23・想い人
「あの……姉さん。一つだけ、ずっと引っかかっていたことがあって……訊いてもいい?」
今度は高野の叔母が遠慮がちに切り出した。
義母は少し身構えるように顔を緊張させたが、どんなこと? と聞き返した。
「ずっと引っかかっていたことなの。姉さん、誠さんと祝言をあげる前、誠さんのお兄さんと……」
「ママ、ジュースも飲みたい!」
パフェをぺろりと平らげた美雪が話を中断させた。
「だめ! 今甘いもの食べたばかりなんだから」
「じゃあ、あっちで遊んでもいい?」
「走り回ったらだめよ!」
「はーい」
美雪は早速ホテルのロビーに走っていった。
「まったく、ごめんなさい話の途中で。あの、やっぱり私も席を外しましょうか」
「いいえ、いてくれる?」
義母が立ち上がろうとした周子を引きとめた。
「トミちゃんはやっぱり気付いていたのね」
義母の言葉に、やっぱりそうなんですねと高野の叔母は目で語りかけた。
「長男の勇さんとはお付き合いをしていました。でも、誰にも言わずに終わりました」
婚約を申し出ようとした矢先、勇さんに赤紙――召集令状が届いたのだ。
それは当事では死を意味していた。
その直後、勇さんからシゲに別れを告げる言葉があった。
日本は負ける。自分は帰ることができないだろう。君を未亡人にはできない。
シゲは泣く泣く勇さんと別れた。
赤紙が届いたのは次男の清さんも同時だった。
遠藤家は跡取りを二人も奪われて焦っていた。そこへ、三男の誠さんが高野シゲさんを嫁に貰いたいと両親に告げたのだった。
誠さんとの縁談は親同士で話がとんとん拍子に進んでまとまった。
「でも、勇さんのことを断ち切ることができなかった。せめて待たせて欲しいと勇さんに何度も頼んだけれど、もう君は誠の婚約者だからと言うばかりだった」
出兵の前日、シゲは最後に勇さんと逢引した。
「せめて最後に会いたいと無理を行ったのは私です」
義母の目は潤んでいた。膝の上できつく拳を握り、肩を強張らせて必死に泣くまいとしているようだった。
「勇さんに愛されていたという証が欲しかった……勇さんが私の元に返らぬというのなら、勇さんとつながっていられるものが欲しい」
シゲは切望した。勇さんがここにいて自分と過ごしたこの時間が永遠であるように。
「あの子は……みゆきは、勇さんの娘でした」
かすれた声で、辛うじて聞こえた。
「誠さんは知っていたの?」
叔母の声が上ずった。義母を責める険しい顔。
無理もない。高野の叔母は誠さんのことが好きだったのだから。
「知っていました」
「姉さん、酷い……」
叔母は怒りを抑えるかのように、両手を合わせて眉間にあてがった。
「本当に酷いことを……。優しい誠さんは何もかも受け入れてくれたのに。みゆきが亡くなって勇さんとのつながりがぷっつりと切れてしまって、自暴自棄になっていました。何をしても誠さんが怒らないことに苛立ち、八つ当たりをしては罵り、困った顔を見て憂さ晴らしをしていました」
考えながら話したら話せなくなるとでもいうように、感情を押し殺して義母は淡々と語った。
「遠慮なんかしないで、誠さんに告白してしまえばよかった」
叔母は言葉を吐き捨てて、少し乱暴にティーカップを口に運んだ。
「……トミちゃんが目を覚まさせてくれたの。あのハンカチのことでトミちゃんに嫉妬したとき、誠さんがなくてはならないひとだとわかった」
叔母は持っていたカップをゆっくりと受け皿に戻しながら、意外だというように少し目を見開いた。力が入っていた肩が下がった。
「……そうだったの。皮肉ね。私が二人の仲を取り持ってしまったのね」
叔母の言葉は少し柔らかくなっていて、さばさばした口調だった。
義母の言葉にとどめを指されたといった感じだろうか。どうもがいても太刀打ちできない。二人の間には入り込むことはできなかったのだとはっきりわかったのだろう。
「ごめんなさい」
義母はすまなさそうに俯いた。
「……誠さんは、姉さんのことがずっと好きだったから」
義母は横に座る高野の叔母に向かって頭を下げながら、もう一度小さくごめんなさいと謝った。
「もう、いいの。二人で東京に出て幸せだったんでしょう?」
「貧乏だったけれどね」
若い頃を思い出したのか、義母は遠い目をして微笑んだ。
義母の人生も叔母の人生も戦争で狂ってしまったのだ。戦争で人生が大きく左右されてしまう、そんな人は珍しくないのかもしれない。そういう時代だったのだから仕方が無いのかもしれないが、周子はそう思えなかった。
もし、勇さんに召集令状がこなかったら、シゲと勇さんが一緒になってトミは誠さんとうまくいっていたのかもしれない。そうしたら、シゲは故郷を離れることなく姉妹も疎遠になることは無かったのだ。
そんな想像をしていた周子は義母の一言にはっとした。
その細めた視線を握り締めていたお手玉に落として、義母はしみじみと言ったのだ。
「旭川に来て本当によかった。これで思い残すことは何もないわ」
叔母は硬い顔をして黙ってしまった。
「そんな、お義母さん……」
それ以上の言葉を周子はかけられなかった。
義母の病気のことを思うと、口元をぎゅっと締めて胸に熱いものがこみ上げてくるのをじっと耐えるのが精一杯だった。
涙を堪えていると思われたくなくて、周子は二人の背後のラウンジ壁面に広がる大窓を真っ直ぐに凝視した。大粒の牡丹雪がぽとりぽとりと落ちていくのが見える。
「今日も雪ですね」
そんな言葉しか思いつかなかった。
「そうね。牡丹雪ね」
義母は窓のほうを振り向いて目を細めた。
この雪も見納め。
雪を見つめるその姿は、この雪景色を目に焼き付けているようだった。