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霜の月に入ったからって訳じゃないんだろうだけど、今日は患者さんが少ない気がする。お陰で骨格図の複写が捗る。フォスさんの分は写し終わった。次は何をしよう?
常連さん達の治療の合間に、ユーゴ君のハンカチのデザインを考えていた。炎のモチーフは決めているんだけど、それだけだと……。あ、そうだ。炎のモチーフの上にユーゴ君のイニシャルを刺繍しようかな。
この世界の文字は英語に近いけど、大和さん曰くスリランカ辺りの文字のような古文字がある。த・மி・அ・சு・සිං・හ・ල・හෝ・ඩි等の丸っこい可愛い文字だ。記号といわれても違和感がない。
古文字は詳しくない。こちらに来たときに文字は読めるようになっていたし、書くことも出来ていた。でも古文字は読めなかったし書けなかった。古文字を知ったのは古語辞典に載っていたから。
西街の本屋のオババ様(本人がそう呼べって言ったんだもん!!)が古文字の現在文字の対応文字や読み方を教えてくれて、なんとか書けるようになった。すらすらとは読めないし、書けないんだけどね。現代で使っているのは古代文明を研究している魔術師だけだって話だし。つまり覚えても、何の役にもたたない。
悩みながらデザインをしていると、ルビーさんに見られた。
「何してるの?」
「ちょっと刺繍のデザインを」
「そう。ねぇ、サクラちゃん。ターフェイア領ヘ行くのよね?」
「はい。そのつもりですが」
「その前にフォスさんの指導よね?」
「指導というか、引き継ぎですね」
「どういう人か聞いてる?」
「いいえ。マクシミリアン先生のお知り合いとしか、聞いていないです」
「最近王都に来た木工師の職人がフォスって光属性の人物に、世話になったことがあるって言っていたのよ。怪我をして困っていたらフラっと現れて助けてもらった事があるって」
「フラっと現れてですか?」
「そう。まだ若かったって言っていたし、同一人物かもしれないと思ってね」
「でも、それを知っても、私には何も出来ませんよ?」
「分かっているわ。聞いたのは最近だけど、助けてくれたのは5年位前らしいし、それを知ってどうこうって事じゃないのよ。ただね。妙に気になるのよね」
「不安になるような事を言わないでください」
お昼まではほぼ常連さんだけしか来なかった。
お昼休憩の時にライルさんからの話を聞いた。
「シロヤマさん、リュラってどこかで演奏した?」
「はい。ファティマさんに連れていかれて、ファティマさんの同郷の方々の所で」
「本当だったか……」
「え?どうしたんですか?」
「そこに宮廷楽士の友人が居たらしい」
「ファティマさんの同郷の方々だけって聞いていたんですが」
「まずね、確認したいんだけど、ファティマさんってキレスタール人?」
「あ、えっと……」
「コラダーム人じゃないよね?」
「はい。そう聞きました」
「キレスタール国は内部崩壊を繰り返して、もう消滅寸前だって話だし、ちゃんと亡命申請されているなら問題はないよ。えっとね。ファティマさんについて聞きたいんじゃないんだ。シロヤマさんがリュラを人前で演奏したかを聞きたいんだけど、したんだね?」
「はい。しちゃ、ダメでしたか?」
「宮廷楽士の友人が居たって言ったでしょ?まだ陛下の耳には入ってないけど、サファ侯爵様からご質問があったんだよ」
「ライル様、それってもしかして……」
「そう。サファ侯爵様が聞きたがってる」
「えぇぇぇ」
「当然でしょ?自分の後見している人間だよ?会いたいって言っても来てくれないし、もうすぐ王都を離れるって言うし、その前にぜひ会っておきたい。出来ればリュラも聞かせて欲しいって伝言された」
「ライル様、今朝言っていた事ってそれですか?」
「そう。シロヤマさんだけだと不安だろうし、施療院の皆さんで来てくださいって」
「「無理です!!」」
「そう言うだろう事は分かってたけどね」
「ライル、施療院の皆さんでという事は、ワシもか?」
「そうですよ。所長もです」
「侯爵邸に呼びつけるなと、あれほど言うておいたに……」
「所長、サファ侯爵様とお知り合いなんですか?」
「まぁの。あちらは上級貴族。こちらは一般庶民じゃが、もう35年来の友人付き合いをさせて貰っておる」
「そうだったんですね」
「それで、もう1つ。トキワ殿もって聞いたんだけど」
「あ、やっぱり漏れてた」
「ん?」
「大和さんは笛でした。一応秘密にって言ってましたけど、どこからかは絶対にバレるだろうって言っていました」
「トキワ様って笛も吹けるの?」
「剣舞は自分一人じゃないし、その人が舞っているときの演奏もいるからって習ったって言っていました。専門の演奏する人は居たけど、毎日来て貰うわけにいかないからって言ってましたけど」
「へぇ。そうなのね」
「トキワ殿も呼ばれているよ」
「今頃騎士団辺りで聞いていそうですね」
「サクラちゃん、冷静ね」
「動揺しまくっていますよ。リュラを聞かせて欲しいと言われても、数曲しか弾けませんし」
「曲数、増えたわね」
「弾けるようになるのが楽しいです」
「これ、弾ける?」
数枚のスコアを渡された。
「えぇっと……」
リュラを出して弾いてみる。少し弾いて首をかしげた。あれ?
