少女と魔女さん、鬼ごっこ いち
――ねえ、知ってる? 森には魔女がいるんですって。
小さな小屋の、森の魔女♪
正気を失っした女たち♪
今日もお茶会、森の魔女♪
悪食の罪、おぞましや♪
いつまで鬼なの、森の魔女♪
子たちや森に、行くなかれ♪
男は食われ、女は鬼に♪
やつらは悪ーい、魔女なのさ♪
●
アリスは迷っていた。
周囲には木々。辺りはとっぷりと更け、薄暗い。その昼間には感じなかった不気味さは成程、この森が近隣の住民に「魔女の森」と呼ばれているのも頷けた。
最初はただ、木の実を拾っていただけだったのだ。父が行方不明になってしまい、母と自分だけになってしまった家庭に少しでも貢献し、母を励ましたいと思い立ち、アリスは森に行って採取していただけだった。
彼女の住む村の周囲に森と呼ばれるものは、ここ「魔女の森」の他にない。少々遠出をすれば村の採取地である森も確かにあったが、幼いアリスにはそこがどこにあるのか知らなかった。
アリスは躊躇した。村人たちの間で歌われる、「森の魔女」の歌を知っていたからだ。しかし彼女はどうにかして母親を驚かせ、喜ばせたかったのだ。
最初は森の入口の辺りで木の実を拾っていた。歌で忌まれている通り、村人たちはこの辺りに近付こうともしないため、木の実は沢山落ちていた。
アリスは夢中になった。夢中になって木の実を拾った。木の実を一つ拾うたび、母の「ありがとう」が聞こえる気がして、お気に入りの歌を歌いながら、木の実をエプロンドレスに次々と入れていった。
だから気付かなかったのだろう。木の実を追うように奥へ奥へと進んでいたことに。いつの間にかに辺りはとっぷりと更けてしまっていたことに。
突然、ばさばさ、と木から一斉に何かが飛び立つ。
「…………っ」
喉の奥で小さく悲鳴が上がった。きゅっとエプロンドレスを握り締める。やはり、怖い。今にも木々の間から気味の悪い笑い声を出しながら魔女が飛び出してきそうで、アリスは泣き出しそうだった。
エプロンドレスで作った穴のような空間の中を覗き込む。そこには、今まで拾ってきた木の実があった。
「……お母さん」
初めて一人で採取した木の実だ。何としてでも、これで母を喜ばせたい。
手の甲で涙の浮かんだ目を擦る。ともかく、こんな所で立ち止まっていても仕方ない。アリスはたどたどしい足取りで、恐る恐る進みだした。
しばらく森を進んでいくと、急にぼんやりと向こう側に灯りが見えてきた。
誰かがあそこにいるのだろう。重かった足取りも期待と希望で軽やかに、アリスは灯りに駆け寄って行く。
「……あれは、小屋?」
駆け寄ってみると、木々の向こう側に見えた灯りは、人が住んでいるらしき小屋だった。
不思議な小屋だ。そうとう昔に建てられたらしき小屋は、古めかしくどこか気味の悪い雰囲気があったが、同時になぜかアリスを強く惹き付ける何かがあった。
魔女の小屋かもしれない。そう思いながらも、アリスは導かれるように背伸びをしてようやくドアノッカーを掴み、コンコンと不器用に数回叩く。
「……ごめん、くださーい」
しばしの静寂。もしや聞こえなかったのか、と不安になってもう一度と背を伸ばそうとした時、小屋の中から「きゃー」という女の声と共にどさどさと何か重そうなものが落ちる音が聞こえた。
「…………」
一瞬の沈黙。すぐにドタドタと誰かが走っているらしき音が聞こえてきた。
ばん、と扉が開いた。思わず小さく悲鳴を上げ、後ずさる。
「ご、ごめんなさい! お待たせしたわ、ね……?」
出てきたのは、妙齢の女性だった。少々ほこりを被った美しい亜麻色の長髪に、どことなく母性を感じさせる優しそうな顔立ち。それに反した、野暮ったい感じの深緑色のローブが印象的だった。
「あら、女の子……」
「え、あ……はい」
