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ロデオの大会でジェイクが準優勝をした翌朝、目をさましたアルミナは、ジェイクの気配がない事に気付いた。
自堕落な生活になり気味なジェイクがこんな朝早くから家を出る事は珍しい。
疑問に感じたものの夕方には帰ってくるだろうと安易に考えていたアルミナは、テーブルに置かれた昨日の賞金と、そしてジェイクが残したらしい置き手紙を見つけた。
想像よりずっと綺麗な字だな、などとぼんやり考えてしまったのは、その内容を理解したくなかったからかもしれない。
それには、この賞金で大叔父の元へ行けという短い言葉が書かれてあった。それだけしか書かれていなかった。
アルミナはそれを見つめたまま呆然と立ち尽くす。
昨日、気持ちが通じ合ったと思ったのに。
その日ジェイクが帰ってくることはなかった。
彼が家を空けたのは、アルミナがジェイクと暮らし始めてから初めてのことだった。
初日は、夕方には帰ってくるだろうと思って、アルミナは革細工に専念して一日を過ごした。
別に出て行ったと決まったわけではないと自分に言い聞かせながら、彼の帰りを待っていた。帰ってこないつもりかもしれないと心の片隅では気付いていたが、まだ認めたくはなかった。
物音がする度に帰ってきたかと手を止め、細工を少し進めては、まだ帰ってこないのかと時間を気にする一日だった。
けれど夜になり、ランプを付ける時間になってもジェイクは帰ってこない。
怖くて悲しくて、思い詰めて不安で吐きそうな苦しさをこらえながら、アルミナは待ち続けた。眠くはなかったがそれは気持ちだけだったようで、神経を張り詰めた状態は負担になっていたのだろう、明け方に少しうとうととしていたらしい。
『俺を待つな』
そんな声が聞こえた気がして、はっと顔を上げる。その瞬間、自分はうたた寝していたのだと気付く。
夢を見たのかと思えば、かぶった覚えのない薄い毛布が肩に掛けられてあった。
「ジェイク!」
アルミナは飛び起きて家の中の扉を全て開ける。でも家中のどこにも人の気配はなくて、慌てて外へ飛び出した。
けれど、外にも人の気配はまだない。
「……どうして」
帰ってきていたのに、彼は去ったのだ。
一日こらえ続けていた涙が後から後から溢れてきた。
翌日は、寝不足で体が少しふらふらしたが、それでも落ち着いて眠れるような状態ではなく、アルミナは一日中男を捜して歩いた。だが彼は見つからない。
元々男がどこへ行っているのかをよく知らなかった。酒を飲んでくだをまいているいつもの場所はいくつか知っていたが、それ以外の所は全く想像も付かない。
元々ジェイクはアルミナとは相容れないと、彼の生活に踏み込んでいくことを許さなかった。
分かっていたことだったがそれでもアルミナは諦めきれず何日も探し続け、夜は泣きながら男の家で眠った。
賞金に手をつけたくなかったから、家で待つ間は仕事をした。そのせいでベッドの上で寝ることはなく、ソファーの上で寝るのが日常となっていた。
けれど最初の日のように、アルミナに毛布が掛けられることはなかった。
この街にもうジェイクはいないのかも知れない、そんな不安がアルミナの胸をよぎる。
どうしてと、心の中で彼を責めた。けれどその実アルミナは彼を責める権利などない事も分かっていた。
なぜなら最初から彼は迷惑だと言っていたのだから。それを無理矢理に押しかけ、挙げ句、ジェイクは賞金全てをアルミナのために置いて出ていった。
泣きそうな気持ちでアルミナは男を思い出し、そしてやっぱり彼は優しい人だと思う。彼ならアルミナを無一文のまま無理矢理たたき出すことも可能だったはずだ。けれどそれはせず、お金を置いて自分が出ていった。きっとそれがジェイクの出した最善だったのだろう。
私が、ジェイクの生活をかき乱したせいで、彼はとばっちりばかり受けている。
悪いのは全て自分だった。けれど諦めきれなかった。
頭では大叔父の所へ行った方が良いことを理解していた。
このままでは彼の帰る場所を奪っているだけになる。何より、どのみちいつまでもここに留まっていられるわけではない。大叔父の元へ行くのが最善だった。ジェイクを巻き込まないためにも。
