白いプリント
近くにはコンビニしかなくて、デパートには車を使う必要がある、だけど最寄り駅は歩いて十分で行ける、そんな住宅街の一角に、私の家がある。
家を出て、反対側の道をずっと真っ直ぐに歩くと、小さなアパートが立ち並んでいる。とても古臭くて、人が住んでいるとは思えない。ベランダらしき場所には、小さい鉢が並んでいて、麦のような得体の知れない植物が顔を出していた。噂だと、そのアパートで、昔自殺をした人が居るらしい。多分嘘だと思うけど。
で、
――その向かいに、あるの。
「何が?」
目の前にいる、鈴山さんが、不思議そうに聞いてきた。
「お化け屋敷が」と私は即座に返す。
「ホント?」
今度は真横でずっと耳を傾けていた根木さんが、声を大きくして、慌てて口を押さえる素振りをした。
「お化け屋敷って言っても、私がそう思っているだけ……。幼稚園への通学路が、そのお化け屋敷の目の前だから、私の記憶に残っているんだけど、何も変わっていないんだ」
「変わっていない?」
「何も変わっていないの。私の幼稚園の時から、今の六年生まで、そのお化け屋敷の外見が、まるで時間が止まっちゃったみたいに、変化しないの」
そう言うと、二人は、あはははと、軽く笑った。
「カンナちゃんの、勘違いじゃないの?」鈴山さんは笑顔で言う。「それに、その外見が変わらないだけで、どうしてお化け屋敷になっちゃうの?」
「すごく汚いから。広いお庭があって、お金持ちが住むお屋敷みたいなのに、廃墟みたいなの。今にもお化けが出てきそうな感じで……」
そこまで声に出した瞬間、突然肩を叩かれた。はっとして振り返ると、「もう休み時間終わってる。席返して」
と、今私が座っている席の持ち主である、有野間麻友こと、マユちゃんが立っていた。女子の中で頭半分ほど背が高く、眼が大きくて顔も整っていて、更に小顔で、オシャレな服を着て大人っぽい雰囲気を出しているからか、男子に人気があった。その大きな瞳で覗き込まれると、同性の私でもドキっと胸が鳴った。
「あ、あれ、もうチャイム鳴ってた?」
私と根木さんと鈴山さんで、休み時間に雑談をしていた。適当な席に座っていて、どうやら、それがマユちゃんの席らしい。私以外の二人は、そそくさと自分の席に戻る。
「とっくに。先生が来るよ。しかも、次はテストだよ」
それは大変だ、全く勉強していない、と私は焦ると、素直に立ち上がり、マユちゃんに席を譲った。
「ありがとう」
先生が来た。手に、白いプリントを持ちながら。
ただ、私の中で、そのお化け屋敷のことが、頭の中でポン! と出現して、口に出しただけだった。恐い話を言い合っていたわけではなくて、他愛の無い話のつもりだった。
だけど、何故かわからないんだけど、あの後の授業中はずっとお化け屋敷のことを考えていた。トイレに行く時も、給食を食べる時も、先生のつまらない話の時も、頭の片隅に、あのお化け屋敷が浮かんでいた。そんな意識しなくても、と自嘲しても、蜘蛛の糸に引っかかった餌が振動を撒き散らすかのように、お化け屋敷は私の中で存在を誇張している。
気がつけば放課後になっていて、私の目の前には、そのお化け屋敷が聳えていた。真っ直ぐ家に向かえばいいものを、私は恐いもの見たさなのか、寄り道をして、お化け屋敷の目の前に立っている。
――やっぱり、変化無し、だ。
とても大きなお屋敷だった。私の家のような、家族三人いるだけでギュウギュウになってしまうような広さと違って、何人入っても狭いと思うことは無いだろう。
壁は、濃い緑色に染まっているのに、ところどころのペンキが禿げていて、中の茶色の木材が露出している。三階まである。広い庭には、無造作に草木が生えて、一種のジャングルのように茂っていた。庭の右側には、車が三台ほど停められるほどの車庫があるのに、一台も停まってはいない。
窓に人の姿が映ったことは無かった。灰色の草が生えている鉢が、ずっと同じ場所に同じ姿で置いてあるだけだ。窓から覗ける景色も、何一つ変わらない。
だから、人が住んでいない。と、私は確信していた。
「でも、それはちょっと安易だと思うよ」
と後ろから声をかけられて慌てて振り返ると、そこには、「……マ、マユちゃん?」がいた。
「ごめん、驚いた?」
ぺこっと頭を下げると、私の隣に立つ。
「うん。……ねぇ、今、私、声に出してた?」
「出してないよ。でも、カナちゃんの考えていたことくらい簡単にわかるよ」
まるで未来予知して全ての物事を知っているかのような口ぶりで、私は少し圧倒された。
「凄いね、まゆちゃんは……」
