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第一章 《アーリア・ワールド》

勇者でも魔王でもない主人公はなんだろうと考えたら、バグというものが浮かんできました。お読みいただけると非常に幸いです!(´Д` ) 小説家になろうは初めてですが、どうぞよろしくお願いします!

 --仮想現実世界[夜時間・ミース帝国城下町@港地区]


 港は昏くよどんだ黒い海水を抱え込んでいた。桟橋付近に停泊する船はなく、波止場はぽつぽつと等間隔に並ぶ篝火のさびしい明かりを受けて静まっている。と、どこからともなく旋風が吹き、東から西へと続く篝火の火をたちどころに消してしまう。もはや海との境目すらも判別できなくなった暗き港。そこへ、建物の脇から人影が現れた。数はひとつではない。あちらこちらの物陰から、まるで火が消えるのを待ちわびていた小獣のように、わらわらと集まり、あっというまに大きな輪を描く。十人ほどだろうか。誰もが黒いフードで顔を隠し、時々その隙間から隣の人間の顔を伺いつつ、押し黙っている。なにか後ろめたさがあるのか、誰もが猫背だった。

「諸君、まずは集まってくれたことに感謝を述べる」

と重々しい男性の声が沈黙を押し分けて響いた。口を開いたのは、海に背を向けて立つ人物だった。場にわずかなざわめきが生まれ、その人物に視線が集まる。

「所詮、リアル・ヴァーチャルって言ったってゲームの世界だ。好き勝手暴れてやろう。我々はいつも真面目に生きてるんだ、この仮想現実でくらい、ルールを乱してもいいんだ。そうだろう!」

 男が拳を掲げると、賛同と賞賛の声があちこちから輪の沸き上がった。

「そうだ、その通りだ!」「会社で疲れてんだ、こっちはよ!」「そのくらい許してもらおうや!」「今度娘が彼氏連れてくるって……」「たまには、はめをはずしてもいいよな!」「ゲームくらい好きにさせろ! こっちは現実じゃ借金まみれだ!」などなど身勝手きわまりない喚き声があちこちであがるなか、最初の発言者である男は、それらを手を挙げて制した。

「我々はこれより、この仮想現実ゲーム《アーリア・ワールド》に大規模チートを行う」

 円を作る者たちの生唾を飲み込む音が重なる。あるものは手がふるえ、ある者は武者震いを沈めるためか握り拳を固めた。

「例の報告を頼む」

 男は言いつつ、隣に顔を向けた。水を向けられた隣の男性はうなずくと、口元にいかにも悪そうな笑みを浮かべてみせた。あまりに悪者っぽすぎて、群衆は少し引いた。悪そうな笑顔の男が目の前に手をかざし、横に滑らせると、この場に不似合いな空色をした半透明のウィンドウが出現する。

「今から諸君と共有するのは、昨晩のアップデート直後、私が見つけたアンチチートプログラムの欠陥箇所を示したものだ。見ればわかるが、前のバージョンでは対応されていたはずの、武器増殖に関するメモリ改竄へのアンチプログラムが消えている」

 自身に届いたファイルをウィンドウで確認しつつ、

「これってつまり……」

 群衆の一人が歓喜するような声を上げる。浮き足だった空気は伝播し、輪のなかに浮ついたざわめきが満ちた。

 最初の発言者が手を高く掲げ、叫んだ。

「そうだ! 今こそ、我らの前に散っていった先人チーターたちの屈辱をはらすのだ! そして、思う存分、高レア度武器で戦場に乗り込み、思う存分『俺つえええ!』を満喫しようではないか!」

「「うおおおおおおお!!」」

 港は歓声に震えた。誰もが肩を組み合い、抱き合い、喝采を叫んだ。「これで魔王軍の廃人どもに舐められずに済むわ!」「また、闘技場のランカーになれるよな! な!」「おっしゃあ、新参狩りにも熱が入るぜ!」「この高レア武器、リアルで売りさばいてもええんか?」「それはさすがにちょっと……」「これで娘も見直してくれる!」

 明るい顔になり、幾分猫背も解消され、黒い人影たちは今にも踊り始めんとする熱気に包まれていた。

 ぽっ、と。

 輪の中央に、赤い火の玉が浮かんだ。

 そのたばこの火先程度のか弱い発光体に気づいたのは、誰が最初だったか。爆発。瞬きのうちに火の玉は巨大に膨れ上がり、膨張する紅蓮の閃光は恐怖にひきつる顔共々、群衆の体を遠くへと吹き飛ばしていた。

「うっぐ……」

 起きあがった一人の男の目の前に、銀色の刃が差し出される。フードを失った顔をあげると、帝国軍のゲームマスターである証ののっぺらぼうの仮面が彼を見下ろしていた。未だ燃え盛る残り火の明かりを受けて、白い仮面の表面がゆがんで見える。見ているだけで生気が失せていくようなその顔は、悪徳プレイヤーに恐怖を植え付ける《眼球なき正義の視線》。曇る眼がなければ、悪即斬の精神は朽ちないという話だが、ただ単に運営側なので個性を与えないようにした結果である。無論、プレイヤーたちに潜在的な恐怖を与えているのは言うまでもない。

「たっ、たすけてえ!」

 逃げる男の背に、白い光が走り、男はその場に倒れ伏した。港のあちらこちらで同じように、黒いフードの男たちはゲームマスターたちに狩られていた。剣撃に裂かれ、魔術に縛られ、弓に貫かれ……。鎮静されてみれば、さきほどまでの熱気はどこへやら、影共は地面に磔にされて意気消沈の表情をしていた。

「上からパトロール命令が出ていたから、カモフラージュ率の高いエリアを警戒していたらこれだ」

 ゲームマスターのうち、刀を鞘に納めた者が、ウィンドウを開きながら呟いた。若い女性の声、かつ研ぎ澄まされた強い意志を聞くものに感じさせる声だった。仮面の女性はウィンドウから通話コマンドを実行し、小さく携帯電話のように折り畳んだウィンドウを耳元に当てた。

「私です。仰せの通り、契約違反集団を捕らえました。これから王城地下に運び、朝まで運営陣のお説教と反省文千キロバイトとアカウント停止処分を受けてもらいます。手抜かりはなかったでしょうか?」

 彼女の周りに、涙顔のチーターを担いだゲームマスター一行が集まり始める。

『おっけー、おっけー、カメラ越しでもよく見えるよ。よくやったアザカちゃん。炎を使わせたら右に出る奴はいないね。さっすが罪火のアザカちゃん』

 ウィンドウの向こうから、明るい女児の声が響いて聞こえた。声質からして、小学生高学年くらいだろうか。仮面の女性は、気分を悪くしたように、声を低くして応答する。

「あの、室長、ゲーム上では本名で呼ばないでください」

『いいじゃんいいじゃん。あ、そうだ、ほかの子たちもありがとね。明日もあるだろうし、早く地上に帰って寝ようね』

「優しいお言葉、痛み入ります」

 深々と腰を曲げるアザカと呼ばれた女性。

『たはー。かったいねえ、アザカちゃんは。もっとかるーく構えないと、やってらんないよ、こんな仕事』

「ですからアザカちゃんと呼ばないでください」

 びしっと背筋を正して、のっぺらぼうの仮面が中空に浮いたカメラを見つめる。背後のゲームマスターたちは、すでに港から去ろうとしていた。

「しかし、今回も情報が早かったですね」

『ん? なにがー?』

 女児の声は眠そうだった。

「バグの発見ですよ。数いるチーター集団と、ほぼ同時にプログラムの穴を発見ですか。たった一人なのでしょう、そのゲームテスターは」

『そう、すごいよね。しかもその人、これだけじゃなくてあと八個くらい、でっかいバグを見つけてるんだってさー』

「まだ二十四時間しか経っていませんよ」

 驚きのあまり、女性の声が、わずかにうわずった。彼女の声を聞きなれている者にしかわからない程度だったが。

『にゃーんとも、神業っていうのはこういうのを言うんだね』

「どんな人物なのでしょうか……」

 思案げに顎に手を添える。

『お? アザカちゃんが他人に興味を持つなんて、珍しい。テスターさんが男の子だったらいいね、彼氏ゲットのチャンス?』

「別に興味なんてありませんしアザカちゃんと呼ばないでください、それに異性と交際するなんて不埒で無軌道な行為、私は……」

 早口でまくしたてるも、通話は切れていた。深いため息をつき、女性は大剣と男の体を担ぎ、仲間たちの後を追った。


 *


 ゲームマスターたちが港を去っていく。その後ろ姿をモニター越しに眺める女児がいた。薄暗い部屋のなか、唯一の明かりを放つモニターを見つめる女児は、眼鏡をかけ、白衣に身を包み、いかにも研究者然としている。

