
「でも、それをここで?」
「毎日じゃなくてさ、週に1日とか、どうかな?半日とかでも」
「トニオさん、そういった具体的な事は、騎士団長様と領主様に伺ってからですよ」
「サクラちゃんも大人よね」
トリアさんが私をまじまじと見て言った。
「はい。成人してますよ?」
「そうじゃなくてね。年齢に合わないっていうか、甘え方を知らない気がするのよ」
「そういう事ですか。そうですね。人に甘えるのは苦手です」
「トキワ様には甘えてるけどね」
「そっ、それは……」
「やだ、サクラちゃん、真っ赤よ。可愛いんだから」
「からかわないでください」
ひとしきり笑って、私はジョエル先生の日報を読んでいた。アイビーさんとトリアさんとトニオさんは勉強というか、カルテや文献の纏めをしている。
「そうだ。サクラちゃん、スタージョン湖の湖畔の土地、買わない?」
しばらく黙っていたトリアさんが、唐突に言った。
「トリア、それはトキワ様と2人揃った時に、言ってみるって言っただろ?」
「思い出しちゃったんだもの。どう?」
「1人では決められませんよ」
「そうよね。アイビーちゃんもどう?」
「ふぇっ?!私もですか?」
「お昼にでも話そうと思ってたんだよ。なのにトリアが先に言っちまうから。2人が困惑してるじゃないか」
「急なお話ですし、時間を下さい」
「ふふっ。ごめんね」
3の鐘になったから、食堂に移動する。