けれど理屈では分かっていても、彼が欠けたことでぽっかりと開いた心の穴が、理解することを拒む。ここにいて彼が帰ってくるのを待ちたいと、心を揺るがす。
せめてもう一目会いたくて。どうしても別れなくてはいけないのなら、もう一目。
「あいたい」
ただそれだけだった。ジェイクに会いたくて胸が潰れそうだった。寂しくて闇に飲み込まれそうだった。
「ジェイク。会いたい。ジェイク」
呟く声は、小さな小屋の中に消えていった。
ジェイクが家を出て、十日が過ぎていた。
夜中、扉が開いた。
歩き疲れて眠りから覚めきれずにいたアルミナの側に、夜の侵入者が近付いてきた。
「……アルミナ」
夢の中で、アルミナは自分の名を呼ぶ男の声を聞いた。
頭を撫でる優しい感触。
「なんで、ここを離れない」
それは苦痛をにじませた声だった。
わずかに、アルミナの意識が浮上してくる。
「いつまでも、こんなところにいるんじゃねぇよ。あんたが住むような場所じゃねぇんだ……」
あの人が、泣いている。
アルミナは半分眠っている頭でそう思った。
泣かないで。
アルミナはその人影に手を伸ばした。けれど思うように動かない。仕方なく代わりに声を出す。
「あなたの側に置いて下さい」
そう呟いたはずなのに、出てきた自分の声は思いのほか不明瞭だった。それが不安で、はっきりとあかないまぶたの下から、ぼんやりと見える影に向けてもう一度手を伸ばす。
今度はさっきよりちゃんと動いて、自分の頭に触れる彼の手を握りしめることができた。力の入らないアルミナの手の下で彼の手がびくりと震える、しかしそれ以上動くことはなく、その手はアルミナの元に留まっている。
やっと捕まえた。ほっとして、意識がまた沈みかけるように、ぼんやりと現状に流される。
触れたその手はひんやりとして気持ちいいとアルミナは思った。気持ちよくて、その手を自分の頬に触れさせる。アルミナのなすがままに動くジェイクの手。
あり得ないことが起こっている。嬉しい。
アルミナは夢うつつの幸せに浸っていた。
自分の頬に触れる男の手の感触は、とても安心が出来て気持ちよかった。
「……起きているのか?」
夢の狭間でアルミナは男の声を聞く。
ずっと聞きたかった声が心地よくて、男の手を自分の頬に押しつけたまま笑みがこぼれる。
「寝ているのか……?」
夢の狭間にいるアルミナは答えない。
男の吐息が聞こえた。
「……あんたを、離したくない……。アルミナ……。愛している。愛しているんだ……」
男のもう片方の手が、アルミナの頭を包み込むように触れて、男の息がアルミナの髪を揺する。
アルミナの頭を抱きしめるようにして、男が頬をアルミナの頭に寄せた。
男に包み込まれた感触が気持ちよくて、そして、額に当たる無精髭の感触が、痛いけれど、くすぐったかった。
男に頭を包み込まれたまま、アルミナの意識はゆっくりと浮上していく。
そして、ゆっくりと、頭が働き始めて、ようやく状況を理解しはじめた。
この数日探し続けていた男が帰ってきているという事。そして夢の狭間で聞いた男の言葉。なにより自分を抱きしめる男の感触。
「……離さないで下さい」
アルミナはつぶやいた。
嬉しくて、そして男がすぐにでも出て行ってしまいそうで怖くて、こみ上げてくる涙をこらえながらつぶやいた。
「あなたが好きです。あなたでなければ意味がないんです。愛しています」
頬に当てた男の手を、アルミナは強く握った。
「……! 起きて……!」
男が反射的に体を引いた。
が、アルミナは手を離さなかった。
「今、目が覚めました」
アルミナは、会いたかった男の顔を縋るように見つめる。
「わたくしは、どこにも行きません。あなたがわたくしを疎ましく思っていないのでしたら、わたくしはあなたから離れたくありません。……お願い、置いていかないで」
男はアルミナに手を掴まれたまま一歩後ずさる。
「最初から、わたくしの気持ちは決まっていたのです。わたくしは、はじめからあなたに恋していたのですから。あなたでなければ、イヤだったんです。結婚するのは、あなたでないと意味がなかったんです。だから、離れていかないで下さい。お願い、そばにいて下さい……」