「ほんとに、どんな奴なんだろうねえ……」

 ため息といっしょにそんな言葉をこぼすと、女児はモニターの電源を落とす。部屋は闇に包まれた。

 それから、ぱちん、と指を弾く音がして、部屋中のモニターが真っ赤に発光した。モニターの中には、赤い背景に大量のエラーメッセージが流れていく。

 モニターの前の少女は、わずかに微笑んだ。

「じゃ、姿を現してもらいましょっか。最強のテスターさん」


1.《アーリア・ワールド》


 真っ白い世界のなかに、幼い女の子が座っていた。女の子は、夢を見ている主に向けて、なにかを語りかけている。どうして? と口を動かす。「どうして、そんなに戦っているの?」主が覚醒に向かうにつれて、女の子の姿はかすんでいく。声も、ゆっくりと遠ざかっていく……。

 

 椅子の上で目が覚めると、キーボードを抱え込んで寝ていた。よだれが「Fは」と「Gき」の隙間に垂れているのを見つけて、あわてて服の裾で拭う。パソコンのディスプレイ右下にある時計をみれば、月曜日の朝七時。晒未十郎さらみ じゅうろうはカーテンの隙間から差し込む朝日を受けて、重いまぶたをしばたたかせた。ディスプレイにはゲームの画面とテキストエディタが開かれており、首にかけたヘッドフォンからは延々と戦闘シーンの音楽が繰り返されていた。

「あー、寝すぎた……これは明らかに遅刻だわ……今から三度寝したら、確実に間に合わん……」

 とういうわけで寝ます、と誰に対しての報告か自分でもわからぬまま、また机の上につっぷした。もともと体が柔らかい体質なので、どんなところでも場所を選ばずに寝床にできた。毎日遅くまでパソコンに向かっていなくてはならない身としては重宝する特性だ、と少し誇らしかった。

「十郎くーん」

 女の子の声が背後から聞こえた気がしたが、気にせず眠りに落ちていく。

「ああ、古きよき8ビットの御三家ゲーム機方々ではありませんか、もう骨董品クラスですけど……」

「十郎くん」

 柔らかな夢に包まれていく。具体的には、コントローラーのケーブルに肢体を絡めとられていく夢だ。

「なんと、幻のバーチャルボーイをくださるなんてありがたや……ああ、でもたいしておもしろくない」

「十郎!!」

「ぁいっ!」

 耳元で誰かに叫ばれ、十郎は飛び上がった。耳の奥がじんじんと痛む。振り返ると、柔らかい栗色の髪の女の子が制服を着込んでベッドの上に正座していた。椅子からベッドまでは一メートルほど離れている。女の子は丸く大きな瞳で十郎をにらみ付けている。視線を下に下げると、太股の上で拳を握っているのが見えた。

 隣に住む幼なじみの朝倉雫だった。

「何度呼べば起きるの、もう学校に行く時間でしょう!」

「なんだ、雫か。朝から小うるさいな……」

「なんだじゃないでしょ、やっと起きたわね! またゲームやって徹夜なんて……ほんとに学ばないんだから。始業式から遅刻なんて、今年こそ本当に留年しちゃうんだからね! はやくシャワー浴びちゃいなさい!」

 大声でまくし立てられる。鼓膜を破かれそうになって眠りから覚めない人間いないし、激怒しない人間もいないことをキーボードの角で学ばせてやろうかと思ったが、そんな気力もなく、「へいへい」と従って服を脱いだ。

「ほんとに、お母様が毎朝苦労してたわけね。出張の間、お隣の私に頼んでくれてほんとよかったわ、毎朝ドアの前で待たされるかと思うとってなんで脱いでるの!? 服着なさいよ、女の子の前なのよ!? きゃあ!」

 きゃあ! と同時に手近にあったゲームソフトを十郎に投げつけているのだからかわいげがない。眠い目をこすりつつ、十郎はソフトを受け止め、脱いだ服を足に引きずってシャワールームに向かう。

「うるさいな、さっさと準備しろって言ったのは雫だろ」

「常識ってものがないの!?」

 ドアを閉じ、シャワーを浴び始めると、水が床を叩く音で声はかき消される。

「ちょっと、こんな汚いもの目の前に置いてかないでよお……」

 その弱々しい声だけはしっかりと聞いてほくそ笑む十郎だった。


 通学路には桜が咲き誇っていた。春一番の風のなか、満開の花びらが散り、校門までの道のりを桃色に染めている。新入生たちの顔はいずれも華やぎ、これからの新生活に向けての希望に満ちあふれていた。学校からはピアノの伴奏を練習する音が流れてきて、青空の下、光輝く叙情を讃えている。といった情景を真横で雫が逐一明るい声で説明してくれるのを反対側の耳へと聞き流しつつ、十郎は半分眠りのなかにいた。

「私も一年生に戻れたらなあ……って、聞いてるの?」

「雫はちょっと少女趣味すぎるよ」

 あくびを噛み殺しながらそう言うと、雫は頬を丸くして十郎を見下ろした。十郎は男子にしては少し背が低く、雫と並んで歩くと弟に見られなくもないのが嫌だった。実際、雫はお姉さんぶってか、今も寝癖だらけの十郎の髪をとかそうと手を当ててくる。うっとおしいと思いつつ、どうせ言ってもやめないことを知っているので、十郎はされるがままにしておく。

「なによ、夢見る華やかな乙女って言いたいの?」

「いや、そこまで言ってない」

 自分で言っていて恥ずかしくないのか。

 雫は同じマンションのお隣だった。幼い頃から家族ぐるみでの付き合いがあり、今でも家族で旅行に行くほど仲が良い。雫はどこに行っても十郎についてきてお節介を焼いた。十郎がいつもぼうっとしているからか、周りに何があるか、昨日はどんなことがあったか、学校の授業はどうだったか、ひとつひとつ教えてくれるのだった。ただただ明るい女の子だった。本心を隠さず、素直で、いらない謙遜もしない。十郎には、彼女の存在が少しばかりまぶしかったりもした。

 ただ、高校生になってもお喋りの勢いが衰えないから、このままいったら大学生になる頃にはどうなってしまうのかと十郎は心配し始めていた。

「ねえ、十郎、今日も徹夜でなにやってたの? わかった、当てて上げる。えっちなゲームでしょ」

「違うよ、いつものやつ」

 冷静に返すと、雫は大きくため息をついて「あーあ、つまんない」と鞄を振り回した。危ない。

「ゲームのテスターだっけ? バグを見つけるお仕事ってそんなに楽しいもんなの」

「それなりにね」

 十郎は中学時代からそのアルバイトを請けていた。仕事は単調でつまらないが、三年も続けていれば慣れてくるものだ。なにより、今はセキュリティプログラムの発展も手伝って、自宅でできる仕事になっているのだ。かつてはビルの一室にすし詰めになってやるような、ストレス過多で蒸発してしまうのではないかと思える仕事だったらしいが、自分のペースでできる仕事になっているのだ。

「ねえ、十郎はなんのゲームを担当してるの?」

「守秘義務っす」

「どけち。テスターなんてやってるより、実際に遊んだ方が楽しいと思うんだけどなあ」

 そう呟いて、雫がこちらをちらちら横目で見てくるのがわかったが、十郎は無視して足下の散った桜の花びらを数えて安っぽい無常感に浸った。

「ね! もう一回、いっしょに《アーリア・ワールド》やろうよ。楽しいよ」

 雫の笑顔がすぐ目の前に飛び出してくる。エイリアンか何かか! と十郎は叫びたくなる。自分の顔が少し熱くなるのを感じて顔を伏せる。

「俺はやらない」

 誘ってもらえるのはうれしかった。しかし、かつて一度参加したときのいやな思い出が忘れられなかった。十郎はゲーム開始と同時に嘔吐してしまった。RV酔いと言うらしい。あまりにも現実味のある仮想世界をいっぺんにみたものだから、十郎は熱を出して三日間寝込んでしまった。

「あんなバグだらけのゲームやってられっか」

「へそ曲がり十郎め」

「うるせい」

 企業との契約上口には出せないが、十郎がゲームテスターとしてバグ発見のアルバイトをしているのも、雫が参加しているゲームだった。VRヴァーチャル・リアリティゲームとかつてなら呼称されていたものだが、今この東京の地下で行われているのは、RVリアル・ヴァーチャルゲームである。プレイヤーは仮想で作り上げた現実にダイブするのではなく、実際にある現実空間リアルに手を施すことで生成された仮想現実に飛び込んでいくのだ。

