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その男を見つけた瞬間、込み上げてきた感情がなんなのか、彼女には分からなかった。けれど、歓喜にも似た興奮であることだけは理解できた。切羽詰まったこの状況に、最もふさわしく、最も求めていた人を見つけたのだから。
急く想いをこらえながら、彼女は息を整え、ゆっくりと彼に向かって足を踏み出した。
「わたくしと、結婚して下さいませんか?」
アルミナの言葉に、その男は振り向いた。
地べたに座り込んでいる男は見るからに汚れ、ぼろぼろの服をまとい、髪はうっそうと伸び、髭は何日剃っていないのか分からないような風体だった。
男は持っていた酒瓶をごろんと落とすと、アルミナを見上げ口端を歪めた。
「どこのお嬢様か知らないが、何の冗談だ」
不躾にじろじろとアルミナを見ながら男が薄く笑う。
「謝礼は致します。お名前だけ貸して頂ければ結構ですので」
身なりの良いアルミナがいかにも浮浪者じみた風体の男に丁寧に頭を下げるさまは、ひどく奇妙な光景だった。
「身なりの良い割に、ずいぶんと腰の低いお嬢様だな。面白い。話ぐらいならきいてやるぜ?」
男がニヤニヤと笑いながらアルミナを見た。
「ありがとうございます」
アルミナはほっと息をつき、男から少し離れた場所に腰を下ろした。
「わたくし、結婚をさせられそうになっているのですが、それがイヤなのです」
ため息をついたアルミナに、男が意味が分からないというように目をむいた。
「そこで俺と結婚したら、意味がないんじゃないのか?」
「とんでもないです! わたくしは、自由が欲しいのですわ! 家と夫に縛られるのはごめんです。ましてや、わたくしを財産付きの家具程度にしか思ってないような夫など、御免被ります。わたくしが結婚してしまえば傷のある娘などいらぬと父もあきらめるでしょうから。出来るだけ父の意思に反し、私に「戻ってくるな」と言いたくなるような方が望ましいのです」
「すると、何か? あんたの親父さんを絶望させるために、最低の男として俺が選ばれたというわけか?」
嘲笑めいたその言葉に、アルミナは口ごもった。
「……失礼かとは思いますが、謝礼は致しますので……」
身を小さくしてつぶやくアルミナに男は小馬鹿にしたようすでにやりと笑った。
「断る。お嬢さんの遊びには付き合えねぇな」
「そこを何とか!」
アルミナが縋ったが、男はせせら笑って軽く躱す。
「金があれば人間が何とかなると思っているのが気にくわねぇ」
「そういうわけでは……!!」
男の言葉に、アルミナは思いもよらなかったとでもいう表情で首を横に振る。それを見て男は息を吐くと、ひょいっと肩をすくめた。
「まあ、確かに、あんたは、ご身分が高そうな割には、俺のような下々の物にも、あり得ないほどに丁寧に対応して下さっているのだろうさ。まあ、むしろバカにされているようにしか見えないがな」
その言葉に、アルミナの表情が悲しげに歪む。そして少し考え込むと、おもむろに口を開いた。
「一月ほど前でしょうか。ロデオの、試合でした。……あの時、あなたの姿をお見かけしたのです。馬の、扱い、見事でした。あなたが、一番輝いて見えました」
躊躇いがちな言葉の後、意を決したようにアルミナが男を真っ直ぐに見据える。
「ですから、あなたにお願いをしたのです。名前だけを借りるだけでも、せめて、自分がすごいと思った方が良かったのです。失礼なことを申し出ているのは、十分に承知しております。私の条件に当てはまるという判断をしたこと自体、失礼なことであることは分かっております。でも、わたくしは、あなたにお願いしたかったのです」
