ボタン
もし、あなたが核ミサイルの発射ボタンを手にしたら、あなたはどうしますか?
ひょんなことから、アメリカの核ミサイルの発射ボタン(らしきもの)を手に入れた、ごく普通の(ちょっと倫理観の欠如した)男子高校生三人。果たして彼らはどんな結論に至るのか。
それは、とてつもなく平和で、さりとて完全なる平和とは程遠い日の出来事だった。ここ日本では大きな事件も起きず、テロ警戒も行われておらず、流行病が蔓延しているということもない。けれど実際外交では、中東のテロリスト集団は相変わらず街を占拠し続けていたし、北アフリカで反政府ゲリラが侵攻プランを練っていた。日本政府だって関係の悪化したとある隣国の対応に追われ、アメリカの大統領はまさに武力を行使せんとSNSで呼びかけていた。まあそれでも、そのとある小国とアメリカが戦争になるのはまだ先の話だろうと海外メディアは予想していたし、まだミサイルがグアムに向けて飛ぶなんてこともなかった。
そんなまだどこか平和ボケした日本の、さりとて小さくはないとある都市の、そのまた普通の公立高校のある教室の窓辺で、三人の男子生徒がしゃべっていた。一人のメガネが反射してまぶしく輝くような、そんな清々しい朝だった。
「そういや、昨日手に入れたんだけどよ」
空いた窓の外の手すりに寄り掛かった、ひときわ背の高い生徒がポケットから何かを取り出す。
「なんだい、これは」
近くの座席に座った小柄な生徒が聞く。それは何かのボタンのような形をしていた。無骨なボタンの周囲は警戒色で四方を囲まれ、ボタンは赤く、映画に出てくる最終兵器のボタンみたいだ。
「ああ、なんかアメリカの核ミサイルってやつ? それの発射ボタンなんだとよ」
「それ、本物なの」
「それが発射ボタンがどうかはともかくとして、何かのスイッチなのは本当だよ」
それまで黙っていた、机に腰かけたメガネをかけた生徒が言う。
「見たところ、内部に電源と電波発信装置がついてそうだし、重さからしてもなにかはあるよ。それが何の電波なのかはわからないけど」
そう言ってメガネを左手で押し上げる。
「それよりそのボタンの出所は確かなのかい? だったら興味があるけれど」
「おう、いつも通り裏のネットオークションよ」
背の高い生徒が言う。
「いつも思うけど、それって犯罪なんじゃ」
「犯罪だよ。刑法第256条第2項、盗品等有償譲受罪に問われる恐れがある。その場合、10年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられるね。尤も、出所は確かじゃないし、罪に問われる可能性は低いけどね」
「ばれなきゃ犯罪じゃないってことよ」
そう言って背の高い生徒は笑った。
「それって本物なの?」
「知らねえ、2万ちょいだしな、偽物でもいいわ」
「確立としては本物の可能性は低いと思うよ」
小柄な生徒の問いに二人は別々の問いを返す。
「もしも本物だとしたらどういう仕組みなのか気になるかな。核のフットボールだとしたらもっとややこしいはずだし」
「おい、なんだそれ?」
「アメリカの核使用のシステムのことだよ。確か、黒いブリーフケースが本体じゃなかったかな。でも、大統領本人の確認のために国務長官の承認が必要なはずなんだけど、どうなってるんだろう」
メガネをかけた生徒が疑問気につぶやく。それを背の高い生徒は笑い飛ばした。
「知らねえ。その辺はうまいこといってるんじゃねえの。もう発射する段階まで指令が下りてるとかさ。誰も、大統領が指令を出すための装置だなんて言ってねえんだし」
ま、そもそも本物だとしたらの話だけどな、と付け足す。
「そうだよね、問題は、それが本物かどうかだよね」
「だったら確かめてみっか? それ」
そう言って小柄な生徒へとボタンを投げ渡す。ボタンを受け取った生徒は赤い部分に指をあてがった。