《アーリア・ワールド》は「参加するのに必要なのは己の体だけ」をキャッチコピーにしている。剣や鎧、建造物や自然、NPC、果ては剣戟の火花や魔術の閃光まで、すべてが空間を満たす特殊な粒子によって生成されるのだ。しかも、実物と変わりないグラフィックで。十郎が中学生のときに始まった世界初の大規模RVゲームで、都内のゲーマーはほとんどがアカウントを所持していた。無論、十郎もだった。

「ねえ、なんで十郎は《アーリア・ワールド》をやめちゃったの? バグが多かったって言っても、最初の頃の話でしょ? それも、初期のテスターさんのなかに超優秀な人がいて、バグなんてあってないようなものだったじゃない。今もそうだけど」

「バグなんて誰でも見つけられるよ。勘と経験さえあればいいんだし、マニュアル通りやってれば誰かがそのうち見つけるよ」

 ちびのくせに偉そうにするな、と雫が鞄を振り回し、十郎はひょいと頭を下げて避ける。

「って、あれ? 十郎、なんで《アーリア・ワールド》がバグだらけって知ってるの?」

 鞄を振りかざしたまま、雫は立ち止まって考え出す。その間に、十郎は脇をすり抜けて先に歩いていった。

「あ、ちょっと待ってよ、じゅうろー!」

 校門の前に二人が立つと、そのにぎわいに圧倒された。人混みのなかには、いささか中学生っぽさの残る顔立ちの生徒たちがちらほらと混じっている。昇降口までの大通りは部活の勧誘合戦が始まっており、どこもそれなりに盛況である。十郎は目を細めたが、それは日差しがまぶしかったからであり、決して青春の華々しい光がうらやましかったからではない。十郎は中学時代から帰宅部だったが、それも関係ないと己の中で飲み込む。

「十郎も、なにか部活やってみたくなった? 私と同じ新聞部とか入ってみる? 楽しいよ!」

 十郎は自分が苦い顔をしているのがわかった。活発な雫が放課後にひたすらおとなしく原稿用紙に向かい合って記事を書いている姿なんてどれだけ頭をひねっても想像できないし、己のそんな姿なんてかけらも考えられない。あとで雫の作業は主にインタビューなのだと聞いて、深々と納得した。人と仲良くなるスキルだけは脱帽ものである。

「ほら、早くクラス表確認するぞ。俺と違うクラスになってたら、もうIT基礎の宿題見せてやれないからな」

「ぎゃ、それは嫌だ」

 女の子らしくない悲鳴をあげる。雫は万年、理系科目が不出来な女の子だった。

「ねえ、もういっこ質問していい?」

「なんだよ」

 二年生用の新たな靴箱に革靴をしまっているときだった。十郎が振り向くと雫が真剣な眼差しを向けてきていた。昇降口のなかは人であふれ返っていて、ときどき、間に人が挟まって雫の顔は見えなくなった。

「十郎は、どうしてそんなにテスターを続けるの?」

「……なんだよ、藪から棒に」

 思い詰めた顔の雫は、胸のリボンを握った。

「私、その、仲の良い人がなに考えてるのか、できるだけ知りたいの。自分でもよけいなお世話だと思うけど、もし十郎がなにか面倒くさいことに巻き込まれて自分の時間を潰してるんだったら、やだなって。テスターって、すごい辛い仕事なんでしょ? 悪徳業者も時々あるって聞いて、不安で……ほら、十郎のお母さんに、あんたのこと頼まれてるしさ」

 雫なりに心配してくれているらしかった。ほかの生徒の頭でときどき隠れながらも、その目はまっすぐにこちらを見つめていた。

 十郎は迷った。その問いの答えは、なかなか見つからなかった。なぜ、テスターを続けるのか? 最初は目標があったはずだ。しかし、どうしてかそれすらも忘れてしまった。いつものようにごまかして答えようとすると、良心みたいなものが、胸を痛ませた。

「十郎が体でも壊したらと思うと……私、心配だよ」

「……すまん」

 十郎は上履きに履き替えていない自分のつまさきを見つめて答えた。

「俺にもわかんない」

「うん、わかった。そういうことってあるよ」

 あっさりと答えが返ってきたことに驚いき、俯いていた顔をあげると、幼なじみの表情はいつもの朗らかな微笑みに戻っていた。

「詮索してごめんね。ありがと」

 でも、辛くなったらいつでも言ってね、と雫の手が頭に乗せられた。あまりに自然にそうされたものだから、やめろよとも言えなかった。


 貼り出されたクラス表を見ると、二人は同じクラスだった。「きゃあ、十郎見て、クラス同じだよ! これで小学校から数えて十年目だね! すっごい!」と騒ぐ雫を置き去りにしようとして、十郎は首を絞められた。

 二人が教室に入ると、笑いかけてくる男女の顔がいくつかあったが、もちろんそれらは雫に向いているのである。友人と挨拶をする雫をよそに、十郎は自分の名前シールが貼られた席に座った。

「あらららら! サラミくん、また同じクラスですねえ!」

 その涼しげな声は真後ろから投げかけられた。振り向くと、もう一人の友人の姿があった。女子みたいに細い顔立ちで、青白い顔をした眼鏡の男子が、顔いっぱいに喜びを湛えて机に体を乗り出していた。井炉レイといい、彼が中学校時代に転校してきて以来、二人はレトロゲームの同好の士として親交していた。

 ただし、

「レイ! そうだった、クラス表にお前の名前もあったんだった」

「おはようございますサラミくん、今日も目つき悪いですねえ。あっちこっちメンチ切ってると、虚勢のできてない犬みたいでみじめですよ」

「お前こそ、朝からよく舌が回るじゃねえか、お?」

 それほど仲むつまじいわけではなかった。目つきが悪い上に毎日徹夜で目の下に大きなクマのある十郎は、背が低くてもそれだけで威嚇になる。それをレイは転校初日に学校で「あなた友達が一人もできずに中学生になったジャイアンみたいな目つきしてますね」と言ってきた。そんなふうに初対面で十郎に深く関わってくれる人間はいなかったので、十郎は少し感動し、とりあえずつかみかかって細い体を締め上げた。レイは難なく十字固めを抜け出して逃走し、十郎は怒りの形相で後を追った。「あはははは! 怒るとより格好悪いです!」雫は十郎が駆け回る姿を見て、あんよを覚えた赤ん坊を見るみたいな目をしていたらしい。

 それから二人はレトロゲーマー同士ということがわかってよく放課後に遊びに出かけるが、レイのからかいは止まらず、端から見ておかしな友情を育んできた。

「あ、また十郎が青筋立ててる」

 十郎がレイの襟をつかんで揺すっていると、雫が机の間を縫って近寄ってきた。

「あ、レイ君おっはー!」

 雫が手を挙げて、弾けるような笑顔になる。彼女が友人のみに向ける笑顔で、雫スマイル、と十郎は呼んでいる。どれだけ心の壁を塗り固めても、スマイルの放つ光線により警戒は解かれるのである。

 レイは揺さぶられているにも関わらず、おだやかな笑みを浮かべる。が、声は震えていた。

「おおおははよよようございます雫さんんんん、き今日もかわ、かわいらしいですねねねね」

「もー、レイ君ったら口だけはうまいんだから。ほめてもなにもでないわよー」

 頬を押さえて、乙女らしく恥じらう雫。微笑ましい挨拶だった。雫は十郎の顔をのぞき込むと、少々緊張したような笑顔で尋ねてきた。

「ね、レイ君が私のことかわいらしいって。十郎、どう? 今日の私かわいい?」

「レイ、悪寒がする以外になんて言ったらいいか教えてくれよ」

 返答は雫から返ってきた。頭突きだった。

「おお、クリーンヒットですね。あと、ぼくを巻き込まないでください」

 レイの実況を遠く聞きながら、十郎は机に倒れ伏した。鼻がつぶれたのではないかと思えるくらい痛かった。どしどし、と音を立てて雫が自分の席へと帰っていく音を聞いた。

「いやあ、愛ですね」

「なにがだ!」

 十郎は抗議のために鼻頭を押さえながら起きあがった。なにかあったのか、と周りが目線を向けてきていたが、またあの二人か、と戻していく。

「最近のあいつ、どんどん暴力的になってるんだ。どう思うよレイ」

「さあ? ぼくら、女の子には詳しくないからねえ」

「そっか、あいつも女だもんな、いろいろあるんだよな」

 と、謎の納得を自分に強いようとしたとき、ズボンのポケットで携帯電話が震えた。「校内は電源オフですよ?」というにやけるようなレイの声を無視して確認する。

「そんなもん、不文律ってやつだろ。オフゲーのバグ技と同じだ」

「さすがテスターは喩えも違いますね」

「うるせい」

 仕事の請負先からかと思い、済まなく思いつつもレイに隠して開くと、やはりテスター関連のメールだった。

 文面を読み、十郎は目を見開き、心臓の高鳴る音を聞いた。同時に、チャイムの音が教室中に大きく響きわたった。


 体育館には整列した生徒たちが集まっていた。新たな顔ぶれとの会話に誰もがざわめき、いくつか開けはなった扉は桜の花を乗せた青く光る風を舞い込ませ、生徒たちのくるぶしをこそばゆくした。