「知っている曲に似ているんですけど」
「トキワ殿の笛を思い出して書いてみたって言ってたらしい。是非とも演奏したいから、許可が欲しいって」
「大和さんに聞かなきゃ分かりませんけど」
「今日はトキワ殿は遅番だよね?明日は?」
「休みです」
「なんだったら僕が説明するけど?」
「お願いします」
「即答ね」
「私では説明しきれない気がします」
動揺しまくっていて、覚えているのがサファ侯爵様のお屋敷に行かなきゃいけないって事と、爽籟の事だけだったりする。
「そのスコア、持っていて良いからね」
「ありがとうございます」
お昼からの診察にオスカーさんが来院した。
「よぅ。嬢ちゃん。久しぶりだぁね」
「お久しぶりです。どうかなさいましたか?」
「足を痛めちまってな」
オスカーさんの足は極軽い捻挫だった。
「『天使様の弟』君の事だがな」
「はい」
「自分に演奏出来る楽器はないか?ってムラードに言ったそうじゃ無ぇか」
「あぁ、はい。言っていましたね」
「こんなのはどうでぇ?」
見せられたのはボタンとバンドの付いた黒いシックな6角形の蛇腹状の物。
「コンツェルティーナっていうんだ。家の工房の奴がひけるのさ。やってみねぇか?」
「私にそれを言われても、決めるのはユーゴ君ですから」
「そういやぁ、そうだな。冒険者ギルドで待ち伏せしてみるか」
「オスカーさん、お仕事は?」
「俺ぁ、隠居だからな。時間は自由だ」
「それなら良いですけど。ミゲールさんが付いていないし、サボってきたのかと思いました」
「足を痛めたのは本当だぁね」
「ちゃんと捻挫していましたね」
「上手く出来てたか。良かった……。じゃ、無ぇ!!ワザとじゃねぇからな?都合よく痛めたから、抜け出した訳じゃねぇからな?」
「分かりました。黙っておきます」
「嬢ちゃん、分かって無ぇよ……」
オスカーさんは肩を落として帰っていった。
5の鐘になって、施療院を出る。
「サクラちゃん、明日はトキワ様も休みなのよね?」
「はい。呼び出しがなければ」
「呼び出しって、度々あるの?」
「たまにです。しょっちゅうはありません」
「ねぇ、サクラちゃん、お昼の曲ってもう弾ける?」
「まだ無理ですよ。譜を読み込んでないですし、初見では弾けません」
「幾つかスコアを持って行こうか?」
「明日ですか?」
「そう」
「伯爵様にバレませんか?」
「確実にバレるね」
「じゃあ、いいです。要りません」
「だよね」
「お2人共、コンツェルティーナって楽器、知っていますか?」
「知ってるよ」
「コンツェルティーナ?」
「6角形の蛇腹状の楽器だよ。ほら、よく野外劇場で旅の楽士が演奏ってるでしょ?」
「あぁ。あれ、コンツェルティーナって言うの?」
「コンツェルティーナがどうかしたの?」
「オスカーさんがユーゴ君にやってみないか?って診察に持ってきました」
「診察に?」
「都合よく足を痛めたそうで」
「都合よくね」
「実際には軽い捻挫でしたけど」
「オスカー制作も大変だね」
「来院したのは4の鐘前でしたけど、冒険者ギルドでユーゴ君を待ち伏せするって帰っていきました」
「よほど勧めたいのね」
王宮への分かれ道に着いた。
「じゃあね。気を付けて帰るのよ」
「はい」
周りは真っ暗だ。少し急ぎ足で家に帰る。
「ただいま」
当たり前だけど答えは無い。ライトと暖炉を付けて、着替えに自室に向かう。ライルさんから貰ったスコアを自分の机に置いて、キッチンに行く。
今日の夕食は何にしよう?簡単で良いよね。野菜蒸しを作って、簡単に夕食を済ませた。明日の朝のスープを作っておく。
小部屋でリュラを出して、エチュード、バージニーリルア、ベルスーズ、Frühlingを弾く。レキュイレムはまだ練習途中だ。哀愁を帯びたメロディー。でも第二楽章に当たるのかな?希望が見えてきている気がする。曲調が少し明るくなるんだよね。
大和さんは「レクイエムに神道の用語である「鎮魂」の意味はない」と言った。レクイエムは死者の為のミサ曲だと。かつてはレクイエムを鎮魂曲と訳したけど今は不適切な訳だとされているらしい。
リュラを弾いたら、暖炉を消してお風呂に行く。明日は休みだし、大和さんを待っていたいな。起きていられればいいけど。いつもより時間をかけてお風呂を堪能した後、寝室に入って、爽籟のスコアを広げた。立膝でリュラを構えて爽籟を弾く。うーん難しいな。笛の旋律をそのままスコアにしているから、リュラでは少し弾きにくい。アップテンポとスローテンポが入り交じっている。これを大和さんもカークさんもあの時余裕な表情で吹いていたよね?
