190
精神的には疲れも感じるけど、カークさんと大和さんの会話は聞いてて楽しい。友人とも違う別の関係性を感じる。
施療院に着いた。
「いってきます」
「いってらっしゃいませ」
「お仕事頑張ってね」
「はい」
更衣室に入ると、ローズさん、ルビーさん、リディー様が揃っていた。
「おはようございます」
「おはよう、サクラちゃん。あれ?何か良い香りがする」
「あら本当」
「天使様、香りを変えました?」
「ちょっとナツダイを使ったので。その匂いじゃないかと思います」
「ナツダイってまだ酸っぱくなかった?」
「まだまだ酸っぱくて食べられないです。ドレッシングとか、付けダレにしようと思って買っておいたんですけど」
「何に使ったんですの?」
「経口補水液を作りました」
「けいこう……?」
「経口補水液です。ちょっと飲み過ぎたって方がいて、水分を取って、出しちゃうっていうのが有効だったりするので」
「それって、宿酔?」
「有り体に言えば、そうです」
「ねぇ、それって美味しいの?」
「ナツダイの果汁とか、蜂蜜を入れましたから、飲みやすいでしょうが、砂糖もたくさん入ってますからね。汗をかいたり、宿酔の時には有効ですけど、普段飲みするにはお薦めしません」
「ホアなら良いって事?」
「まぁ。普通に水を飲んでも良いんですよ?」
「味が付いてる方が飲みやすいじゃない」
「美味しい方が良いじゃない」
「えっと、えぇっと……」
「リディー様、無理して何かを言おうとしなくて良いですよ」
診察室に移動する。
「サクラちゃん、さっきのってヘリオドール様?」
こっそりルビーさんに聞かれた。
「さぁ?どうでしょう」
「分かってたけどね。言わないだろうな、って事は」
「そう思うなら、聞かないでください」
「聞きたくなっちゃうのよ」
診察が始まって、いつもくらいの時間に、オスカーさんが来院した。
「嬢ちゃん、良い匂いがしないかい?」
「あぁ、ちょっと朝からナツダイを使ってきたので」
「ナツダイ?今の時期にゃあ、まだ酸っぺぇだろうに」
「酸っぱくても色々使えるんですよ?」
「あれをねぇ」
「どうやって使うんですか?」
「果汁を付けダレにしたりとか、皮を砂糖漬けにしたりとか」
「私には真似できません」
「真似をしなくて良いんじゃ無いですか?こうしたら良いんじゃないかとか、やってみなくては何も変わりませんよ」
「やってみないと変わらないですか?」
「はい」
「嬢ちゃん、良いこと言うね」
「オスカーさん」
「ミゲールはな、保守的って言うか、新しい事に慎重すぎるって言うか、とにかく頑なに工夫するって事をしやがらねぇんだ」
「あら、でもそれも大切ですよ。古い事を守りながら新しい事を取り入れていかないと。伝統とかって言うのもあるでしょう?」
「嬢ちゃん、どっちの味方なんでぇ?」
「味方とか、分かりませんよ。私には細工師さんの事が分からないから、好き勝手言えるんです」
「嬢ちゃんには勝てねぇな」
「天使様、工夫と言うと、例えば?」
「そうですね。私個人の考えだと思って聞いてくださいね。例えばお料理なんかは結構手順を変えちゃったりしますね。後で煮込む場合、炒めなくても良いものなんかは、そのまま入れちゃったりしますし、そうでなくてもパスタとか、スープに入れるなら、下茹でせずに入れちゃったりとか」
「そんな事を?」
「だって結局火が通りますから、わざわざ手間をかけなくても良ければ、それで良いじゃないですか」
「天使様って……」
「その間に他の事をしたりできますよね?」
「まぁ、確かに」
「もちろんそれをしなければって行程は、省略しませんよ。何度も作ってくれば、あれ?って思う事、ありませんか?」
「あり……ますね」
「そういった事から変えていくんです。もちろんやっぱり上手く行かなかったってことも、ありますからね?」
「はい。やってみます」
「嬢ちゃんは若ぇのに、よく分かってるねぇ」
「ほとんど受け売りですけどね。自分の最適な手順を見つけろって言われちゃったんですよ」
「誰にでぇ?」
「祖母です」
「良く出来た婆さんだね」
「亡くなりましたけどね」
「そりゃあ……」
「老いたものから死んでいく。それが自然の摂理だって笑っていました」
「笑って逝けたなら、その人にとっちゃあ良い人生だったんだろうね」
「はい」
3の鐘が鳴って、休憩室に行く。
「サクラちゃん、どうしたの?」
「どうもしないんですけど、ちょっと考え事です」