 マイクの入る音がきん、と生徒たちの頭上に響くと、場は静まった。始業式は厳かに進んだ。校長の手短な挨拶があり、それより長い生徒指導教師の訓戒があり、はるかに短い新入生代表の挨拶があった。

 雫は自身のクラスの列に座りながら、首をあちこちに回し、前に座るレイの耳もとにささやいた。

「ねえレイ君、十郎見なかった?」

「あら、そのへんにいませんか?」

「いないのよ。不思議ね、あいつどこでも寝れるから、こういう式の場には必ず出てきて寝てるのに」

 レイは壇上を見つつ微笑んだ。

「よく見てらっしゃることで」

「なにか言った?」

「いえいえ。あ、ほら、生徒会長が出ますよ」

「えっ、本当?」

 教師の声に招かれて、生徒会のワッペンを腕に巻き付けた女子生徒が壇上に姿を現した。長い黒髪を侍のように後ろに垂らしている。つりあがった目つきと、頑と結ばれた唇が真面目さを表していた。その顔が、ふっと息を吐き出して自信げに微笑むと、場にいる誰もに安心感をもたらした。遠くにいる生徒たちでも、彼女が美人であることがわかった。

 生徒会長は教師陣と正面にお辞儀をすると、マイクをスタンドから外して喋り始めた。

『剣谷アザカです。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。新たな方々に出会えたことを嬉しく思うと同時に、感謝の思いを伝えたく思います。長い挨拶も堅苦しいと思いますので……』

 雫は惚けたようにため息をついた。

「ああ、アザカ先輩、やっぱり生徒会長に選ばれたんだあ。かっこいいなー、あこがれちゃうなー」

 もう十郎のことはどうでもよくなったらしい。雫の瞳が輝いているのを感じ、レイはわずかに苦笑する。

「この学校の生徒会長は前任の生徒会役員と先生たちに選ばれるんですものね。なかなかすごいですよ」

「当たり前よ。先輩以上の資質を備えた人間なんて、この学校にはいないわ」

「本当にそうですかねえ」

「お胸の大きい女の人に資質がないわけがないのよ」

 妙な判断基準だった。レイはその胸に注目してみたが、遠目ではなかなか判断できなかった。ただ、雫と比べてみると、彼女が生徒会長のどこに憧れているのかはすぐに理解できた。

『生徒会長剣谷アザカさん、ありがとうございます。続いて、副会長の鷹藤英二君、挨拶をよろしくお願いします』

 教師のマイクの音が反響するなか壇上に現れたのは、おおきく筋肉質な体を持った男子生徒だった。鷹藤はマイクを剣谷アザカから受け取る瞬間、なにか彼女に耳打ちをしたように、レイには見えた。

「誰あれ?」

 と雫がこぼすと、隣に座っていた友人が声をかけてきた。

「えー、雫、鷹藤先輩知らないのお? 先月の《アーリア・ワールド》闘技場のチャンピオンなんだって! ずっと副会長が決まんなかったけど、それで選ばれたって噂だよ」

「へー。私闘技場なんて行ったことないからなー」

 雫は攻略メインのプレイヤーだった。まあ、人と競い合うことに興味なんてないですよね、と中学校からの付き合いのレイは頷く。

「しょうがないよ、しずくっちはあの目つきわるい男の子まっしぐらだから。ほかの男なんて眼中にないってー」

「ちょ、ちょっと、なに馬鹿なこと言ってんのよ!」

「あ、顔赤くなってる。これは確定ですわあ」

「あれ? でもさ、鷹藤先輩って野球部でも結構活躍してなかったっけ? なんでそっちで選ばれなかったんだろ。私の勘違い?」

 背後で女子が桃色の騒ぎ声をあげるのを聞きながら、レイは壇上に異様な影を見つけた。鷹藤が抱負を述べている壇上、上座の陰から、剣谷アザカが副会長を凝視していた。

 まさか、後ろの女子たちと同じ、色恋話じゃないよね?

 と内心苦笑していると、生徒会長の姿は見えなくなっていた。


 個室トイレに籠もって、十郎は携帯電話と小型のタブレットパソコンを取り出していた。タブレットはゲームテストに用いるためのもので、開発者とテスターにのみ配布されているごく廉価なものだった。現時点では、リアル参加型ゲームである《アーリア・ワールド》を唯一非参加オフライン起動する手段である。俯瞰型で世界を見下ろしつつ架空アバターをフィールドに投影して自由に動かせ、RV空間にいなくても同じようにゲームを試すことができる。実際のプレイヤーと区別するため、ほぼ透明の体を持ち、ボロ切れのようなフードをかぶっている。プレイヤーの十郎が何年も参加してきた《アーリア・ワールド》とは、この四角い空間から見下ろす世界だった。

 念のため、もう一度メールを確認する。そこには、相変わらず末恐ろしいことが書かれていた。

『テスター番号890様。

 未明から《アーリア・ワールド》内で致命的欠陥が発生。現在、百名のプレイヤーがなにかしらの動作の結果、強制的にログアウトさせられるバグが起こっています。ログインからバグ発生までの百名の行動ログを送ります。想定される限りの動作を試し、バグの検証にあたってください。また、各社各位に向け同一メールを送っておりますので……』

 普段の仕事は、未実装のプログラムをひとつひとつ試し、バグが発生しないか試す作業であるが、時々こうやって緊急の依頼が、運営本社から各下請け会社を通してテスター全員に舞い込むことになる。もちろん臨時収入が手当として出るし、経験も積めるのだが、だいたいはノルマと平行して行うことになるため、慣れないテスターは手を出さない。

「しかし、これは致命的すぎるだろ……こんなやばいバグ、本当に誰も気づかなかったのか?」

 百名分の行動ログを読みすすめながらぼやく。バグ解消のための作業のうち、テスターが行うのは一部の行程だけである。バグの発生場所を確定すること、バグの発生原因を突き止めること、発見したバグの発生原因を検証すること。その後のバグ箇所の切り離し、バグ潰し、プログラムの組み直し等は本社のデバッガーの仕事であり、テスターのやることではない。あくまでも、どこにどんなバグが潜んでいるのかを検証することまでがテスターの限界であるが、逆に言えばテスターはその道のプロフェッショナルだ。

「ま、なんとかなるっしょ」

 ふーっと長い息を吐き出し、検証作業に入る。メールの文面とタブレットを見比べつつ、ログに綴られた一人一人の行動を反復していく。

『どうしてそんなにテスターを続けるの?』

 雫の言葉が脳内でこだまする。単純作業は、下らない悩みを頭から追い出すのにちょうど良いが、思索にもちょうど良い。


 作業を終えてトイレから出ると、まぶたが休息を求めてぴくぴくと痙攣した。自分でも押さえられないくらいで、今誰かにあったら確実に相手をびびらせてしまう。

「三十分、液晶を見てただけでこれだよ。徹夜明けで臨時の仕事なんて請ける必要ねえのになあ……」

 とぼやいていると、正面には廊下の窓があり、桜が花弁を大気のなかへと舞わていた。小さな蝶たちの乱舞を見ているようできれいだった。それから、始業式を思い切りすっぽかしてしまったことに気づいた。

