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雪の街の少女  作者: asami
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7・終戦

 遠藤みゆき。六歳の彼女は牡丹雪の降りしきる中、その命を落としたのだった。

 昭和二十一年、二月。終戦の翌年のことだった。午後、遠藤シゲは娘のみゆきを連れて歩いていた。

朝から降り始めた大粒の雪は、一向に止む気配がなかった。降りしきる雪の中、波を打ったように凸凹なわだちができている悪路を、ゆっくりゆっくりまたぎながら歩いていた。

 道の左右には大人の背丈ほどもある大きな雪山ができ、視界は一面真っ白だった。

「お母さん、みゆきの短靴、桃色にしてね」

 みゆきは学校に上がるのを楽しみにしていた。四月から一年生になるのだ。気の早いみゆきは早春にもまだ遠い厳寒のこの季節に、どうしても短靴を買いたいのだと言ってシゲを困らせた。

桃色がお気に入りのみゆきは、今日も桃色のオーバーを着て上機嫌だった。

「はいはい。桃色ね」

 店に行って、短靴がなければ諦めるだろう。シゲはそう思っていた。

やっぱりハイヤーに乗ればよかった。

旭橋を渡ってロータリーにたどり着いたところで足を止め、シゲは頭からすっぽりとかぶった角巻きの襟口をつかんで首元に寄せて、ため息をついた。

 この雪で電車も運休したのだろう、その姿は見えなかった。人っ子一人歩いていない。

「ねえ、みゆき。雪がひどいからお買い物は明日にしましょう」

「今日買うの。今日じゃないと嫌!」

「困った子ね」

 初孫ということもあって、みゆきはとても大事に育てられていた。

普段であれば乳母が同行するのだが、入学の準備は母親である自分がしたいのだとシゲは姑に言っていたのだった。

それなのに生憎の雪。

 ついてないわ。

 シゲは再びため息をついて、みゆきの顔を見下ろした。

 せっかくのお買い物なのに。

と、みゆきは眉を寄せて今にも泣きそうな顔をしてこちらを見上げ、そう訴えている。

 牡丹雪は次第に風も入り混じり吹雪の様相を呈してきた。

「わかったわ。でも、一度家に帰ってハイヤーを呼びましょう」

「いや、戻りたくない」

 みゆきは頑としてその場から動こうとしない。普段は人に気を使う優しい子なのだが、皆がちやほやするものだから、こうといったらきかない筋金入りの我侭に育ってしまった。

シゲは腹が立った。

「勝手になさい。お母さんは知りませんよ。帰りますからね」

 そう言ってシゲは娘に背を向けて、もと来た道を引き返した。

「お母さん、待って、置いていかないで!」

 やれやれ。

 シゲは苦笑しながら振り返り、駆け寄ってきた娘と手を繋ごうと手を伸ばした。

「あっ、手袋を片方落としちゃった」

 シゲの手が届かないうちに、みゆきはくるりときびすを返してまた走って行った。

「みゆき!」

 みゆきはでこぼこの道を、おぼつかない足取りで下を向きながらうろうろしている。

 もう、仕方ないわね。

 シゲはみゆきのほうへ歩き始めた。

「お母さん! あった!」

 吹雪の中、横断歩道の途中で、みゆきは片手を高く上げて赤い手袋をこちらに向かってひらひらさせた。

と、そのとき、ロータリーを急カーブしながら一台のジープが飛び出してきた。

「みゆき!」

道路の真ん中にいた幼いみゆきは、ジープに気づいてもその場から動けなかった。

鈍い音。いや、音はほとんどしなかったのかもしれない。ただ、ジープにぶつかって人形のように跳ね飛ばされたみゆきの体が宙に舞い、雪の上にとさりと落ちる音だけがシゲに聞こえたのかもしれなかった。

そのときの映像だけが、音もなくシゲの目に焼きついた。

手には赤い手袋を握り締めたまま、桃色のオーバーを着たみゆきが仰向けに横たわっていた。僅かにその手がぴくぴくと動いていた。白い雪に、どこからともなくじわじわと鮮血が滲んでいった。

ジープから降りてきた若い将校は、みゆきの首を手で触れて首を横に振った。

ソーリー。ソーリー。

シゲに駆け寄ってきた若い将校はそう言って、幾らかのドル紙幣をシゲの手の平に押し付けるようにして持たせ、ジープはそのまま立ち去った。

どうすることもできずにシゲは立ち尽くしたまま、雪の上に横たわるみゆきを呆然と見つめることしかできなかった。

気が動転していたシゲは、その後どうやってみゆきの亡骸が家に運ばれたのか覚えていなかった。その将校はどんな顔だったか思い出そうとしても思い出せないのだ。ただ、電信柱のようにのっぺりと背が高くて、ドル紙幣を強引に手渡した手が異様に大きく感じたのを覚えているだけだった。

 後日、みゆきが街の有力者の孫だとわかると、慰謝料は十分に支払われた。だが、当事者はただの一度もみゆきの御前に頭を下げには来なかったのだった。名前すらわからないその若い将校は本国へ帰されたと聞いた。

 運が悪かった。相手が進駐軍では。慰謝料を貰えただけいい。あなたはまだ若いのだから、また赤ちゃんは授かることだし。

シゲは周囲からそんなふうに慰められた。

またって……あの子は、みゆきはもう生まれてこないのに。あの子を死なせた将校は何事もなかったように家族の元に帰って行った。あの子の命はなんだったの。あの子は何のために生まれてきたの。

 事故にあった直後はまだあの子は動いていた。もしあの時、あの将校が病院に運んでくれていれば助かったかもしれない。いいえ、近くの家に駆け込んで助けを求めていれば。もし吹雪いていなかったら。進駐軍がいなかったら。車なんてそう通っていなかったのに。戦争は終わったのでしょう? どうしてまだいるの。七月の空襲さえ無事で過ごせたというのに。どうして今になってあの子の命を奪うの?

 行き場のない怒りがシゲを押しつぶし、攻撃の矛先は自分に向いていった。

あの時、人を呼べたはずだ。なのに自分はただ見ていただけ。みゆきはまだ息があったのに。

始めからハイヤーに乗っていたらよかったのだ。出かけるのをやめていたら。手袋を落とさなければ。

あんなもの編まなければよかった。

シゲはそれ以来ふさぎこみ、家に閉じこもるようになってしまった。

 子のいなくなった遠藤家は火が消えたようにひっそりとし、笑い声が途絶えた。

 また孫を抱かせてくれないかねえ。

 そんな姑の言葉にシゲは愕然とした。

 みゆきは、みゆきのことはもう忘れてしまったの? お義母様だってあんなに可愛がっていたのに。葬式であんなに泣いていたのに。

 人なんて口先だけだ。

なにもかも信じることができなくなった。シゲは人と話すのが怖くなったのだった。

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