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いきなり描けと言われても、何も出てこない。絵画の宿題のテーマは、「夏休みの思い出」だった。
思い出、といわれても、あまりぴんとくるものがなかった。ただただ悶々として、ひたすらビスケットを食べていると、
「おい、貴様。手が止まっているぞ」
と、青年に言われてしまった。彼は今、私に背を向けて、さっきの絵の続きを描いていた。深い青色の絵の具を、次々にキャンバスに乗せていた。
「描く絵は、どうやって決めてるんですか」
私がそう尋ねると、即座に青年は答えた。
「描けといわれたから描いている。俺が決めたわけじゃない」
そうして、一枚の写真を私に見せた。
「イタリアの写真だ。俺は、これを見て描いている」
確かに、そこには、青年が書いている絵そのままの景色が写っていた。
「じゃあ、イタリアに行ったことはないんですか?」
「当たり前だ。俺は外国になんぞ行ったことがない。飛行機なんて、御免だ」
「それじゃあ、見たこともない景色を描いているんですか」
青年は、少し考え込んだ後に、こう言った。
「見たこともない、というのはどうかと思うぞ。俺はちゃんと写真を見ている。そして、イタリアがどんな国かも知っている。なら、ちゃんと描ける」
「……そういう、ものですか」
私の答えに青年はそうだと頷いた。そうして、少しの沈黙が訪れた後、青年は静かに口を開いた。
「まあ、見てなくても描けるものもあるがな。ほれ、あれを見てみろ」
そう言って、青年が刺したのは、壁にかかる一枚の絵だった。
「あれは、何だと思う」
真っ黒な闇を後ろに、白い羽を大きく開いた天使が、こちらに向かって微笑んでいる絵だった。
「天使……、ですか?」
「そうだ。貴様、天使を見たことはあるか」
私は首を大きく横に振って、ないです、と言った。
「そうだろう。俺も見たことがない。だが、描ける。なぜだと思う」
私は首を捻った。うまい返答が見つからなかった。
私がずっと黙っていると、青年はこちらを振り返り、私の目を見て、
「それはな、見たことがあるからだ」
と、言った。
ますます混乱した。小学生の私にとって、この矛盾は難題だった。
「わからないだろう。だが、簡単なことだ。翼を広げたのだ」
さらに意味がわからなかった。青年は続けた。
「目を瞑り、想像の翼を広げて、天使の元まで行ったのだ」
なんとなく、分かったような気がした。ようは、想像すればいいと言っているのだ。
「ただし、だな、これには必要なことがある」
青年は私の目をじっと見つめ、厳かに口を開いた。
「自分を、その景色の中に入れるのだ」
「自分を、入れる?」
「そうだ。実在のものも、空想のものも同じだ。自分をできるだけ、その景色の状況に近づけるのだ」
たとえば、と、青年は、イタリアの絵を指差した。
「俺は、この絵を描くために、大好きなバタースコッチを貴様に譲った。しかも、ここ連日、食事はパスタとピザだけだ」
「はあ」
「旨いのは確かなんだが、だんだんと白米が食いたくなってくる」
言い終わると、青年は、天使の絵に目線を向けた。
「そして、この天使の絵だ。この絵を描いたとき、俺は一切食事を取らなかった。天使は下界のものを口にしないらしいからな」
壮絶だった。私には、とてもできないと思った。
私は、もう一枚、バタースコッチに手を伸ばした。もぐもぐと食べながら、すこし考えていると、
「あっ」
ひとつ、分かったことがあった。
「どうした」
青年は、再び絵に向かい始めていた。
「私は、イギリスの絵なら描けるんですね」
私は目を瞑り、しとしとと続く雨音に耳を澄ませた。
「イギリスと同じ雨の日で、胃袋には、バタースコッチが入ってます」
まぶたの裏に、ひとつの景色が浮かぶ。雨が降りしきる中、暖かな家の中で、バタースコッチを焼くお母さんと、それを待つ女の子の絵。
私がようやく筆を取り始めると、青年は、ふっと笑って、
「まあ、好きに描くが良い。自由は、あるうちに使うのだ」
と言うと、自分の絵に取りかかっていった。