「昨日でノルマも終わってるし、帰って寝るか」

 でも、どうせゲームをやってしまうのだろうな、と思っていると、軽い衝撃が十郎の胸に当たった。

「おっと」

「きゃっ」

 ぶつかったのは少女の小さな頭だった。彼女は聞こえるかどうかのか細い鳴き声を上げると、真後ろにひっくり返りそうになった。緑色のリボンが、ふわりと宙に舞った。

「あぶね」

 十郎はリボンをキャッチした。もう片方の手で女子の手をつかむと、足を軸にして倒れかけたまま静止した。組体操のように手首から腕の付け根までがぴんと一本の筋になって、

「ぎゃー」

 まごうことなき悲鳴が上がった。少女は少し涙目になって、痛みに耐えていた。体がぷるぷると震え、今にも倒れるか、腕が千切れるかしてしまいそうだった。

「あ、あの……!」

 十郎はつかんだ手があまりに小さいことに驚いた。幼い頃の雫の手を思い出して、なんだか恥ずかしくなった。

「あ、あ、あの……です……」

「え?」

 声が小さくて聞き取れなかった。

「痛いです……肩がはずれちゃいます……」

「早く起きたほうがいいよ」

「お願いです、起こして」

 泣かれそうになったので、強く引っ張って上げる。少女がふっと軽くなり、目の前に立った。

 顔が近い。十郎は思わず顎を引いてしまった。そんなに強く引っ張っただろうかと思っていると、またなんとか聞こえるくらいの低い声量で少女は言った。

「助けてくれてありがとうございます。私、鷹藤ましろです。ぶつかってしまってすみません」

「晒未十郎です。どうもどうも」

 至近距離で自己紹介をされる。女の子のにおいとしかいないような、不思議な香りが鼻先をかすめてどきどきした。歯磨いたっけ、と雫と話しても抱かない不安を頭の片隅で思って、なんだか彼女に悪い気がした。じっくり見るのも気が咎めて目をそらした。大人しい顔立ちだった。サイドアップというのか、髪を頭の横に束ねているのが、無理矢理大人っぽくしているように見えた。

「あの……」

 なにか言ったが、聞き取れなかった。さきほどからましろは頬を染め、もじもじと俯いてしまっている。どうやら、至近距離に来るのは声を届けるためのやむを得ない手段らしい。

「リボン……」

 十郎は少女の目線が自分の手に握られているものに向けられているのに気づいた。

「え? ああ、これ?」

「ごめんなさい、うまく結べなくて、よそ見していたんです」

 小さな声でそう言ってリボンを受け取ると、ブレザーのなかのブラウスの襟に通して垂らした。

「なんだか、すぐにほどけてしまって……私不器用なんでしょうか」

「さあ」

 ドジではあるが。

「十郎さん、リボン締めてくれますか?」

 紺色のブレザーの襟を開いて、白いブラウスの胸を差し出される。十郎は戸惑った。別に女性らしさもなにもない幼い胸だけれど、女性の前面を無防備にさらけ出されるのは、非常に緊張した。

「鷹藤ましろ、お前……」

 十郎は開かれた胸のあたりへ、顔を近づけた。

 と、そのとき、

「ンなにやっとるかあああこの鬼畜うううう!!」

「あぐう!」

 罵声とともに腰の骨が砕け散った。十郎は衝撃に耐えきれず、ましろを避けて真正面へと転ぶ。雫が背後から華麗なドロップキックをかましたのだと、あとでレイが教えてくれた。「素人にしてはね、悪くなかったよ」だそうである。

 目から火花をほとばしらせながら、十郎は立ち上がろうとしたところを胸ぐらをつかまれ、高くつり上げられた。一瞬だけ般若面のような雫の顔の残像が見え、次に目の前にあったのは薄汚れた天井だった。

「あんた、いないと思ったら、こんなか弱い子を捕まえて無理矢理胸に顔を埋めようとしてるなんて、こんな真昼間からなにやってんのよお!」

 ワイシャツの襟元を締められ、首に食い込んでいく。

「いだいいだい、ちがう、俺はただ……」

「いいわけできる立場だと思ってんの! あんた根はまじめだと思ってたのに……いいや、いつかこうやって若い子に手を出すと思ったわ! 性犯罪者!」

「おいレイ! そこにいるんだろ! 助けろ!」

 気力を振り絞っての必死な叫びは、常時傍観モードの親友には届かなかった。

「なに、ちっちゃいのがいいわけ!? ちっちゃいんだったらこっちだってねえ……!!」

「待ってください! その人は……」

 ましろが口から火炎をあげる雫にすがりつこうとしたが、その小さな声は別の声によってかき消された。

「廊下でなにをしている」

 うなるような怒気をはらんだ声だった。四人が振り向くと、廊下の中央に立っていたのは鷹藤英二副会長だった。大柄な男で、制服のなかから筋肉が浮かび上がっている。持ち上げられた十郎は、ちょうど彼と同じ目線の高さにいた。誰? と思いつつ、助かったことに安堵する。

「えっと、ごめんなさい、ちょっとふざけてました」

 雫は焦った調子で言って手を緩めた。

「ふざけていたで済むものかっ! ここをどこだと思っているんだ!」

「す、すみません!」

 雫は反省した声で謝罪すると、すぐに十郎を床に下ろした。

「うげー。助かった」

 脇にレイがやってきて、小悪党のように悪い声で囁いた。

「ほら、あなたも『ふざけていたで済むものかっ!』、とかっこよく言い返してやりなさい」

「あとで眼鏡ぶち割るからそのつもりでいろよ」

「お前ら、なにをこそこそ喋っている!」

 副会長に喝を飛ばされ、レイは軽く肩をすくめた。それから十郎を見て、目つきが変わっていることに気づいたが、止められはしなかった。

 尻を払うと、十郎は立ち上がり、副会長を見上げた。おそらく睨んでいるように見られるのだろう、と思ったが、鷹藤は大して気にも留めていないようで、変わらぬ厳しい視線を送ってきた。

「そこまで厳しい言い方する必要もないんじゃないですか?」

 十郎がそう言うと、副会長の厳しい表情にさらに皺が寄った。

「なに?」

「あんたがルールってわけじゃないし、そこまで怒鳴る必要もないでしょう。ほら、この眼鏡くんなんて震えてますよ。ジャイアンにいじめられたってここまで震えないですよ」

「こわいよぉ」

 レイが身を縮めて震えるのを横目に、そこまでしなくていい、と言いそうになった。というか乗ってこられるのは予想外だった。

「口応えするのか、この俺に」

 副会長はにじりよって見下ろしてくる。あまりにも身長差がかけ離れていたが、十郎は鼻で笑いたい気分だった。

「体がでかいだけでそこまで偉そうにできるんだから、ハッピーな脳みそだよなあ、ええ?」

「サラミ君」

 と耳打ちしのはレイだった。

「この方、生徒会副会長ですので、そこそこ偉いです」

「それを先に言えよ、啖呵切っちゃったじゃん……」

「どう考えても始業式さぼってたあんだが悪いわよ」

 呆れ顔の二人を交互に見る。焦る十郎へと、屈強な体はより近づいてくる。影が顔の上に覆い被さり、十郎は覚悟を決めるべく歯を食いしばった。

「兄さま、もうやめてください」

 強い意志を持ったましろの声が二人を止めた。さきほどまで脇で小さくなっていた少女が、息の詰まった必死の表情で副会長を見つめていた。

「兄さま……って、え? これが?」

 不遜にも剛頑な男へと指を向けてしまう十郎たちだった。あまりにも体の出来が違うし、見た目で言えばスミレ草と千年杉くらいの差があった。鷹藤副会長は怒りの視線を己の妹へ向け、無言で歩み寄った。

「ましろ、ここでなにをしている」

「兄さま、あの」

「学校では副会長と呼べ」

「……はい、副会長」

 彼の手が妹の肩に乗せられる。と、彼女は警戒したようにびくりと体を震わせ、さっと後ろに足を引いてしまった。

「ましろ」

 巨体はため息とともにその名前を呼んだ。

「おい、あんた、いくらなんでも妹にそんな態度とらなくても……」

 引き離そうとして間に割り込み、十郎は副会長の顔を再度睨んだ。しかし、そこにあったのは予想外のものだった。副会長はさきほどまでの自信に満ちた表情を失い、まるで自分を責めるなにかと格闘するかのように床に視線を落としていた。短い一瞬だったが、そのさびしげな表情は十郎の目に焼き付いた。

 顔を見られていたことに気づいたのか、彼ははっと顔を上げ、十郎の体を押のけた。

「もういい、お前ら、廊下では静かにするように心がけろ」

 副会長はそう言い捨てて、廊下の先へと歩いていってしまった。大きな体が人混みのなかに消えていくのを見届けて、十郎とレイはふーっと弱々しい吐息を漏らした。冷や汗もだらだらで、少し情けない。