「嘘だよ」
子供のような笑顔で、マユちゃんはそう言った。
「嘘?」
「人が住んでいない、って昔カナちゃんが私に宣言したんだよ。忘れたの?」
「そうだっけ?」
「そう。ほら、三年生の時の、夏休みに」
マユちゃんがそう語りだすと、私の少し古い記憶が、すっと紐解かれていく。
あれは、そうだ、私が三年生の時、近所に引っ越してきたマユちゃんと仲良くなり、一緒によく遊んでいた。それで、ある時、このお化け屋敷の前で、私がそう自慢げに言ったんだった。
「よく覚えていたね」
「あの時のカナちゃん、私よりも背が高くて、凄く印象的だった。忘れられないよ」
私の視線にあわせるように、お化け屋敷を見つめた。横目で、マユちゃんの顔を見ると、凛とした艶があり、自分がいきなり年下になってしまったかのような錯覚を受ける。
「でも、本当にこの家、……不気味だね」マユちゃんは声を潜めて言う。
「絶対に、夜中にこの家に入ったら、お化けが出るよ」
「本当?」
「これで出ないほうが、おかしいって。でね、そのまま連れ去られて、もう二度と、戻ってこれないかも」
得意げに話すと、「そうかもね」とマユちゃんは少し声に熱をこめながら同意してくれた。「でも、大丈夫なの?」
マユちゃんは私の顔を見て問う。
「何が?」
「だってカナちゃん、昔は恐い話、嫌いだったでしょ?」
「そ、そうだっけ?」
「ほら、確か四年の時、カナちゃんが私の家にお泊りに来た時あったじゃん」その頃は、家が近いこともあって、よく交互の家にお泊りに行っていた。「その時、たまたまテレビで恐い話を見ちゃってさ、夜、眠れなくなってさ」
「あー、そんなこともあったね、でももうその先は言わないで、いいよ」
「震えながら私の手をずっと握っていたんだよねー。しかも、途中で泣いちゃったし」
小悪魔的な笑みで、マユちゃんは語る。
……私はあまりに暗い部屋が怖くて、しかも仲の良い友人の家だけど自分の家ではないので、さらに怖さが増幅してしまい、そのまま動けなくて、でも、途中で、……、ト、トイレに行きたくなっちゃって……。
「マユちゃん、それは今でも時々思い出してうわーってなる思い出だから、もう先を言うのを辞めて……」
「あれは大変だった。朝起きたら、カナちゃんがしがみついているんだもん、おかげで私にも被害が」
「そうだねー。マユちゃんのお母さんには、大変お世話に……」
そこまで言ってしまって、私は口を噤む。何故なら、マユちゃんの表情に、一瞬だけ、影が過ぎったからだ。
「……あ、あの、ごめん」
「別にいいよ、私はもう気にしていないから」
それは、嘘だ。
気にしているから、マユちゃんは……変わってしまったんだ。
会話が途切れてしまった。
夕焼けが、少し眩しい。お化け屋敷の埃の積もった窓にその光が当たり、宝石のように鈍く輝いていた。道路の角で、帽子を被った男性が、買い物袋を持ちながら、私達のことを一瞬だけ見て、すぐに行ってしまった。
ぎゅっ
と、手を握られる。「何?」
「昔、こうやってよく手を繋いでいたなー、と思って。あの頃、カナちゃんがいつも私をあっちこっちに振り回して遊んでたよね」
「確かに。周りの人に、姉妹みたい、って言われていた気がする。いつも一緒だったよね」
すぐに手を離して、マユちゃんは歩き始めた。
「今日一緒に遊ぼうよー」
マユちゃんは振り替えらずに言う。
「いいよ、何も予定無いし。久しぶりに、うち来る?」
今日はうちのお母さん、帰りが遅いから、会うことは、無い。だから大丈夫だ。
マユちゃんは小さく首を左右に振ると、ゆっくりと振り返った。「今日は、私の家で遊ぼう」
「マ、マユちゃんち?」
「いやなの?」
私の瞳を覗き込みながら、マユちゃんは問う。細い針のような視線だった。
「いやじゃないよ……」
「カナちゃんはまだ来たことなかったよね。私の部屋あるんだよ、広いんだよ、凄いでしょ」
「う、うん、凄い……ね。でも、ここから、どのくらいかかるの?」
「三十分くらいかな」
そんなに……という思いが、顔に出たんだろう、マユちゃんは不満そうに口を尖らした。
「さっきさ、言ったよね?」
「何を?」
「私の……お母さんのことを」
気味悪く笑いながら、マユちゃんはさらに口を動かす。「あまり思い出したくなかったのに、カナちゃんのおかげで、また思い出しちゃったよー」
「ご、ごめんなさい」
「本当に申し訳なく思ってるの?」
私が頷いた瞬間、「そう思っているなら、私の家で、遊んでよ」
有無を言わさぬ物言いで、私はそれに従うしかなかった。