「あ、先に言っとくと、押しただけで罪に問われるかもしれないから」
メガネをかけた生徒の台詞に、小柄な生徒がぎくりとする。
「具体的には刑法第81条、外患誘致罪もしくは87条未遂罪だね。外国と通謀して日本に戦争を起こさせた罪だよ」
「な、なあ、具体的に聞くがその刑罰ってどれくらいなんだ」
焦った様子で背の高い生徒が聞く。メガネをかけた生徒は冷や汗一つ流すことなく答えた。
「81条は死刑だよ。まあ、年齢的に無期懲役になるけどさ。87条でも無期懲役か懲役15年は下らないだろうね」
「ま、まじかよ」
二人は汗をだらだらたらし始める。一方メガネをかけた生徒は涼しい顔のままだ。
「ね、ねえ。それって、これが偽物だったとしても問われるの?」
おどおどしながら小柄な少年が聞く。
「押したらね。当然でしょ。押したってことはミサイルを飛ばそうとする意志があったってことなんだし。冗談でした、てへ、では済まされないよね。結果的に偽物だったから飛ばなかったものの、それは結果論であってしようとしたことに変わりはないし。未必の故意で問われるね」
「な、なあその、未必の故意ってやつは何なんだ?」
「ああ、それ。未必の故意は、必ず思い通りの可能性にならなくてもなるかもしれないならいいや、ってこと。今の場合だと、これが本物でミサイルが飛ぶ可能性があるってわかっててやったってことだから、多分それで問われるね」
「ぼ、僕こなのいらないよ」
「俺だっているか、こんなもん」
二人の生徒が投げ合いを始める。それを見たメガネの生徒は溜息を吐いた。
「安心しなよ、二人とも。罪に問われる確率は低いからさ。考えてもみなよ。非核三原則を訴えるこの日本がアメリカの核ミサイルを飛ばすなんて、ふつうは思わないでしょ。それに、携帯の電波でもないのに位置なんか特定できないって。万が一特定されたとしても、そんなスイッチだって思いませんでしたッて白を切ればいいだけじゃん。それに言ったじゃん。ばれなきゃ犯罪じゃないって。そこまで怯えることないって。」
それを聞いた二人は安心する。投げ合っていたボタンが小柄な生徒の手元に戻った。
「そっか、それならよかった」
「まあ、私なら迷いなく押すけどね」
そこへメガネをかけた生徒が爆弾発言を投下する。
「おい、どういうことだ!」
「そうだよ! もし本物だったら人が死ぬんだよ!」
二人の叫びに、メガネをかけた生徒は飄々(ひょうひょう)とした態度で答える。
「いや、むしろ本物だったほうがいいかなって。今だったら向いてるのはロシアじゃないだろうし」
「そりゃよう、確かにあそこの国は腐ってるかもしれないだろうが、だからと言って核ミサイル放っていいわけねえぜ」
「そうだよ、あそこの国の人だって真っ当な人はいるよ」
そう言われてメガネを押し上げる。
「そもそもなんでそんなことを言うのさ」
小柄な生徒が問う。
「う~ん、なんて言ったらわかりやすいかな。そうだ、二人とも、トリアージって知ってる?」
迷ったような表情をして、少し考えた後、メガネをかけた生徒は言う。
「トリアージ? なんだそれ?」
「あれでしょ。なんだっけ、医療用語だったとは思うんだけど」
「トリアージってのは、フランス語で、選別って意味なんだけどね。大規模災害なんかが起きた時に出た患者の優先順位を決める方法なんだ」
「ああ、なんか聞いたことがあるぞ。赤、黄、緑の三色に分けるんだっけ」
メガネをかけた生徒のセリフに、背の高い生徒が反応する。
「正しくは黒も含めて四色なんだ。そして黒っていうのは、治療放棄、つまり死を表す」
二人が息を呑む。それを見たメガネをかけた生徒は息を吐いて続ける。
