5・旭川
凍ってつるつるになっている白い歩道に、義母は足元を注意深く見ながらそろりそろりと降り立った。
「別の街に来たみたいね」
顔を上げた義母は、複雑な顔をして白い息と供に呟いた。
両親が亡くなったときも葬式には行かなかった義母。義母にとって、六十年振りの故郷となる。懐かしさがこみ上げるようなものは何一つ残っていないのかもしれない。
JR旭川駅前の正面に、歩行者天国となっている買い物公園が真っ直ぐに伸びていた。
今は冬まつり期間ということもあり、買い物公園内には氷像が陽の光に照らされて輝き、人の往来も多かった。
通りに整然と百貨店が並ぶ、碁盤の目の街。
「あの頃は、デパートは丸井さん。駅前には闇市が軒を並べていて、駅裏はサムライ部落があって……」
周子に話すという風でもなく、義母は記憶をたどるかのように呟いた。
闇市の意味は周子にもわかったが、サムライ部落という言葉は初めて聞く。
樺太引揚者が行き場もなく、バラックに住んでいたのをそう呼んでいたのだと義母は教えてくれた。
歩道はロードヒーティングになっているのだが、途切れ途切れになっており、雪の段差が歩き辛い。
日差しが急に陰った。
途端に夕暮れのように薄暗くなり、じわじわと体の芯が冷えてきて、周子は肩を丸めた。
高校生くらいの若い娘が素足に膝丈のスカートで歩いていく姿に、東京生まれの周子は目を丸くした。
「三十も過ぎると若い娘の気持ちなんてわからなくなるものかしら」
周子さんだってまだ若いじゃないの。義母はそう言って優しく微笑んだ。
「ねえ、ママ! 雪だらけ! 雪だるま作れるね」
初めての雪景色に、美雪は大はしゃぎで歩道脇の雪山から雪を手にすくって握り、早速雪玉を作った。美雪のお気に入りのピンクのコートは見る見る雪だらけになった。
「美雪、まずホテルに荷物を置いてから……」
周子はどこを見て回るのか、何も決めていなかった。義母が動物園に本当に行きたいわけでないことはわかりきっていた。だから、周子はお決まりの観光コースを行くことは義母が希望しないだろうと、旅行会社にはフリープランを申し込んだのだ。
「……お義母さん、どこへ行きましょうか」
「美雪の遊べるところでいいのよ」
義母は笑ってそう言った。
「でも、お義母さんが行きたいところは?」
「何処ということはないの。ただ、生まれ育ったこの街に、もう一度だけ来てみたかった。それだけなの」
「……高野の叔母さんの所にでも、顔を出しに行ってみたら?」
「あの人も息子夫婦に世話になっているようだから、気兼ねするでしょう」
実の妹をあの人と言う義母。
何があったのかわからないが、よほど周囲に反感を持たれて勘当されたのだろうか。それならば、なおのこと会って和解したほうが良いのではないか。もしかしたら、もう会えないのかもしれないのだから。
周子は義母の病気のことを思い、そんなことを考えた。
それが顔に出ていたのだろう。義母は周子の顔を見て、
「また今度、会えるでしょう」
と、微笑んだ。
「そうですね」と、周子は慌てて返事をした。
「ねえ、寒いよう」
雪玉作りに飽きた美雪が、周子のコートのすそを引っ張った。
「じゃ、とりあえずホテルへ行きましょう」
ホテルは駅前から歩いて十五分程でつく距離だと旅行代理店で聞いていたが、義母が風邪でも引いたら大変だと思い、歩いて行くと言ったのを制して周子はタクシーを拾った。
タクシーは駅前から三・六街と呼ばれる飲み屋街を通った。
「この先に、ロータリーが今もあるのかしら」
義母は進行方向の先に目をやって呟いた。
「ロータリー?」
周子には何のことだかさっぱりわからなかった。
「放射線状の交差点のことだよ。ほら、パリの凱旋門にもあるあれだよ。ちっちゃいけどね。まだちゃんとあるよ。お客さん、前にも来たことがあるのかい」
「ええ、だいぶ昔に住んでいたの」
白髪交じりの年配の運転手は親しい友達に話しかけるように、ぶっきらぼうな話しかたをした。周子は戸惑ったが義母は微笑んでいた。
「へえ、どの辺に住んでいたのさ」
「旭橋の近くに……」
義母は急に顔を曇らせ、口にしたくないことを言うときのように声を潜めて答えた。
義母は何を思い出したのだろうか。瞬きもせず、この道路の先にあるという旭橋の方角をじっと見つめている。周子は重々しい空気の中にいる義母に声をかけるのをためらった。
ホテルの部屋へ荷物を置いた後、美雪にせがまれ、結局、旭山動物園へと出かけた。つなぎのジャンバーを着て完全防備をした美雪は、汗をかきかき、人ごみでごった返している園内を走り回って大はしゃぎだった。義母も黙って孫の後をついて歩いた。
美雪は遊び疲れて夕食もそこそこに早々に眠りについた。
周子は昼間の旭橋のほうへ向けた義母の横顔が忘れられず、そのことを義母に訊きたかったのだが、義母も疲れたからと早くに床についてしまったので、周子も仕方なく眠ることにしたのだった。