彼女は「あらあらまあまあ」と驚いたように目を丸くしながらアリスを眺める。アリスは戸惑いながらも頷いた。
アリスも予測していなかった、およそ森の小屋には似つかわしくない人物だ。こういうところに住んでいるのは、大抵が何らかの事情を抱えていたり、職業的な理由がある男性だ。妙年の女性が一人でこんな森の中で暮らしていることはまず、ない。
「珍しいわね、こんな時間に小さなお客さんだなんて。まあ、お上がりなさいな」
「あ、ありがとう……ございます」
困惑を隠せず、小声で礼を言う。彼女は微笑み、アリスを招き入れた。
やはりというべきか、物は少ない。そのためか、小さいはずの小屋はやけに広く感じられた。目立ったものと言えば、数冊、本の散らばった本棚程度か。
「……これ、さっきの?」
「あー、うん。本棚の整理してたら、慌てて……ね」
そう言って彼女は照れ臭そうに笑う。よく見ると、深緑色のローブの端のほうが、ホコリで白くなっていた。おおかた、突然の来訪者に慌てて対応しに行こうとした時、転んで持っていた本の山を取り落としたのだろう。見られてようやく気付いたのか、女もパタパタと顔を赤くしながらホコリを落とすと、ごまかすようにゴホンと一つ咳をした。
「そういえばお名前、聞いてなかったわね。何て言うの?」
「アリス。お姉さんは?」
「お姉さん? お姉さんは、そうね……」
彼女は少々考えこむように人差し指を口に当て、何か思いついたのか小さくポンと手を打ち鳴らした。
「お姉さんは、魔女さんなのだー!」
魔女を自称する女はばさぁ、とローブを内側から手で広げて演出してみせるが、アリスの反応は微妙だった。
「ま、魔女さん、なのだー……」
「……えー」
訝しげな少女の反応に、自称魔女はがっくりと肩を落とす。
「え、何で? 普通はちょっとは怖がらない、かな?」
「だって、お姉さん見るからにドジっぽいし……」と言ってアリスの見やるのは散乱した数冊の本。「歌に出てくる魔女さんは、もっと怖そうだもん」
「歌に出てくる魔女?」
頷き、アリスは魔女の歌を歌ってみせる。自称魔女は「あー、あはははは」と苦笑するだけだった。
「まあ、それは置いといて。アリスちゃんは、迷っちゃったの?」
「うん……。木の実を拾ってたら、いつの間にかに」
「そっか。まあ、ここに迷い込んだのも運命でしょう。今日はもう遅いから泊まっていきなさいな。明日になったら、あなたの村まで送って行ってあげる」
「いいの?」
「もちろん。お客さんは大歓迎だよ」
そう言って女が微笑むと、アリスもつられるように微笑んだ。
「ありがとう」
「なんのなんの。さ、席について待ってなよ。お姉さんがささやかながら晩御飯をご馳走してあげましょう」
席を勧められ、アリスはそれに従う。「ちょっと待っててね」と女は言い残すと、パタパタと扉の向こうへ消えて行った。
しばらく待っていると、湯気を立てた一抱えほどもある鍋を携え、彼女は戻ってきた。
「わあ……」
思わず感嘆の声を上げてしまう。野菜と肉がよく煮込まれたスープに、小麦のパンが共に自分の目の前に置かれた。野菜や肉は自家栽培しているのだろうか。しかし、小麦のパンは高価だ。アリスも未だかつて食べたことがない。これ以上ない程のご馳走だった。
「お待たせ。さあ、たんと召し上がれ」
「いただきます!」
食前の祈りを済ませると同時に、ご馳走に飛びかかる。
木のスプーンでひとすくいスープをすする。肉は、味から察するに豚肉だろうか。保存のためかよく塩が効いている。きっと山の幸をうんと食べてよく肥えた豚だったのだろう。小麦のパンも、黒パンと違い、ふわふわとしておいしかった。
ご馳走は、迷っていた時に散々歩いて空腹だったアリスによってぺろりと平らげられてしまった。
「おいしかった?」
「うん!」
破顔して頷くアリスに、女は「そう、それは良かったわね」と笑った。