第一話「日常と幸福①」
マンツーマン数学塾を開始してから、かれこれ約一時間が経過しようとしていた。
暖かな春の日差しも、段々と肌寒さを感じる夕暮れ時を迎えようとしている。
俺は、教わっている立場ではあるが、正直そろそろ飽きてきた。
集中力の限界ってやつだ。
なので、両手の人差し指と親指をそれぞれ逆に合わせて、長方形を作り『夕日をバックにさくらを収める』と言う、手遊びをしてみた。
「――だから、この問題には、この公式を当てはめて、ほら解けたでしょ……って何してるの?」
「ん? 夕暮れ時の教室と黒髪制服女子って凄く絵になるなあ、と」
「はいはい。そう言うのは良いから勉強しましょうねー」
軽く流されてしまった。
「さくらは、お堅いなー。たまにはこう息抜きをだなー」
「夏樹は、息抜きしすぎよ。後、気を抜いているから赤点なんて取るのよ」
「すみません。返す言葉もありません」
「本当に申し訳ないと思っているなら、最後の一問、頑張ろ?」
「はい! 春日井先生!」
普段はそうでもないが、時々さくらが天使に見える時がある。
何故こんなダメダメな俺の面倒を断る事無く見てくれるのだろう?
まあ、自覚があるなら直せ! と、怒られそうだが、直そうと思ってすぐ直るもんじゃないし……
確かに『幼馴染』であり『腐れ縁』ではあるけど、絶対見捨てちゃいけない法律がある訳でもないし。
ま、実際見捨てられたら超困るんだけどね、俺。
……もう少し、頑張ろう。
「この問題ってこっちの公式を使うんだったよな?」
「そうそう。それでXに解を代入って……あ、ごめん。自力で解かなきゃね!」
「おう! 任せとけ!」
「うん!」
俺は、四苦八苦しながら、苦手な数学の問題を少しずつ解いて行き、ようやっと――
「終わったー!」
「お疲れ様。やっぱり夏樹はやれば出来るタイプなんだから、やらなきゃ損だよ?」
「そうか? さくらの教え方が上手いのと、俺に対する献身的な態度の賜物だと思うんだが」
「そう? 私、夏樹に対して献身的かな?」
「自覚無しですか」
「なら、今後は、もう少し厳しく行こうかな」
「俺、褒められて伸びるタイプなんで、方針はそのままでお願いします」
「ふふふ」
「ははは」
計らずも、お互いから同時にこぼれる笑い声。
これが、俺『一宮夏樹』の平和で平凡な日常。
そんな、なにげない日々が今日までずっと続いて来た様に、明日以降もずっと続いて行くんだろう。
とても漠然としていて、何の確証も、保障もないのに、それを疑う心は、その時の俺には、なかった……。