いつだって誰かを求めてた
ゲホッ、ゲホゲホ、苦しそうな咳き込む音がして、次にはビチャビチャと嫌な水音がした。
脱衣所の洗面台を抱え込むようにして、膝を折り曲げる男が、ゴホッ、とまた咳き込む。
食道やら喉やらが焼ける感触を甘んじて受け入れる男は、ぐったりと洗面台の縁を掴んで項垂れる。
男は独り暮らしだった。
それなりに長い年月、実家を出て独りで生活していたが、限界はもっと昔に来ていたはずだ。
ゆっくりと流れていく吐瀉物には、まともな固形物が存在しなかった。
それは、男がまともな食事をしていない証拠でもある。
「オェ、ッ」
胃の中は既に、と言うか、吐き出すよりも前から空っぽだった。
男が体調を崩すのは初めてではなく、独り暮らしを始めてから定期的にそれは訪れる。
だからこそ男は思うのだ。
「苦しい」と弱音を言って、何か、何でもいい、返事をくれる誰かがいれば、気も紛れるはず、と。
溢れ返る胃液を吐き出した男は、上手く回らない頭のまま、ゼェハァと呼吸を整え始める。
口内に感じる酸っぱい唾液が、ゆっくりと洗面台へと落ちていくのを見ていると、輪郭のない声が聞こえた気がした。
「ねぇ、ねぇ。全部出した?大丈夫?」
具合が悪いことによる、幻聴だと、男はそう思ったが、その声は徐々に鮮明になる。
そして、背中をスリスリと撫でる温かな体温を感じで、幻聴ではないと理解した。
柔らかな声の主は、女だ。
胃液の付いた唇を拭うこともせずに顔を上げた男が見たのは、自分の背中に手を当ててこちらを覗き込む見慣れた女の姿だ。
男が金メッキと呼ぶ女自身の手で染められた金髪は、蛍光灯の光に当てられてギラギラと光る。
「凄い顔だね」
ギラギラ光る横髪を耳に引っ掛けた女が、小さく笑いながら、壁掛けタイプになっていたタオルを抜き取り、男の口元を拭う。
柔軟剤の匂いがするタオルで口元を拭った女は、それを脱衣カゴに入れ、自身の顔を見詰める男を見た。
先程から表情が変わらずに、ポカンと見開かれた目と口が何とも言えない間抜け面だ。
しかし、女は緩く笑い、上着のポケットから何処かのご当地キャラがぶら下がった鍵を出す。
それは正真正銘、男の家の、合鍵だ。
「口、濯ぎなよ」
そう言った女が、置いてあるカップに手を伸ばした時、男の手がそれを止める。
膝を折り曲げ、床に付けていても、元々の身長が高く、それでも女の腹と胸元の中央に頭があった。
僅かに下にある顔を見る女と、それを見上げる男。
「本当に大じょ」
うぶ、と続けようとしたはずの言葉は霧散して、消えていく。
掴まれた腕を引っ張られ、女の体は男の方へと傾くが、男が支えるために動くはずもない。
目を見開いた女と、目を閉じた男。
逆だ、女が思う。
ふにりとぶつかった唇は、先程拭ったものの胃液まみれだったものだ。
もっと言えば、口を濯いでいないので口内は胃液が残っている。
酸特有の酸っぱい匂いに、女が眉を寄せたところで、男の手がゆっくりと離れて、それに合わせるように顔も下げられた。
目を開いた男に対して、今度は女が目を閉じる。
「……大分具合悪いんだね」
溜息混じり吐き出された言葉と、差し出された手の平。
男は「そうだな」とか細い声で答え、その手を掴む。
自分の手の平よりも、小さく白く柔らかく体温の低い手の平だった。
「苦しい」
「だから口濯いで、寝なってば」
絡めとるように手を握られた女の言葉に、男は弱々しく笑って見せた。