 いち早くましろに駆け寄ったのは雫だった。しゃがんで目線を合わせるあたり、人を安心させる術がわかっているんだな、と十郎は感心する。自分には絶対できない。

「大丈夫? ごめんね、助けるのが遅れちゃって」

「……はい、すみません、大丈夫です。兄妹のことですから」

 そう言うましろは、まだ自分の肩を抱いている。声は少し震えていた。

「お兄さんに何かされたの? なんなら私たちが、言ってあげようか?」

「いえ、そんな」

 ましろの表情がわずかにひきつったものに変わったのを十郎は見逃さなかった。雫の良いところでもあり、悪い癖でもある。人の事情に踏み込みすぎだ、と言おうとしたが、それも雫を傷つけると思い、

「おい、鷹藤ましろ」

「……はい?」

「リボン、そこのお姉さんが結んでやるってさ」

「へ?」

 雫は間抜けな声を上げて十郎を見た。それからましろの胸を見て、確かにリボンが結びかけであることに気づいた。

「あ、ほんとだ。結んであげるから、ちょっとじっとしててねー」

「そう言われると踊りたくなります」

「違うから! ふりじゃないから!」

 ふざけているのか、ましろは腰だけ動かして踊る。その間中、なぜか十郎を見ていた。たまにウィンクもした。

 誘われているのか? と首をひねる。

「あれー、結べない、どうなってるのかしら」

「不器用ですねえ」

 と言ったのはレイだったが、雫の怒りのこもった眼光を浴びたのはなぜか十郎だった。

 なんで俺が? と首をひねる。

「違うのよ、このリボン小さくて……ねえ、発注のとき、ちゃんとサイズ測ってもらった?」

「いえ、近所の方のお下がりなんです。頂いたときに確かめるのを忘れていました……」

「そっか……って、あなたより首の細い子がいるの?」

 それからいくつか試行錯誤してみたが、だめだった。というか、雫は「ちっちゃー。かわいー」と繰り返して、かわいさに見とれているようだった。幼なじみが以前から妹をほしがっていて、そのあげく自分を女装させようとしていたときの記憶がフラッシュバックして、十郎は不意に背筋をはたかれたようにうち震えた。思い出さなきゃよかった、と深く思った。

 見かねたレイが近づいてきて、アドバイスした。

「結び方を変えてみたらどうです? なにかで縛るとか」

「ゴムとか? でも、私も髪縛らないしなあ」

「あ、それなら……」

 ましろはブレザーの胸ポケットに手を入れると、指相応の小さな指輪を取り出した。表面はよく磨かれ、窓からの明かりを受けて白く輝いている。小さな青い宝石のようなものがひとつ付いていて、ましろはそれを雫に手渡した。

雫は、とても高価なものを預かったようにそれを見つめて、それからましろを見上げた。

「これって……青の《evリング》……じゃあ、あなたも《アーリア・ワールド》のプレイヤー?」

「はい」

それは《アーリア・ワールド》に限らず、RVゲームのプレイヤーがアカウント登録の際に作成するものだった。指輪を装着することで空間を満たす粒子を身にまとい、剣や鎧、エフェクトを生成する。必須アイテムでありプレイヤーの証だ。十郎も持っていたはずだが、どこに置いたかは忘れてしまった。

 雫がリボンの両端を指輪に通し、整えてあげる。ボーイスカウトの制服みたいになったが、男の子らしいというよりはより幼く見える印象だった。

「へー、私もだよ! 攻略組? それともチャット目的?」

 ましろはもじもじと腰を動かした。雫の目からは、あまり戦闘が好きそうにも思えない。パソコンで遊ぶオンラインゲームでもただ単にフレンドを作りたいだけのプレイヤーがいるが、その部類だろうかと思った。雫自身、多くの人と攻略をするのが好きな部類なので、自分はその延長にいるとのだと思っていた。

「いいえ、私はその……あっ」

 始業のチャイムが校舎に響きわたった。HRが残っていることをすっかり忘れていた。

「お姉さまお兄さま十郎さん、ありがとうございました」

 ましろは丁寧にお辞儀をすると翻って、さささっと人の散り始めた廊下を走る。すぐに角を曲がって見えなくなった。やはり猫みたいだ、と十郎は思う。

「きゃーん、お姉さまだって、なんか良いわね! お嬢様になったみたい! あの子かわいー!」

「ほらほら、さっさと教室に戻りますよー。こわーい副会長が来ますよー」

 冷静なレイの声に引き連れられ、十郎たちは廊下を自分たちの教室へと歩いていった。十郎はひとり後ろについて歩いた。頭には、今しがたの兄妹のことばかり浮かんでいた。

「ていうか十郎、あんた始業式さぼってどこ行ってたのよ。……ねえ、ずっとあの子といたの?」

「ちがうちがう!」

 雫の目が闇色の眼光を放っている。突然の変化に戸惑い、慌てて否定した。

「テスターの仕事が急に来たんだよ」

「終わったんですかい?」

「え?」

 雫もレイもどこか心配したような目を向けてきていた。気恥ずかしくて、十郎は眠いふりをして、目をこすって答えた。

「まあな」

 雫は表情を和らげ、「あっそ」と言うと、目を細めて微笑んだ。どうしてテスターを続けるのか、その答えをあえて聞かれていないような気がして、十郎はまた顔を伏せてしまった。


 *


「みーつけたー」

 暗い車内。助手席に、白衣を着込んだ女児がいた。手には双眼鏡を持ち、レンズは正面にある学校へと向けられている。足下には桃色のランドセルが乱暴に放置され、開いた口からは教科書やペンケースが飛び出ていた。

 運転席には仮面を付けて黒いフードをかぶった人物が座っていた。まるでゲームの世界からそのまま抜け出してきたような格好だった。

「出しますか」

 のぶとい男の声が仮面の裏からくぐもって発せられる。白衣の女児は手振りで出発を合図した。

「ごーごー」

 重々しい排気音をたて、車がゆっくりと前進する。女児の手には小型のタブレットがあり、画面のなかにはメール送信画面があった。『緊急でーす! たくさんバグがあふれかえってたいへんです! テスター番号901さん、至急このバグを解消してくだs』まで打ち込んだ文面が、削除キーで削除されていく。女児は校舎を見つめたまま、タブレットを操作していた。

「あのバグを依頼をしたのはあなただけだよ、テスター番号890さん。こんな簡単な手口にひっかかっちゃうなんて、そんなにおつむはよろしくないのかなー……それとも、テスターの仕事をここまで張り切んなきゃいけないなにかがあるのかな。ま、どっちでもいっか」

 にやり、と小さな口元が持ち上がる。

「さあ、さっさとらちっちゃいましょー」

 不穏な言葉を呟き、女児は勢いよく腕を掲げる。

 眼鏡と望遠レンズ越しの視線の先にいたのは、やや背が低く、目つきの悪い猫背の少年だった。


 *


 雫とレイの後ろについて校門を出たところで、黒塗りのバン車が横に付いたのは覚えている。十郎は腰に冷たい機械の感触を覚え、次の瞬間には車内に運び込まれていた。

「はーい、鞄は没収っと」

 聞こえてきたのは幼い子供の声だった。頭上に白衣の女児が立っている。白衣の下は虹色のタンクトップと白いショートパンツで、白衣と眼鏡の聡明そうな印象と混じって困惑した。その顔に浮かぶ表情は、勝ち気な笑みだった。

「へえ、晒未十郎くんっていうんだね。"妙"字だな。あたしも人のこと言えないけどさ」

「あっ、俺縛られてる! な、なんだこれ、おい、レイ! 気づいてくれ!」

 無情にも、ドアはオート機能で閉まったところだった。

「ああ、そうだ。あとこれつけててね、十郎おにいちゃん」

「あっ、暗い! なにも聞こえない!」

「十郎お兄ちゃん、以外に熱くなりやすいね。もっとダウナー系だと思ってた」

 なぜかだめ出しをされた。

「こんな状況になったら誰でもこうなるわ!」

 アイマスクと耳栓をつけられていた。車の揺れる感覚と、小さな指がいたずらに体をつつき回す感触だけが続いた。果てしない混乱のなかで、十郎は死ぬ恐怖を覚えた。もしかして、誘拐されている? と気づけたのもだいぶ後になってからだった。恐怖が頂点に達したのは、車から降ろされ、複数人の手で前へ後ろへ運ばれていくときだった。

 地面に尻から乱暴に降ろされても、まだ生きた心地がしなかった。目隠し等が外される。突然の明るさに目が眩み、徐々に視界が回復してくると、あちらこちらに視線を回してみる。

