20・天使
「お母さん、もういいの」
二人はお互いの存在を確かめ合うように、暫くじっとそうしていたのだった。
満足したのか、亡霊のみゆきは母親の腕から離れて、母親に向かって寂しそうに微笑み返し、美雪の方へ向き直った。
「美雪ちゃん、ごめんなさい」
そう言って、亡霊のみゆきは義母の手を離したのだ。彼女は吹っ切れたようなさっぱりした顔をしていた。美雪はきょとんとしている。
「お母さんは、もう、みゆきだけのお母さんじゃないんだね」
亡霊のみゆきが目を細めて美雪に優しく微笑んだ。
「みゆきが近づいても、話しかけても、お母さんはこっちを見てくれなかった。だから、お母さんはみゆきのことを忘れたのだと思っていた。でも、それは違ったの。本当はみゆきのことをずっと覚えていてくれた。それだけで嬉しかった。だから、みゆきはもう大丈夫」
雪の中、ロータリーの中央で、亡霊のみゆきは、ふわふわと踊るように歩き始めた。
母親の顔を覗き込むほど近寄ったかと思うと、軽やかな足取りで離れ、楽しそうにくるくると周りを飛び跳ねている。美雪も義母も呆気に取られた様子でその姿を目で追っていた。
その背中には白い羽が生えているような気さえしてくる。
天使のようだ。いや、みゆきは母を迎えに来た天使なのだ。
周子はその姿をうっとりと見つめた。
「うふふ。お母さんは一人じゃない」
天使のみゆきが歌うように声を弾ませる。
「一人じゃない」
リフレインする声が周子の耳にまとわりつく。
あちこちと飛び回る天使のみゆきは、次第に色がなくなってきていた。
はっきりと存在していたその姿が、雪の色に同化していき、今はもう、雪が透けて見えるようになっていた。
彼女の声だけが残っている。それも、最後にはぴゅうぴゅうと風の音なのか、声なのかわからなくなって消えていった。
その時、路面電車の軌道に、すうっと音もなく電車が姿を現して、義母の目の前に停まった。
乗車口が開き、そしてまたゆっくりと閉じた。
路面電車の窓辺に天使のみゆきが見えた。
「お母さん、お花ありがとう」
開いている窓から顔を出した天使のみゆきが、母親に向かって笑顔でそう言った。屈託のない笑顔だった。手には、三人でロータリーにお供えしたあの花束を抱えていた。
「みゆき!」
「みゆきちゃん!」
義母と美雪は路面電車の側に駆け寄っていった。天使のみゆきは二人に向かって手を振っている。
「バイバイ!」
路面電車はゆっくりと旭橋へと進み、橋を渡り始めたところで雪の中へかき消えてしまった。
周子は路面電車が消えた旭橋の方をぼおっと見つめた。
天使は義母を残して行ってしまった。
よかった。
周子は安堵していたのだが、何故か寂しさが残った。
義母は愛娘と一緒に行きたかったのではないか。そんな風に思ってしまったのだ。
次に周子がロータリーに目を移したときには、元の近代的な塔が立つ、現在のロータリーに戻っていた。そこには美雪と歳を重ねた元の姿の義母がたたずんでいた。
周囲の景色もビルが増えている。
牡丹雪だけが、変わらないまま降り続いていた。
夢を見ていたのだろうか。
そんな気さえしてしまう。でも、確かに天使はいたのだ。
「ママ!」
美雪が元気よく駆け寄って、周子の太もも辺りにドンとぶつかるように抱きついてきた。
「ママ、ママ、みゆきちゃん天使なの?」
美雪も同じことを思っていたのだ。興奮冷めやらぬといった感じで、美雪は目を大きく見開いている。
「そうね、きっと天使だったのね」
放心状態の義母も、美雪の後から静かに歩いてきた。
「周子さん……夢だったのかしら」
確かめるように、義母は不安そうな瞳で周子を見つめた。
「いいえ、夢なんかじゃない。みゆきちゃんは今ここに確かにいました」
「そうね、そうよね」
義母は頷きながら、泣き腫らした目を再び濡らし、両手で目頭を押さえた。
その時、ぱっと辺りが明るくなった。
ロータリーの電飾に明かりがついたのだ。
温かみのあるオレンジ色の電飾が、中央にある塔を中心に円形に張り巡らされ、塔を幻想的に縁取っていた。
どういうことだろう。こんな真夜中に点灯されるはずがないのに。
「綺麗だねー」
美雪がうっとりと眺めていると、電飾はすっと消えた。二、三分のことだったろうか。
これはきっと、みゆきちゃんの仕業だ。
「みゆきちゃんは今もきっとお義母さんの傍にいます」
周子は自信を持って義母にそう言った。
義母は瞳にうっすらと涙を滲ませて、落ちてくる牡丹雪を愛でながら黙って頷いた。