19・昭和二十一年(2)
「お義母さん! 行っちゃだめ!」
叫んでも声は届かない。
周子は焦った。
違う世界で起こっている出来事のように、映画の中の一場面を見ているように、周子には何も手出しはできない。ただ、傍観者としてこの状況を目に焼き付けておくことしかできないのだ。
でもこれは、夢なんかじゃない。
何もできない周子は悔しかった。
牡丹雪に絡め捕られるようにして連れ去られていく義母を、自分には救うことはできないのか。
もがいても、力を振り絞ってみても、周子の足は雪の上に凍りついてしまったように、持ち上げることすらできないままだった。
「だめーっ! おばあちゃんを連れて行かないで! 大事なおばあちゃんなんだから!」
美雪の声だ。
我が子の叫び声がはっきりと周子に聞き取れた。
大きく澄んだ声が響き渡り、同時に、ビデオテープを制止させたかのように、吹雪が止まった。
止んだのではなく、止まっていた。雪は空中で静止していた。不気味なほどの静寂さ。
そして、義母と手を繋いでいた小さな影――今は周子にも、宙に浮かぶ牡丹雪の合間からはっきりと見える、青白い顔をした亡霊のみゆきと、その母、シゲが、叫んだ美雪の方へ振り向いたのだった。
こうして見ると、二人のミユキは似ていた。おかっぱ頭の二人のミユキが、視線をぶつけ合っているのだ。
「おばあちゃん? 違う、私のお母さん」
もう絶対に離すまいと母親の手をしっかりと握り締めた亡霊のみゆきが、もう一人の美雪に向かって腹立たしそうに言い返した。
透き通るようなその声は、辺りにこだまするように聞こえた。
義母を見て、周子はあっと声を上げそうになった。
義母の姿は二十代の若い母親になっていたのだ。その服装も、着物姿に見慣れないすっぽりかぶる防寒着、角巻きになっている。
「遊ぼうって約束したけど、おばあちゃんをあげるって言ってない」
「何を言っているの? お母さんは初めから私のお母さんだもの」
「違う! 昔はお母さんだったかもしれないけど、今はおばあちゃんなの!」
「お母さんは渡さない、絶対に渡さない」
敵意に満ちたぎらぎらと光る目で、亡霊のみゆきは美雪を睨みつけている。
「でも、みゆきちゃんは死んじゃったんでしょ?」
同情するように、喉にこもった声で美雪は呟いた。その声は小さかったが、車道をはさんで向こう側にいる周子にまでよく聞こえた。
「死んでなんか、いない」
亡霊のみゆきはうめくように言った。
「みゆきちゃんと遊んだのは楽しかったけれど、おばあちゃんを返して」
「いやーっ!」
この世界一杯に、亡霊のみゆきの声が轟いた。
昭和二十一年のこの世界がぐにゃりと揺らいだ。まるでそれは生き物のように、亡霊のみゆきの感情を反映しているかのように、ぐにゃりと歪んだのだ。
「渡さない、誰にも渡さない。お母さんはやっとみゆきのところへ来てくれた。邪魔をする者は皆消えてしまえ!」
空中に止まっていた雪は、生き物のように渦を巻いてうねり、目を開けていられないほど吹雪き始めた。
美雪は肩を丸めて吹雪の中で辛うじて立っていた。周子も雪が吹き付けてくるのを少しでも防ごうと、風が入り込まないように襟首に手を当てた。
「お母さんがいればいいの。あとは何もいらない」
亡霊のみゆきと義母の周りだけ、壁でもあるかのように雪が避けて通る。
義母は魂が抜かれたように、亡霊のみゆきの傍でたたずんでいる。
みゆきさえいればいい。義母はそう思っているのだろうか。息子やその嫁、孫のことなどもうどうでもいいと思っているのだろうか。
こんなに、こんなにも心配しているのに。家族なのに。
周子の目から涙がこぼれた。悲しいのではない、悔しいのだ。
一緒に生活し、供に暮らしてきたはずなのに、心を開いてくれていなかったのだと思うと、この七年間はなんだったのだろうかと、情けなくて寂しくて涙が次々に溢れた。
周子が鼻をすするのと同じく、風の音に混じって泣き声が聞こえてきた。美雪も鼻をすすっていたのだ。
「おばあちゃん、美雪のこと嫌いなの?」
映画のスクリーンが周子の前に広げられてスピーカーから音声が聞こえてくるように、吹雪の中でも、美雪の透き通った声が聞こえる。
自分の世界にこもっていたような義母のうつろな瞳が、正気を取り戻したようにその声に反応した。
「美雪……」
「おばあちゃん、行かないで」
「でも、ずっと待っていてくれたの。だから……」
「だって、行ったらもう会えなくなるんでしょう? そんなのいや……ママも、パパも泣いちゃうよ。寂しいって、泣いちゃうよ」
しゃくりあげ、鼻をすすりながら、震える声で美雪は一生懸命に思いつく限りの言葉で訴えかけた。
「おばあちゃんのお部屋はお家にある……おばあちゃんの帰るお家は、美雪と同じお家だよ……おばあちゃんがいなくなったら、おやつ貰えないもん。おばあちゃんがいなくなったら、ご飯食べるとき、美雪の横に誰が座るの? いなくならないでよう……」
風は弱くなり、いつの間にか雪はゆっくりと地上に舞い落ちていた。
大粒の牡丹雪だった。
亡霊のみゆきが、義母の顔を見上げた。
母親の顔を不安そうに見つめていた。
「みゆき、もうずっと離れないからね」
義母は安心させるようにそう言って、青白い顔のみゆきを抱き締めたのだ。義母の頬には涙が伝っていた。
今までごめんなさい。忘れようとしてごめんなさい。義母は何度も謝りながら泣いていた。