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再び目を覚ましたとき、私はふかふかのベッドの上にいた。どうやら洋館の一室に寝かされていたらしい。部屋にはたくさんの絵画が飾られていて、まるで美術館に迷い込んだかのようだ。
どこか遠くで雨音が静かに響いていた。部屋の中央には描きかけのキャンバスが置かれていた。
「貴様……」
部屋の中をぼぅっと眺めていると、突然上から低い声が降ってきた。驚いて見上げると、思いの外綺麗な顔立ちの青年が、絵の具で汚れたエプロンを着けて、私の顔を覗き込んでいた。
「は、はいっ」
私が無理矢理声を絞り出して返事をすると、青年は一度深く頷いた。すると、エプロンから可愛い缶を取り出して、愛想のない声で、
「バタースコッチを食うか」
と、言った。
“ばたーすこっち ”が何をさしているのかがよく分からなかったので、私は首を傾げた。
「貴様、バタースコッチを知らぬのか」
青年は、呆れたようにそう言うと、描きかけのキャンバスを私の目の前に持ってきた。
「俺は今、この絵を描いている」
そう言って青年が差し出した絵には、紅の屋根が美しい家々と、突き抜けるように青い空が描かれていた。
「イタリアの町並みだ」
「い、いたりあ」
名前だけは何処か聞いた事があったけれど、よく知らなかった。
「そうだ。パスタなら食ったことがあるだろう。そのふるさとだ」
「ふ、ふるさと」
ふっ、と青年が笑った。
「さっきから貴様はオウム返しばかりだ。もっと面白い返事をしろ」
「お、おもしろい……」
「ほら、まただ。……まあ、それはどうでもいい。俺はバタースコッチの話をしているんだ」
そうだそうだと一人で呟いてから、青年は缶の蓋を私に見せた。
「この旗が何処の国か分かるか」
赤、青、白のクロスが重なった柄だった。これなら覚えがあった。
「い、イギリス」
「そうだ、イギリスだ。よく知っているな」
「は、はあ……」
全く話が見えなかった。
「『バタースコッチ』のふるさとは、イギリスだ。ほら、見てみろ」
青年が缶を開けると、その中から、甘い香りが漂ってきた。
「正確には、『バタースコッチのビスケット』と言うべきだが……。食うか?」
青年が差し出したビスケットを、恐る恐る受け取って、口へと運ぶ。
「旨いか?」
その言葉に私は夢中で頷いた。口の中に広がる芳醇なバターの香り。ほろほろとした食感の生地はもちろんのこと、その中から突如現れるキャラメルより香ばしく、かりかりとした粒が、段々と蕩けていくのを、美味と言わずになんと言えただろうか。
「旨いだろう、旨いに決まってる」
私はもう一度深く頷いた。けれど、青年は私を見て少し渋い顔をした。
「だが、今の俺はこれが食えんのだ」
「どうして?」
私がそう尋ねると、青年は大まじめに言った。
「貴様、イギリスという国がどんな国か知っているか」
私は首をぷるぷると横に振った。
「うむ。なら説明する。イギリスは、一年中曇天の、じめじめしたところだ」
「はあ」
「対するイタリアは、地中海の気候で、安定した気候だ」
「そ、そうですか」
「そうだ。ここでだ、貴様、よく考えてみろ。貴様は、水の中で本当の太陽が描けるか」
青年の言葉は難解だった。
「……水の中じゃ、息が出来ないから、絵は描けない、です」
私の答えに、青年はむぅ、と口をゆがめた。
「じゃあ、悪寒がするときに、暖かい場所の絵が描けるか」
青年の言葉の意味をよく想像してみた。そして、こう答えた。
「……そんなときは、絵を描くより、寝ます」
私の返事を聞くと、青年は困惑したように、
「……貴様、頭が良いな」
と、ぼそりと言った。
「まあ、つまりだな。胃の中に湿った国のものを入れてちゃ、俺はイタリアの絵を描けんということだ。だから、全部食え」
そう言って青年は私に缶を差し出した。
「い、いいんですか」
缶の中には、たくさんのクッキーが詰め込まれていた。
「ああ、いい。それに、貴様、傘がないんだろう」
ぎくりとして、私が背筋をぴんと伸ばすと、青年は、かすかにほほ笑んだ。
「雨が止むまで、ここにいるがよい。暇なら、その辺の絵の具で遊んでおけ。貴様の画用紙、白紙ではないか」
そう言われてはっと気が付いた。床の上に、私の荷物が散乱していた。
「乾かしておいた。感謝しろ」
青年は、そう言うと、まっさらな画用紙と絵の具を私に差し出した。
「描くなら描け。描かぬなら……、まあ、食え」