「考え事?」
「祈念所をお借りして良いですか?」
「構わんが、どうしたんじゃ?」
「何て言うんでしょう。落ち着かないっていうか、浮上しないと言うか……」
「前みたいに?」
「あぁ、それとは違います。変に沈み込んでるって言うか?」
「つまりは分からないけど、落ち着きたいのね?」
「はい。出来れば独りにしていただきたいんですが」
「分かった。好きなだけ使いなさい」
「ありがとうございます。でもそこまでかからない気もしますけど」
ルビーさんが付いてきてくれた。
「何があったの?」
「自分でも分からないんです」
「ふぅん」
「心配かけてすみません」
祈念所に入って、まずはお掃除。その後、深呼吸をして、お祈りの体勢を取った。
こんな風に祈るのは、駄目なのかもしれない。でもこの部屋が一番落ち着ける。
しばらく祈ってると、心が凪いできた。祈念所を出ると、ルビーさんとリディー様が居てくれた。
「もう良いの?」
「はい。たぶん」
「天使様、何を祈っておられますの?」
「元は大雪の時に助けられなかった命があるって知って、落ち込んじゃったんです。全てを救える訳じゃないのは分かってて、でも、救えなかった人が居たっていうのが苦しくて、最初はそんな人たちの魂が、ちゃんと魂の休息場で癒されてまた戻ってきてほしいって祈ってたんですけど、祈ってる内に、自分の心が凪いできた事に気が付いたんです。今もその方達の事は祈っていますけど、自分の為っていうのもあると思います」
「私そんな風に考えた事は、ありませんでしたわ」
「助けたいって思って、助ける事が出来ちゃったりするから、そんな風に思っちゃうのよね、サクラちゃんは」
「大和さんに良く言われるんですよ。『人は自分の手の届く範囲でしか助けられない。その範囲を見誤るな』って。『咲楽ちゃんの手は全員を救えるほど大きいのか?救えなかった事を嘆くより、救えたことを誇りなさい』って」
「厳しいお言葉ですのね」
「でも、優しいと思うわよ。下手に慰めるより、こっちの方がサクラちゃんを励ませるって分かっているんでしょ」
「黒き狼様は天使様を想っておられるんですのね」
リディー様の私達に対する感情のフィルターが、物凄く美化されてる気がする。
お昼休みが終わって、お昼からの診察が始まった。
4の鐘が鳴る少し前にユーフェさんが来院した。おじいさんが一緒に居る。先にローズさんの所に通されたらしくって、ローズさんが付いてきた。
「サクラちゃん、私じゃ無理だわ。お願いできる?」
「どんな症状なんですか?」
「サクラさん、祖父なんですけど、転んじゃって、父が起こしたんです。そしたら、手首と肩が痛いって言ってて。手首はローズさんが治してくれたんですけど、肩は無理だって」
「診せてください」
肩関節の変形と弾発性固定がみられる。脱臼してる、よね。スキャンで診たんだけど、周辺の筋肉損傷、骨折、神経組織の損傷は無し。完全脱臼だから整復は出来るけど。
問題は知識はあってやり方も分かっているけど、私自身が経験が無いと言うこと。頭の中で手順を確認しながら、なんとか整復した。
「肩が動く。痛みもない。天使様っていうのは凄いんじゃな」
「脱臼って言って、関節が外れちゃってたんです。今は治しましたけど、外れやすくなっている場合もありますから、気を付けてくださいね」
ユーフェさん達は帰っていった。
「さっきの脱臼ってどうやって治したの?」
「元の位置に納めただけですよ。周辺の筋肉損傷とか、骨折、神経組織の損傷も無かったですし」
「今回はユーフェさんのお祖父様だったけど、たまに冒険者が同じ症状で来てたりしたのよ。その時は所長に頼んでいたわね」
「その所長は?」
「来客中。たぶん騎士団対抗武技魔闘技会についてね」
「その時って、いつもどうしてるんですか?」
「救護室を作ってたわね。窓から武闘会は見る事が出来るし、特等席よ」
「特等席って、でも、王宮の練兵場でやるんですよね?あそこってすごく広かったと思うんですけど、水平方向でそんなに見えますか?」
「1階の部屋からは見えないわね」
「どうやって見てたんですか?」
「施術師控え室は、2階だから。外傷を治したら、大抵の人は寝ちゃうじゃない。私達は治しちゃったら、することがないのよね」
「そういえば王宮にも、施術師さんっていらっしゃるんですよね?私達は応援要請だって言ってましたし」
「施術師っていうか、王宮魔術師が兼ねているのよ。光属性持ちでも研究がしたいって、そっちに行く事が多いから」