きっぱりと言い切ってからアルミナは耳まで赤く染め、そしてうつむくと、もう一度消えてしまいそうな声で呟いた。
「あなたが、良かったのです」
その様子に、虚を突かれたように男の身がこわばる。
「ずいぶんと口説き方の上手なお嬢さんだな」
そう言うと、溜息混じりに肩の力を抜き、男は自嘲気味に笑った。
「男の自尊心をついてくるとは」
誑かされているとでも言うような男の口調に、アルミナが身を小さくして首を横に振る。
「そんなつもりでは……」
「自覚なく言ったのか?」
男が笑った。
「かまわねぇよ。名前ぐらい使えばいい」
彼女の必死な様子に、男はほんの少しほだされたのかもしれない。どうでも良かった、とも言えた。謝礼とやらが酒代ぐらいになれば、それで。
アルミナの顔が輝いた。
「で、謝礼はどのくらいだ?」
「はい、こちらを……」
アルミナが取り出した皮の袋の中身を見て、男がため息をついた。空を仰いで額を抑える。
「あ、あの、少なすぎましたか……?」
「お嬢さん、ちょっと考え直して良いか?」
呆れたような、溜息混じりの声だった。
アルミナはあわてて必死の様子で言いつのった。
「あ、あのっ、お待ち下さい、その、もう少し用立てたいところですが、わたくしも勘当された後のことを考えると、これが精一杯なので……」
「逆だ! あんた、一体どこのお嬢様なんだ! 冗談じゃねえぞ。これだけあればまともに暮らしても一年は食える。これだけの金を、ぽんと出せるようなお嬢さまと、名前だけでも結婚したら、あんたの名前に傷をつけたという理由だけで殺されそうだ!」
「そんな……っ」
男は呆れたようなイライラしたような様子でアルミナにあっちへ行けというように顎をしゃくる。
「あんた、悪い事はいわねぇから、帰りな。簡単にそれだけの金を持ち出せるような裕福な暮らしをしていて、自由になったところで一人で生きていけるとは思えねぇ。あんたなら、その金を何日で使う? 女が日がな一日働いても、それだけの給金を得ようと思えば二年はかかるぜ? 女が一人で生きていくのにもらえる給金を考えれば、使える金はたかが知れてる。親の庇護下を出たあんたが、一人で生きていけるわけがねぇ。悪い事はいわねぇ。帰りな」
話にならないと切って捨てた男に、アルミナが縋った。
「い……行く当てはあるんです! 隠居をしている大叔父に頼るつもりなんです。仕事も、手に職をつけております。それを父の名前とは関係なく買ってくれる方も見つけております」
「あんたはそれで良くても、俺はあんたの手助けをしたせいで、あんたが不幸になるのは後味も悪けりゃ、あんたの親父さんに目をつけられるのも胸くそが悪い。そんな悪巧みに乗る気にはならねぇよ」
冗談じゃないと、とりつくしまもなく男は立ち上がりアルミナに背を向けた。
その背中に、アルミナの悲鳴のような叫び声がかかった。
「じゃ、じゃあ、わたくし、他の方に頼みます!」
「はぁ?」
いかにも脅すような、男に挑戦でもするような口調のアルミナの叫びに、男は思わず振り返る。
「わたくし、このお金を見て、喜んで飛びついてくるような男に頼みます!」
それでも良いんですか、といわんばかりの、責めるような視線に、男は豆鉄砲でも食らったような顔をしてアルミナを見つめ返した。
「……良いんじゃねぇのか?」
「あなたが、断ったせいで、人間性の悪い男に頼んで、一生食い物にされるかもしれません!」
目に涙を溜めて、アルミナが震える声でたたみかけてくる。
その、男に助けを求める様子に、男は動揺した。
「あなたが断って、わたくしが不幸になったら、あなたのせいです……!」
そんなバカなと言いたくなるような理論に、男は頭を抱えた。
何故か、自分はこのお嬢さまに気に入られたらしいと言うことだけは理解できた。