大和さんは分かる。最初に聞かせて貰った時も息切れはしていたけど、苦もなく吹いていたし。でも、カークさんもスゴいよね。大和さんに付いていっているし、『春の舞』も仕上げていて堂々と吹いていた。
玄関の方で物音がした。大和さんかな?
「咲楽ちゃん、ただいま。まだ起きていたの?」
「おかえりなさい、大和さん。待っていたかったんです」
「風呂に入ってくるね」
「はい」
白い騎士服の大和さんが寝室から出ていって、階段を降りていく音が聞こえた。
もう少しだけリュラを弾いていよう。
「咲楽ちゃん、ただいま」
「おかえりなさい。髪、乾かしましょうか?」
「してもらおうと思って、そのまま来た」
大和さんに座ってもらって髪を乾かす。
「これ、どうしたの?」
「あぁ、爽籟のスコアです。ファティマさんの集まりの時に宮廷楽士の方のご友人が居たらしくて、その方が書いたそうです。それで……」
「もしかして、サファ侯爵様の出頭要請って、これに関係ある?」
「はい、たぶん」
「たぶん?」
「ちょっと動揺しちゃって、よく覚えてないんです。明日、ライルさんが説明に来てくれます」
「ふぅん。これ、間違ってる箇所が多いけど、あの場で書いたのかな?」
「分かりません」
「そうだよね。リュラを仕舞って、こっちにおいで」
リュラとスコアを魔空間に仕舞って、大和さんに抱き締められる。
「咲楽ちゃんを抱き締めるとホッとする」
「大和さんに抱き締められると、安心します」
「本当に?嬉しいね」
「大和さん、オスカーさんが今日、来てくれたんですけど、ユーゴ君にってコンツェルティーナって楽器はどうだ?って言ってくれて」
「オスカーが何故ユーゴの楽器の件を知ってる?ムラード工房からか?」
独り言のように、大和さんが呟く。
「そうだって言っていました」
「コンツェルティーナか」
「知ってますか?」
「コンサーティーナとも言うね。というか、コンサーティーナの方が一般的だった。アコーディオン族に属するフリーリード楽器で、蛇腹楽器の一種だよ」
「実物は見せてもらいましたけど、音は聞いていないんですよね」
「アコーディオンみたいな音だよ。アングロ・コンサーティーナは習得が比較的容易といわれているけど、俺は弾いたことはないね」
「どこかで聞いたんですか?」
「難民キャンプの慰問に来てくれていたんだよ。テントの外で聞いていたけど、難民の中には泣いている人も居たよ」
「アコーディオンですか。あまり覚えがありません」
「福祉施設の慰問ってイメージがあるんだけど」
「実習で行った施設では、ハーモニカ演奏とヴァイオリン4重奏でした」
「ヴァイオリン?そんなのも来るの?」
「聞いた話だと、小学生の訪問とか、三線と沖縄舞踏とか腹話術とかあったみたいです。後は落語とか」
「楽しそうだね」
「楽しかったって言っていました」
「看護師もそういう実習に行くんだね」
「保育園実習とかもありましたよ」
「もっと聞いていたいけどね。眠くない?」
「眠いです」
「寝ちゃって良かったのに」
「起きていたかったんです」
「可愛い事を言っちゃって。いい娘だからおやすみ」
「おやすみなさい。微妙に子ども扱いされた気がします」
「気のせい気のせい」
ハハッと笑って横にされて、ぎゅっと抱き締められて、眠りに付いた。