切実な気持ちはちゃんとジェイクに届いているのだろうか。
立ち尽くす男の姿からは、アルミナの言葉をどう受け取ったのかはうかがい知ることは出来ない。
けれど、アルミナは少しだけほっとしていた。
今まで伝えたくて伝えられなかった言葉をようやく口に出来たのだ。本当は言ってはいけないのかもしれない。けれど離れてみて分かった。例えジェイクを巻き込むとしても離れたくない。
自分勝手なその感情を、通常の状態であれば、アルミナが伝えることはなかったかもしれない。けれど目がさめたばかりの頭と、毎日彼を求めて捜し続けた余裕のなさがアルミナにそれを言わせた。
固まったように動かなくなった男を、アルミナは受け入れられないかもしれない不安を持って見つめた。
アルミナの真っ直ぐな視線を、男は息をのんで受け止めていた。そして彼は視線を落とし繋がれた手を見つめる。
沈黙が訪れた。
どのくらい時間が経ったのか。短いような長いようなときが過ぎた。逃げようとしていた男の手から力が抜け、アルミナの手にだらんとした男の重みが伝わってくる。
繋がれた手にかかるのは、諦めたかのような力ない重さだった。
「……あんたに、勝てたためしがないんだ」
男がぽつりとつぶやいた。
「ざまぁねえな」
男は口端をわずかにあげてアルミナに歩み寄ってきた。歪んでいるようにも笑っているようにも見える顔は、何を笑っているのか、何をしようとしているのか分からず、アルミナを不安にさせる。
「勝てるわけがねぇよな」
困ったように笑った男の顔が、アルミナのすぐ前にあった。
彼の言葉の意味も、その表情の意味も、アルミナは分からなかった。
そんなアルミナの様子に構うことさえなく、男はそのまま手を伸ばしてきて、ゆっくりと、優しくアルミナを抱きしめた。
そんな彼の温もりに驚く間さえなく、囁くような男のかすれた声が耳をくすぐった。
一目惚れしたのは、俺の方だったんだから。
耳に届いたその言葉に、聞き間違いではないかと男の顔をのぞき込もうとした。が、しっかりと抱きしめられ、彼女の髪に顔を埋めたその表情は確認できない。
「ジェイク……?」
声が震えた。
ほんとに? ほんとにわたくしのことが?
込み上げてくる涙と熱く震える胸とを抱えて、彼を窺おうとする。
男の瞳を見たくて、気持ちを知りたくて、そっと頬に触れ彼の頭を動かそうとしたが、アルミナの手の動きに男は逆らって、髪に顔を埋めたまま動かない。
逞しく筋肉質な彼の腕をアルミナが動かせるはずがない。
「ジェイク?」
小さな問いかけに彼はぴくりと身を震わせただけでそれ以上動こうとしない。アルミナは諦めて大きな胸に頭をもたせかけ、代わりに涙の滲むまなじりを彼の胸に押しつけながら囁く。
「あなたが好きです、愛しています。だから、お願い。そばにいて下さい」
涙でかすれた小さな声は、狭い家の中で確かに響き、しがみつくように男の胸に更に身を寄せると、応えるように抱きしめる男の手も力が込められる。
彼の服にしがみつくように服を握りしめてから、アルミナは彼を掴んでいた手が離れていたことに気付く。
男に抱きしめられたとき、アルミナが掴んでいた手はいとも容易く離れてしまった。彼をつなぎ止めていたアルミナの手の強さとは、それだけ小さな物だった。けれど男はそれを振り切れずにいたのだ。
ジェイクもまた望んでいた。離れがたいと感じていたのだ。
今掴んでいるシャツの感触も、自分を包み込む温もりも、確かに彼がそばにいることを実感させてくれた。
もう一度男の表情を窺おうと、ジェイクが埋めている肩口の方の手を動かして彼の頭に触れようと伸ばした。すると指先が男の耳に触れた。
熱を滅多に持たないはずの耳が、確かな熱を持っている。
その事実にアルミナは一瞬驚き、それから口元をゆるませ、男の顔を見るのをあきらめてその背中に腕を回した。
粗野な男が照れて顔を隠すさまは、とても愛しく心地よかった。
隙間無く触れ合う身体の感触と安心感、肩に埋もれた彼から聞こえる息づかい。
アルミナの胸に喜びが溢れる。
二人の時間がこれから重なっていくことを暗示しているように思えた。