「勘違いしないでほしいのは、黒タグをつけられた患者は、その時点ではまだ死んでいるかはわからないってことなんだ。病院とかで、機材とか医師とかがたくさんいる場所で処置を受けられたら、助かる人だっている。いや、病院とかじゃなくても、時間をかければ助かるかもね」
「ならなんで助けないの」
小柄な生徒が不満そうに言う。それをメガネをかけた生徒は鼻で笑った。
「時間がないからだよ。現場では、機材も医師も何もかも足りない。そんな中で黒タグの人を救おうと思ったら大変な量のそれらを要する。そしてそんな時間があったら複数の赤タグの人を助けられるんだ。逆に黒タグの人を助けようとしたら。その間に赤タグの人が何人も犠牲になっちゃう。今の災害医療は救った人数の数だからね、そうなるのはどうしようもないことさ」
そう言いながらも、メガネをかけた生徒は顔色一つ変えなかった。
「そんなのって、そんなのってないよ。死んだ人にも家族とかがいたかもしれないのに」
沈痛な顔をして小柄な少年が呟く。
「仕方ねえだろ、ほかの患者にだって家族はいるんだ。命の重さは変わりゃしねえ。だったら数を優先すべきだってのはわかる。納得できねえけどな」
背の高い生徒が吐き捨てるように言う。
「その通りだよ。人類が有史以前から悩んでいる問題さ。その気になったらトロッコ問題で検索かけてみるといいよ。あとは臓器くじとか、冷たい方程式とか、カンビュセスの籤とかかな。カルネアデスの舟板はちょっと違うけど。でも読んでみなよ。面白いから」
そう淡々と言ってのけたメガネをかけた生徒は、カバンから水筒を取り出して口に含んだ。
「話題がそれたね。結局私が言いたかったのは、分けられるパイは有限だってこと。それをわざわざ悪人に与える必要はないよね。ほかに必要としてる人がいるんだから。それを国際社会に当てはめるとほら。今だってアフリカだったりほかの発展途上国に助けを必要としている人たちが大勢いる。それこそあの国の人口の数十倍の人たちがね。今、あの国の対策に回している予算、人材とかを、日本、アメリカ、国連などがその支援に回せたら、いったいいくらの命が助かるだろうね? 私には想像もつかないよ。でも、あの国は明らかにほかの国に喧嘩を売ってる。プロパガンダとかじゃなくて、実際に。そんな国、救う必要ある? そんな悪人に与えるだけのパイはないよ。そりゃ、力なき正義は無力、正義なき力は暴力って言葉もあるよ。正義のために力をつけてるんだって主張してる。でもね、アメリカに追従するっていう選択肢もあったはずなんだ。なのに、あの国はその道を自ら蹴った。ほら、力なき正義は無力だよ。だからあの国は悪の枢軸だって呼ばれる。そして私はそんな国にはパイを与えずにミサイルをくれてやればいいと思うな」
そこで息を切って再び水筒を口に含む。
「ちょっと、それ、いくら何でも暴論じゃない」
「いや、わからんでもないぜ」
小柄な生徒が突っかかるが、背の高い生徒に押さえつけられる。
「その分ほかの人間の命が救えるからっていうことだろ。命の数だけ考えればそれは正しいんだろうな。実際俺もあんな国滅べばいいと思う」
背の高い生徒が言う。でも、それに納得できないと言ったように背の低い生徒は叫んだ。
「だからって核ミサイルを撃ち込まなくてもいいじゃないか! あの国が酷い国だからって、いい人もたくさんいるんだよ!」
「それは俺も同感だ。皆殺しにするのはやりすぎだと思うぞ」
二人の台詞に、メガネをかけた生徒は淡々と左手でメガネを持ち上げて答えた。
「まあね、これ以降は君たちには理解できるとは思ってないよ。だから、ただの戯言だと思って聞いてくれて構わない。それでなんだけど」
そこまで言ってメガネをかけた生徒は水筒を口に含む。
「例えば、君が医者で、二人の患者が運ばれてきたとしよう。二人とも似た容体で、同じサラリーマンで、似たような家族構成だったとしたら? その上で、時間的に一人しか救えないとしたら、君はどっちを選ぶ?」