「俺じゃなくても良いだろうよ?」
何なんだと言いたくなるこの状況に、男はこめかみを押さえる。けれどそんな事には構う様子もなく、アルミナは涙声で切々と訴えてきた。
「わたくしは最初に言いました。たくさん悩んで、あなたが良かったのです」
男は頭を横に振る。付き合いきれる内容ではなかった。
「名前だけだろうが。誰でも……」
「あなたが良いのです!」
「わけがわからねぇ」
男はめんどくさそうに頭をがしがしとかいた。
「あなたは親切です。次探した方が、こんなに親切とは限りません。わたくしの見る目は正しかったのですわ。あなたのように誠実な方とは限りません! あなたに頷いてもらえるまで、ここにいます」
涙目で訴えてくる彼女が、きゅっと男のよごれた袖口をつまんだ。
男は長く重いため息をついた。
ずいぶんと聞き慣れない言葉を聞いた気がしていた。だが、残念ながら気のせいではない。親切だとか、誠実だとか、ずいぶんと自分に縁のない言葉だと、男はあきれていた。
「何を勘違いして、そうなるのかは分からないが……」
「勘違いではありません! あなたはお金を受け取らなかったし、わたくしの心配もして下さいました!」
「誤解だ! 気持ち悪いことを言うな! 冗談じゃねぇぞ。金を受け取らなかったのは、それだけあんたの親父さんが有力者だと思ったからだし、あんたを心配したわけじゃなくて、現実を知ってとっとと帰ってもらうためだ!」
男は悲鳴を上げるように怒鳴った。
「それでも、目先しか見えないような者は、この金額に目がくらみます。わたくし、この金額がどの程度のものだかは、しっかりと存じております。わたくしは、あなたのおっしゃるようなお嬢さまではありません。こんな町中からは離れたところで、山の中を走って育った田舎者ですわ。最近、父の都合で……政略結婚の道具として思い出されて呼び戻されるまでは、田舎の村人とほとんど変わらぬ暮らしをしておりましたわ。わたくしが望むのは、父に呼び戻される前までの自由です。心ない人間の中で暮らしていくのは死ねと言うような物です。お願いですから、力になって下さい」
目の前の縋るようなまなざしを前にして男はひるんだ。
どうすればいい。いや、どうするもこうするも、断る以外ないだろう。
男は彼女の視線を受けながら当然の答えを出した。何と言われようと彼女の話に乗ってやる筋合いはない。大金と言ってもこんなあぶく銭、すぐに消える。そんな物のために、こんな話に乗るのは阿呆のすることだ。
だが、彼女の縋る瞳に気押されて、男はすぐにそれを言う事ができずににらみ合うこと十数秒。
潤んだ瞳が、男から逸らされることはなかった。
男が諦めたようにため息をついた。
「……まあ、良いだろうよ」
こぼれ出た言葉は、男が下した判断とは正反対の物だった。
男自身、うなずいてしまった物の、こんな申し出を受けてしまったことは不可解だった。情にほだされるほど生ぬるい生き方をもうするつもりはないというのに。
なのに、なぜだかそれを撤回する気にもなれず、溜息が漏れた。
真っ直ぐに、男を信用し切った光をともして見つめてくるこの瞳が悪い、と男は自身に言い訳をする。
人生でこんなに疲れたことは、ついぞないと思った。
自分でも思いも寄らない決断をしてしまい、ずいぶんと投げやりな気分で彼女を見ていると、みるみるうちに彼女のこわばった顔が笑顔に変わって行く。
「ありがとうございます!」
アルミナが男の手を取った。
「わたくし、アルミナですわ」
男の右手を両手で包み込むように握りしめ、弾んだ声で自己紹介をする彼女に、男は力の抜けた、遠い目をして溜息混じりに答えた。
「俺は、ジェイクだ」
項垂れた男の手を、アルミナがきゅっと力を込めて握り、とても嬉しそうに微笑んだ。