「研究ですか?」
「あそこは魔物研究所と、魔道具開発室と、錬金術応用研究機関を纏めてるから」
「錬金術って」
「錬金術応用研究機関は車椅子とか、馬車とか、暖房器具とか、冷風器具とか、そういうのを応用して、いろんな便利道具を作ってるの。後は魔法薬とかね」
「魔法薬って?」
「食いついたわね。薬草とかを正規の手順を踏まないで……。あぁ、ライル様に聞いた方が早いわ」
ライルさんの所に連れていかれた。
「ライル様、魔法薬について、教えてあげてください。サクラちゃんったら、興味津々なんだもの。私じゃ説明しきれない気がします」
「魔法薬について?」
「魔法薬って錬金術を用いて、魔法で作っちゃうお薬で合ってますか?」
「魔力で作っちゃうんだよ。錬金術じゃない」
「あれ?」
「材料を纏めて、成分を分離させて、混ぜ合わせて薬を作る。錬金術って成分抽出とかを魔法でやってるのを、言い換えた物だからね」
「あれ?」
「すごい不思議そうね」
「あちらでは、卑金属から貴金属を精錬しようとする試みの事だったんです」
「無理でしょ、それ」
「成功してたの?」
「してません」
「カガクだっけ?それでも出来なかったの?」
「物質の改変って事ですから。極端に言っちゃうと木を金属に変えちゃうって無理ですよね」
「まぁねぇ。夢物語と言うか、荒唐無稽というか……」
「あ、でも物質の分子構造は分かってたりしました」
「ごめん。理解が出来ないわ」
「ジェイド嬢に同じく」
「物凄く簡単に言うと、物を小さく小さく分けていって、目で見えない位になったものを分子って言うんです」
「うん。理解出来ないことが分かった」
「魔法薬って作っている所を見てみたいです」
「材料に魔物の内臓とかあるけど、大丈夫?」
「はい」
ホラーは苦手だけど、スプラッタとかは平気なんだよね。病変部位とか、実習で見たし。ope中に、開腹した部位を見せてくれる先生もいたし。モニター越しだったけど。痛そうとか、思ってしまうけど。あの時は患者さんに何かの許可を取ってて、何だろうって思ったんだよね。後でその人に聞いたら「僕のお腹の中、どうだった?黒くなかった?」って笑われたんだっけ。
「変わってるわね」
「結構痛々しい怪我でも、シロヤマさんは平気で治してしまうしね」
「スラムの崩落現場とか、トレープールの怪我とか、平気だったわね。私は途中でダメだったわ」
「実習とかで見ましたしね」
「想像できないわ」
「救急実習で鍛えられました」
「シロヤマさんって見た目からは想像できないよね」
「何がですか?」
「中身」
「他の人と同じですよ?心臓が右にあったりする訳じゃありません」
「うん。意味が違うけどね」
ライルさんに呆れた感じで見られた。
5の鐘が鳴って、終業時間になった。
「サクラちゃん、今日は寄ってかないんだっけ?」
「ローズさんに渡したじゃないですか」
「光の日と、緑の日はいつも寄っていたから、つい聞いちゃったのよ」
「寄っていけば?送るよ?」
「家で馬車を出すわよ?」
「欲しいものはありますけど」
「決まりね。寄っていきましょ」
リディー様のお迎えの人は、この頃、ジェイド商会で待ってたりするんだよね。
ジェイド商会に行って、ケーキの型を買う。オーブンにも慣れてきたからシフォンケーキを焼きたい。シトラスピールも作る気だし。
シフォン型がなかったから職人さんに作って貰った。
「奇妙な形ですが、何にするんです?」
「ケーキを焼きます」
「はぁ。そうですか」
シフォンケーキって無いのかな?
ライルさんがこっそりと、『ケーキはこの前貰った四角いケーキくらいだよ』って教えてくれた。ローズさんに知られると、五月蝿いだろうからって。
なんと、ハンドル回転式の泡立て器があったから、それも買ってしまった。メレンゲを自力で作るのって、大変なんだもの。
ジェイド商会の馬車で送ってもらって、1人分のお夕食と明日の朝のスープを作る。
静かだ。静かなのは好きだったはずなんだけど、なんだか寂しい。時折鳴る窓にビクッとしてしまう。
ナツダイの皮を取り出して、シロップ煮を作る。透明になってきたら、火を止めて、冷ましておく。後は乾かしたらほぼ出来上がりなんだけど。
1つ味見。あ、美味しい。これならシフォンケーキに入れても良いと思う。
その後は刺繍もなにもする気が起きなくて、この日は早めにお風呂に入って寝てしまった。