「どっちって、どっちも選べないよ」
小柄な生徒が言う。
「そうだね、どちらにも見捨てる理由はない。でも、どちらかを見捨てなきゃならない。そういうことだよ。私だったら先に運ばれて来たほうを助けるかな。それしか選ぶ理由がないから。でも、それって後から運ばれて来た人にとっては不運だよね」
「不運だった、か」
背の高い生徒の呟きに、メガネをかけた生徒は鋭く反応する。
「そう、不運だった。それだけの理由で人が死ぬんだよ。今日も全国で、事故だったりほかの何かだったりで人が死んでる。それも、不運だったっていうそれだけの理由で。人の命ってその程度のものなんだよ。本人からしたらたまったもんじゃないけど、他の人からしたら不運の一言で終わっちゃう」
それを聞いた二人は神妙な顔つきをして下を向いた。
「あるいは視野をグローバルにしてみようか。今も中東のテロリストたちに何万人もの人たちが殺されたり、監禁されたりしてる。被害を受けてる人ならもっと多いだろうね。でもそれは、そこで生まれ育ったからで、本人たちが何かしたわけじゃない。ただ運が悪かっただけなんだよ」
「でもそれって酷くない!」
小柄な生徒が叫ぶ。けれどメガネをかけた生徒はどこ吹く風だ。
「じゃあ、その場所に自分を置いて考えてみなよ。耐えられないでしょう? そういうことなんだよ。私たちにとって彼らは、運の悪かった人々でしかない。募金程度のことはしても、その場にいるなんて耐えられない。ああ、悪く言ってるんじゃないよ。ただ、私たち人間は知らない顔をしたがるっていうのと、そこにいた人たちは不運だったって言いたいだけだ」
「でも!」
「じゃあ!」
なおも食い下がる小柄な生徒に、メガネをかけた生徒が叫ぶ。そして水筒を口に含んで言った。
「極論、あの国が核ミサイルをこの都市に落としたらどうする気? それだってありえないわけじゃないでしょ。まずアラームが鳴る。そこから4分も経てば、大爆発だ。逃げる時間なんてない。それは、あらかじめほかの場所にいても、そこに核ミサイルが降ってくるかもしれない。どうなったところで、発射した時点で私たちは死ぬ。それはここにいたからであってそれ以外の理由じゃない。ただ、運が悪かっただけ。それで私たちは死ぬんだよ」
そう言われて、小柄な生徒は俯いて黙ってしまう。
「悪いね、まあ、これは私の考えであって別に君の考えを否定したいわけじゃないから。で、私が何を言いたいのかというと、北朝鮮に生まれた人は不運でしたねってそれだけ。そう割り切っちゃえばいいじゃんっていう話ね」
そう言って、メガネをかけていた生徒は手に持った水筒を置いた。
「お前の考えは理解はした。だが納得できねえ」
「納得はしないでいいよ。これは私個人の考えであって君たちに無理強いする気はないから」
背の高い生徒の台詞にメガネをかけた生徒は淡々と返す。
「だから、私はボタンを押すよ。あくまでも私個人の裁量でね。もちろん背負うべき責任も私一人で背負う。なんだったら私一人を戦犯にして、他の人を助ければいいんだから」
「おい、本気か!」
「私は本気だよ。まあ、君たちとは相容れないかもしれないけどね。君たちとは考え方が根本から違うからさ」
そう言ってメガネをかけた生徒はボタンを小柄な少年の手から奪う。
「まあ、これが本物とも限らないけど」
「な?」
「え?」
そう言っている間に、メガネをかけた生徒は、ボタンを奥深くまで押し込んだ。
その日、ミサイルが空を飛んだかは、誰も知らない。
この小説は現実に存在する団体等を参考にしていますが、現実とは一切関係ありません。また、この小説は戦争を奨励するものでは決してありません。
『ボタン』をお読みいただき、ありがとうございました。