「ここは……誰かの家か?」

 自分が降ろされたのは畳の上だった。そこはマンションかアパートの四畳半で、正面には青いカーテンの引かれた窓があり、左右と背後には襖があった。おそらく、どれかが隣の間へ繋がるものだろうと、本能が逃げるルートを計算し始めた。

 部屋の中央にはちゃぶ台が置かれていた。天板はきれいに磨かれている。お盆のなかにはお茶受けのクッキーと紅茶のパックが収まっており、十郎は幼い頃に母方の祖父母の家に遊びに行ったときのことを思い出した。なんというか、質素で、十郎は自分がさらわれてきたのだということを忘れかけた。

「……ていうか、なんだこれ」

 が、ひとつだけ、ちゃぶ台の上に異様なものがあった。なにかのスイッチだろうか。いかにも危険そうな赤い押ボタンがあり、脇に「押すな!」と小さなメモで書き置きがあった。

「そう言われると……って押すわけないだろ、常識的に考えて」

 伸びかけていた右手を左手で制し、十郎は立ち上がった。出口はどこかと思い、向かって左側の襖を開ける。

「どこのマフィアかなんか知らんけど、こんな怪しいとこさっさと退散させてもらいますよ……って、なんだこれ」

 襖の向こうは押入だった。しかし、そこに詰まっていたのは黒服と白いのっぺらぼうの仮面をつけた多数の人の体だった。膝を抱えたり、ほかの者の上に重なるようにしたりして、なんとか収まっている感がある。逆側から襖を開けてみても、同じように人が詰まっていた。季節は四月の始めである。都内では日中の最高気温は日々ぐんぐん上昇している。そんななか、七八人の人間が、暑苦しい格好で詰まっているものだから、ふしゅーふしゅーと、息苦しそうな呼吸音も漏らしている。逆側から開いたとき、のっぺらぼうの仮面たちは一斉に十郎を見て、わずかに首を横に振った。なかには、「ちがう、ちがう、ボタンが先!」と小声で呟く者も少なからずいた。

「ボタン? ああ、あれか」

 早く押せ! と熱気のこもった声が背中にかかり、仕方なく座り直して押すと、ぱっと照明が消えた。

「あ、消えた」

 がたがたと音がしたのでもう一度押すと、また電気がついた。「だから早いって!」と声が聞こえたので、また押す。どうやらただの蛍光灯のスイッチらしかった。

 しばらくがさごそという音、襖の開く音、「練習通りやらないと室長が怒るわよ!」という荒れた声が聞こえ、不意に部屋は明るさを取り戻した。

 目の前には、ずらっと並んだ黒ずくめの怪しい人々。それから、中央にはさきほどの白衣タンクトップの女児が立っていた。表情は満足げな笑みでいっぱいである。

 目の前に立つ全員がすうっと息を吸い込み、歌うように朗らかに言う。

「《アーリア・ワールド》第十九運営室へようこそー!」

「……は?」

 十郎は考える気力が尽きて言葉を失った。性根が面倒くさがり屋の十郎がここまでつき合えたのは奇跡だった。《アーリア・ワールド》? 運営? もう、頭がショートしそうだった。

「なんなんだよこれ……」

 混乱する十郎の前に女児が仁王立ちした。腰に手を当て、自信たっぷりに胸を反らしている。

「あたしはこの運営室の室長、蝶ノ宮ロザリー様である!」

 少女は、どう見ても小学生にしか見えない。あまりにわけがわからなすぎて、むしろ十郎は落ち着いて答えた。

「晒未十郎……しがない高校生。それ以上でも以下でもないぞ」

「うん、知ってる。あ、みんなはもう戻っていいよー」

 ぴょん、とちゃぶ台を越えると、ロザリーと名乗った少女は黒ずくめを脇に押し退ける。彼ら彼女らは疲れきった様子で十郎の背後の襖を開けて出ていった。

(そっちが正解だったか……)

 舌打ちをする。少女に目を向けると、十郎の鞄をちゃぶ台の上に載せ、十郎のほうに回り、中に手を突っ込んで漁っていた。鼻歌まじりである。目の前で小さなお尻がふりふりと揺れて、十郎はハムスターを思い出す。

「おい、ちびすけ。俺をさらった理由から話せ」

「ちび同士仲良くしようよ。あたしのことはロザリーでいいよ。ま、なんでこんなちびなのかは追々」

「あ? ていうか、なんでお兄ちゃんなんだよ」

「あれ、そういう属性じゃなかった? 精一杯のおもてなしだよ。ねえ、これ、お兄ちゃんのだよね?」

 ロザリーが手にしていたのは、十郎のテスター用タブレットだった。彼女はタブレットを起動させると、素早くメール画面を起こした。さきほど十郎が運営に送り返したメール文面が表示されている。

「『バグは第三者に埋め込まれた可能性あり……帝国領城下街に非存在NPCが見つかる。該当プレイヤー百名は、いずれもこのプログラムに存在しないNPCに接触している。クラッキングの可能性に警戒すべき……』ね。ねえねえねえ、これ、本当にお兄ちゃんだけの力で発見したの?」

 ロザリーは見た目相応の嬉しそうな笑みとともにタブレットを向けてくる。十郎は一旦間を置いて、肩をすくめた。

「守秘義務って言葉知ってるか、ちびすけ? 俺たちテスターは、そう易々と情報を公開できないよう、契約で……」

「もちろん知ってるよお兄ちゃん。その契約主様はお兄ちゃんの目の前にいるんだよ?」

「は?」

 見ると、ロザリーは笑んだまま、タブレットを団扇のようにして顔を扇いでいる。

「このメールはね、お兄ちゃんにしか配ってないの。お兄ちゃんをあぶり出すためにね。いやー、一瞬だけとは言え幾通りものバグを作って、ひとりひとりのテスターに別々のメールを送るのは準備が大変だったよ」

 突如、十郎の頭は熱くなった。自分がなにかしらの策略にはめられたことよりも、バグを埋め込んだと語っている目の前の存在が許せなかった。

「ちびすけ! お前、自分がなにをやったかわかって――!」

「落ち着いてよお兄ちゃん。バグは即消したし、百人分のログだって、うちの運営の人間のものだよ。善良なプレイヤーを巻き込むなんて、するわけないじゃん」

 十郎は、しばし呆然とロザリーを見つめて、ため息が出た。安堵のため息だった。

「……バグは存在しないんだな」

「そうだよ、嬉しい?」

 ロザリーの口の端が、よりズル賢そうに持ち上がる。

「お兄ちゃん、あたしの運営室の担当はね、違反者の発見と制裁なんだ。でも最近、チーター連中とのいたちごっこが続いてて……って、それは知ってるよね?」

 十郎は冷静になってうなずいた。たしかにその通りだ。プログラムに細工するチートや、プログラムそのものを破壊しようとするクラッキングの対策として、ゲームサーバーにはアンチチートプログラム(ACP)が組まれている。もちろん、プレイヤーのデータを保存する役割も持つ《evリング》にもその機構はある。しかし、強固な防壁を作ったところで、それを壊す技術が発展すれば即座に無意味ものになる。それに負けじとACPを組もうとも、しばらくすればまた違反者のスキルもあがる。殺虫剤とゴキブリみたいなものだと十郎は思う。どれだけ強い殺虫剤を撒いても、ゴキブリがそれに対抗できる免疫を備えてしまえば、今度はより強い殺虫剤が必要になる。

 特に、《アーリア・ワールド》に用いられている、粒子による現実拡張技術はまだまだ未発展のものであり、チーターの付け入る隙が多すぎる。

「ゲームマスターの制裁も後手後手に回っているのが現状なんだ。管理者権限っていっても、このゲームは直接自分の足で裁きにいかなきゃいけないもんね。でも、それは違反行為が予測できないからなの」

 十郎お兄ちゃん、とロザリーは顔を近づけてくる。十郎は彼女の目を見つめ返す。彼女の瞳の中に、小さな少年の姿が映った。

「その目だよ、お兄ちゃん。あたしたちは、すべてのバグもチートも見抜くその目が欲しかったんだ」

「目……?」

「バグの発見数は大小合わせても並のテスター百人分の働き。下請け業者の間じゃ、生きる伝説クラスの扱い。もはや、彼自身がバグそのものなのではないかと崇められるほど……これって、十郎お兄ちゃんのことだよね? あたしたちが配布した偽依頼を解決できたのは、お兄ちゃんだけだもん」

 十郎は沈黙を返した。いつのまにそんな恥ずかしい噂が生まれていたのか。自分はただ、バグを見つけては報告していただけだ。

「……俺になにをしろって言うんだ?」

「お兄ちゃんには、あたしたちの仕事を手伝ってほしいんだ。どうも最近、上司たちが成果をあげろあげろってうるさくってさ。せっかく作り上げた部署なんだ、切り離しなんて目には合いたくないんだよ。ね、アザカちゃん?」

 向かって右側の襖がおもむろに開いた。突然のことに、十郎は肩を跳ね上げてしまった。そこから現れたのは、さきほどと同じ黒い服を着た、しかし白面をつけていない、きりっと澄ました顔の黒髪の女性だった。目元に小さなほくろがあって、目線を向けられると体に緊張が走った。同年代では見たことのない、冷ややかな美人という印象だった。

(まだ残りがいたのか)

「こちらチーフ・ゲームマスターの剣谷アザカちゃん。で、こっちの目つき悪いのが例の十郎お兄ちゃん。よかったねえ、アザカちゃん、やっぱり男の子だったよ。しかも歳もいっこしか違わないよ。あ、お兄ちゃん、この子はアザカちゃんって呼んであげてね。恥ずかしがってかわいいんだ」

「ですから、アザカちゃんと呼ぶのは……」

 顔を赤くして抗議する黒ずくめの女性。

「え? 高校三年生?」

 あまりに大人びていたものだから、てっきり大学生くらいかと勘違いしていた。女性はややむっとした顔で十郎をみた。それから、目の前に立つと、鋭い視線で見下ろしてきた。

 そして、冷たい一言を放った。

「ちびだな」

 かちん。十郎は雫の言う青筋が額に浮かぶのを感じた。

「だよねー。ちょっとマッシブさが足んないよねー。こーいうのを期待してたのに」

 ロザリーは不満そうに口を尖らせると、白衣の内側からアメコミに登場しそうな筋骨隆々なヒーローのフィギュアを取り出して左右に振った。

「初対面でいきなりだな……つか、おまえが言うなちびすけ」

「へへーん」

「ちょっと失礼するよ」

 アザカが目の前に膝立ちになり、今しがた、ちびと蔑称した少年の体を触り始めた。ぺたぺた。首もとから腕、胸、腹、股の付け根から足の裏まで。

「ひゃっ」

 くすぐったくて、変な声が出た。あちこちにくっつけられる手のひらが妙にあたたかくて生々しい。たまに前髪や一つに縛った髪が揺れて、あまずっぱいような香りがした。

「おい、どこ触ってる!」

「騒がしいな、失礼すると言っただろう。まさかこんなのが相棒だとはな」

「相棒? おいちび、この変態女なに言ってるんだ」

「へ、変態!? 風紀正しきこの剣谷アザカを捕まえてその侮蔑、聞き捨てならないぞみじんこ!」

「風紀正しい奴が人をみじんこ言うな!」

「はいはい、お二人さん落ちついてー」

 ロザリーが冷静な声で止めに入った。アザカは眉を怒らせたまま黙って、シャツの内側にも手を入れて触った。ぺたぺた。それが終わると、

「ふっ」 

 鼻で笑われた。

「貧弱な体だ。こんな無様さで人を変態呼ばわりとはな。武道の経験は?」

「ねえよ」

「……なるほど」

 十郎が睨みつけると、アザカは皮肉そうな笑みをほどき、一転、不敵な笑みを浮かべた。それから、十郎の頭を両手で挟むと、戸惑う十郎をよそに、ぐいっと顔を近づけた。眼球のなかまで検分するみたいに覗き込まれた。

「な、なんだよ……」

「目だけは、いいかもしれませんね」

「でしょー」

 女子二人は目を合わせてうなずいた。なにか、安心したような顔でもある。

「おい、いい加減に目的を教えろ。俺をさらったのは――」

「もちろんこういうことだよ、お兄ちゃん」

 瞬間の動作だった。アザカが後ろ手になにかを取り出し、十郎の顔にはめた。それから、おそらくロザリーの手によって、体になにかを纏わされた。顔を塞がれたはずだが、視界は少し狭くなったくらいで、大して変わらない。どうやらお面らしく、アザカがペンを持ってその上になにか書き込み始めた。ロザリーはちゃぶ台の隣に立って作業を見守っていた。

「はい、かんせーい」

 とロザリーが明るく言うのに合わせて、アザカが手鏡を取り出して十郎に向ける。

「おい、これって、さっきの……」

 鏡に映っていたのは、アザカと同じ黒いローブを着込んだ、白い仮面の男だった。仮面の上には線が入り乱れ、顔のように見えなくもない模様を描いていた。

「さらに! なんと! 靴も厚底ブーツに換えておいたよー」

「ほんとだ、いつのまに……」

 立ち上がってみると、頭のてっぺんがアザカの尖った顎に並ぶくらいになっていた。それだけは少し嬉かった。それでも、アザカは見下ろして、鼻で笑ってきた。

(いつかあんたよりもでかくなってやるよ)

(できるならな)

 互いの意志がぶつかり合って火花をあげた。ロザリーが笑顔で間に入って、二人を引き離した。

「おーおー、お熱いね、お二人とも。十郎お兄ちゃん、アザカちゃんって今彼氏募集中なんだけど、どう?」

「誰がこんな変態女」

「へんっ……! ……こんな不健康な男、嫌です!」

 十郎とアザカは睨み合い、また眼光の火花を散らした。

「じゃあ、ま、相棒から初めてみるということで」

 その言葉とともに、ロザリーはちゃぶ台を部屋の隅に押し込んだ。ちゃぶ台があった真下からは、半畳の畳が姿を現した。そこだけやけに畳の色が若かった。

「なんだ? 相撲でもするのか?」

 十郎がとぼけたことを聞くと、ロザリーは細い足を持ち上げて、半畳に向けてフットスタンプした。

 どん! という音が鳴り響き、わずかに部屋が震えた。それから、部屋の震えは地響きのように大きくなっていく。窓ガラスが共鳴する。襖が木枠のなかで暴れる音が次第に高くなっていく。

「な、なんだよ、これ……」

 見上げると、アザカは相変わらず澄まし顔である。焦ると負けな気がして、十郎は普段通り、ダウナーな体を保つことにした。

 震動が頂点に達したとき、半畳が天井に向けて押し上げられた。畳を持ち上げたのは、縦に伸びる透明な直方体だった。正面にドアがあり、中は空洞だった。

「地下直通のエレベーターでーっす」

 と、疑問に答えるようにロザリーが言う。アザカはぽかんと口を開ける十郎を置いて、すたすたと中に入った。

「さ、十郎お兄ちゃんもどうぞ」

「は? なんで俺が」

「いいからさっさと入りなって」

 背中にタックルを食らった。そんな女子児童の突撃も受け止めきれず、十郎の体はエレベーターに押し込まれた。

(俺には女子小学生のアタックに耐え得るような体力もないのか……)

 貧弱な体、という偉そうな声が頭の中でこだまする。十郎はよろけて、アザカの体の前面に突っ伏した。柔らかいものに包まれる。初めて感じるものだった。見上げると、大きな谷間の向こうでアザカが目を見開いていた。目の端には涙。体がプルプルと震え、顔もどんどん紅潮していく。さきほどまでのクールな印象が顔から消え、辱めを受けた乙女のように萌えている。

「ああ、その」

 十郎はこの先に訪れることを思い、覚悟を決めて言う。

「いいもの持ってるな」

「死ねぇ! 変態はどっちだ、この腐れみじんこ!」

 狭いエレベーターのなかで、アザカは十郎に拳を叩き込んだ。

 チーフ・ゲームマスターの制裁が終わると、ロザリーがエレベーターの扉に手をかけた。手動式らしかった。

 十郎と目が合うと、少ししおらしくなった。申し訳なさそうな顔の彼女が言う。

「ごめんね、急なお願いして。でも、君にはちゃんと、下の世界を見て欲しいんだ」

『お兄ちゃん』は止めたらしかった。彼女は急に大人びて見えた。

「見る? なにを?」

 ロザリーはその問いを打ち消すように、また幼く笑った。

「二人とも気をつけてね。お兄ちゃん、そのマスクは絶対とらないでね。向こうでもこっちでも、正体を明かしちゃだめだよ。これから、お兄ちゃんはあっちの世界において特別なものになるんだから」

 扉が閉まっていく。十郎はロザリーに向けて呼びかけた。

「おい、特別なものってなんだよ、ただのゲームマスターじゃないのか?」

「十郎お兄ちゃんは――」

 扉が閉まる直前、静かな声がこう告げた。

「――あの世界の《バグ》になるんだよ」


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